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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ゆるキャン△の聖地を行く39 その10  白糸の滝

2024年07月05日 | ゆるキャン△

 白糸の滝テラスエリアから階段を下ると、本来の古くからの滝見学路に合流して左へ進みます。滝の音が依然として響いていましたが、樹木が茂っていて谷間が見えませんでした。100メートルほど進むと樹木が切れて右手の谷間への視界がパッと開け、上図のように白糸の滝の姿が見えました。

 

 その地点から少し進むと分岐があり、左手にも上図の標識がありました。遠くの富士山の白い山頂を見つつ、音止の滝というのがあるのか、と思いました。この音止の滝に関しては、前回来た時の記憶が全くありませんでしたので、たぶん見ていないのだろう、と思いました。

 

 音止の滝展望所に登ると、白糸の滝よりも落差の長い立派な瀑布が谷間の陰に白く浮き上がって見えました。両側の崖面からも数状の細い滝が落ちているところは、白糸の滝と同じでした。位置的には100メートルぐらいしか離れていませんから、音止の滝も白糸の滝も同じ地形環境に派生した滝であることがよく分かります。

 

 音止の滝展望所からは、富士山も見えました。

 

 それで富士山と見比べつつ、しばらく音止の滝の滝壺の地形を眺めました。一見すると火口跡のようにも見えますが、古富士泥流堆積物の上に白糸溶岩流が積もって、それらが水流や滝で削られていった結果の滝壺地形であるそうです。この大きさの滝壺になるまでに何万年かかったんだろう、と思いました。

 

 引き返して、白糸の滝への見学路に戻り、上図の景色を眺めつつ、坂を降りて谷間へと進みました。

 

 この辺りまでくると、前回に来た時のおぼろげな記憶の景色とピタリと重なってきました。ああ、ここだな、と思い出しました。前に来たのは平成17年の夏でしたから、ほぼ20年ぶりの、変わらぬ白糸の滝の景色でした。

 

 現地の案内説明板です。前回来た時には無かったと思います。前回の訪問の翌年に滝見橋が崩落、平成23年の東北地方太平洋沖地震などで滝壺が被害を受け、その後は富士山の世界遺産登録に向けての諸整備事業が進められて、滝壺で営業していた土産物店を移転させ、落石防止柵などの人工構造物を撤去して風致景観の整備を行ったほか、歩経路、展望場、休憩場等の整備が行われたと聞きます。

 なので、今回来て、滝周辺の景色が完全に一変していたのも納得出来ました。

 

 ですが、白糸の滝の本体そのものは昔のままであるようです。度々の地震による落石や崩落なども大半は復旧されたそうなので、平成17年夏の見物時の記憶とあまり変わらない景色が眼前に広がっていました。

 

 この、古富士泥流堆積物の上に、白糸溶岩流が積もっているのが崖面を横切る一本の筋から分かります。その筋の上下の隙間から富士山の地下水が流れ出ています。その様子が白い絹糸を垂らしたようであることから「白糸の滝」と呼ばれるわけです。

 

 気付くと、主瀑の方角に虹がかかっていました。朝早くに来たので谷間の滝壺全体が日陰にありましたが、徐々に陽光が差し込んできたので、滝の水飛沫や霞のプリズム効果が発生したのでしょう。

 

 虹は、しばらくの間あざやかに出ていましたので、滝と虹とをしばらく眺めて過ごしました。マイナスイオンも溢れていて、なにか気分も良くなってきたのでした。

 

 滝に面した見学路の脇には、上図の古い石碑が建っていました。刻字の書体からみて江戸期の遺品とみられます。

 

 石碑の近くにあった案内説明板です。江戸期の富士講の開祖であった長谷川角行(はせがわ かくぎょう)の流れを受け継いで富士講を中興した食行身禄(じきぎょう みろく)の供養碑であるそうです。

 富士講とは、江戸期の富士山信仰の民間信仰団体のことです。広義的には、富士山とその神への信仰を行うための講社全般を指しますが、狭義的には、江戸期の関東で流行した、長谷川角行の系譜を汲む宗教体系および宗教運動全般を指します。仏教考古学や仏教民俗学などの分野における「富士講」の語句も、後者にあたります。  

 その狭義的な「富士講」の聖地のひとつが、ここ白糸の滝であるわけです。  (続く)

 

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