気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影11 南禅寺金地院へ

2024年07月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年2月3日、水戸の友人U氏と二度目の旧伏見城移築建築巡りに出かけました。前回の解散時にU氏が「次は長楽寺だな。来年の春ぐらいに必ず行こうぜ」と話していたのですが、その長楽寺よりもちょっと気になる寺がある、というので、今回はその寺、南禅寺金地院へと向かいました。

 朝9時、いつものように祇園四条のカプセルホテルに前泊してきたU氏と、上図の地下鉄蹴上駅にて待ち合わせました。向こうは30分ほど早く来たとかで、上の蹴上インクライン跡を見物してきたところだ、と言いました。

 

 蹴上駅から三条通を少し下ったところにある、「ねじりまんぼ」と呼ばれるレンガ造りの蹴上トンネルをくぐりました。U氏は「南禅寺へ行くならこのトンネルを通っていくと気分が出るな」と楽しそうに言いました。

 

 トンネルを抜けて南禅寺の旧境内地の路地を進みました。左手には智水庵の白い土塀が続いていました。智水庵は南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、加賀藩家老の横山家出身で明治・大正時代の金沢を代表する実業家の一人であった横山隆興の京都別邸であったところです。

 

 そして右手には何有荘(かいうそう)の門が見えました。これも南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、明治になって廃された南禅寺塔頭の跡地に築造されている約六千坪の大庭園です。明治三十八年(1905)に染色事業や映画興行で有名な実業家である稲畑勝太郎が所有し、最初は「和楽庵」と名付けましたが、その没後の昭和二十八年(1953)に宝酒造中興の祖である大宮庫吉が買い取って名を「何有荘」と改め、現在に至っています。

 

 続いて左手には南禅寺塔頭であった大寧院、法華終寺の境内地が生垣に囲まれて見えました。これも南禅寺界隈別荘庭園群の一つで、庭園は茶道藪内家の十一代当主竹窓紹智氏による作庭です。長らく非公開でしたが、2019年春から期間限定で公開され、現在は春と秋の二度の公開期間が設定されているようですが、U氏も私もまだ入ったことがありません。

 

 大寧院、法華終寺の境内地の北隣には、上図の金地院東照宮の楼門が建っていました。徳川家康の遺言で建てられた三ヶ所の東照宮の一つで、家康の遺髪と念持仏を祀っています。南禅寺金地院の境内地に含まれるため、拝観は金地院と一括で行われています。

 

 その金地院の山門が見えてきました。

 

 南禅寺金地院の山門です。U氏が「ついにやってきたぞ」と嬉しそうに言いました。

 今回のコースを長楽寺からこちらに変更したのは、前回のラストであった正伝寺本堂の見学後、正伝寺本堂が旧伏見城より南禅寺金地院に移築され、それが正伝寺に再び移築された経緯を調べたU氏が「最初に移築されたのが南禅寺金地院ならば、何か痕跡が残ってるのかもしれんな」と言い出し、「ちょっと気になるなあ」と何度も繰り返したからでした。

 

 確かに、正伝寺の寺伝によれば旧伏見城の書院の建物を南禅寺金地院に移して、大方丈および小方丈としたうちの小方丈を後に正伝寺に移して本堂および方丈にした、といいます。大方丈のほうはそのまま南禅寺に有って現在に至っているということになりますが、それが本当ならば、南禅寺金地院大方丈も旧伏見城の遺構である、ということになります。

 南禅寺金地院の寺伝でも、いま国重要文化財の大方丈に関して、金地院を中興した以心崇伝(いしん すうでん 金地院崇伝)が慶長十六年(1611)に将軍徳川家光から伏見城の一部を賜って移築したもの、と伝えています。

 しかし、慶長十六年当時の将軍は徳川秀忠であるので話が合わず、しかも現在の大方丈には移築の痕跡がみられないそうです。以心崇伝本人の日記である国重要文化財の「本光国師日記」には大方丈造営の顛末が細かく記されており、寛永四年(1627)に建立されたものと推定されています。

 それでU氏が「ちょっと気になるなあ」と話していたわけですが、同様に私も気になっていたのでした。  (続く)

 

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