南禅寺金地院の本堂にあたる大方丈の横へ回りました。U氏が「やっぱり規模が大きすぎるな。伏見城の縄張図で規模を調べてきたんだが、本丸や二の丸って今の二条城よりも狭いのな。それなのにこの建物は二条城の書院建築より大きいな」と言いました。
確かにその通りかもしれません。加えて、上図の外観の建築様式は完全に江戸期のそれでしたから、江戸期に現地で新たに造営された建物だろうと思います。近年の研究では、寛永四年(1627)に以心崇伝によって建立されたものとみられていますが、それが正解でしょう。
なので、この大方丈が伏見城からの移築とする寺伝は、ただの伝承にすぎないか、もしくは、移築の計画だけで終わったか、移築されたが規模が小さかったために現在の大方丈に建て直された、のいずれかの経緯を反映しているのかもしれません。
大方丈の右側には中興開基の以心崇伝を祀る上図の開山堂があります。江戸期において開山の像は方丈内部の仏間に安置される形式が一般的ですが、金地院の場合はこのように開山堂が別に建てられており、鎌倉期以来の禅寺の古いスタイルが踏襲されています。また、かつては大方丈の他に小方丈もあって、その小方丈がいま正伝寺に移築されて今に伝わりますが、この大方丈と小方丈の併置も古いスタイルです。
金地院は、もとは室町幕府第4代将軍足利義持が応永年間(1394~1428)に、南禅寺第68世の大業徳基を開山として洛北の鷹ケ峯に創建したと伝えており、それを江戸初期に以心崇伝が中興して現在地に移した経緯があります。いまの金地院が示す古いスタイルは、鷹ケ峯に創建された前身寺院の構えを受け継いでいるのかもしれません。
大方丈の前面に庭園「鶴亀の庭」の白砂が広がります。 寛永九年(1632)に以心崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州政一に作庭させたものであり、造営時には全国の大名からたくさんの名石が寄進されたといいます。
小堀遠州は周知のように江戸期を代表する作庭家で、全国各地に小堀遠州の作と伝える庭園がたくさんありますが、大部分は伝承に過ぎず、ここ金地院庭園のように史料のうえで小堀遠州の作庭であることが確かめられる事例は唯一であるそうです。
大方丈の内部を見学しました。上図の前縁部以外は撮影禁止でした。桁行十一間、梁間七間の大きな規模ですが、平面形式は典型的な禅院方丈の六間取りとなっています。前列中央の奥が仏間で、本尊の地蔵菩薩像を安置しています。
東側の奥にある「富貴の間」は、奥を一段高めて上段を設け、床および違棚、付書院を設け、帳台構を付して天井を折上げ格天井としています。各室の襖や障子腰板の障壁画に狩野派の作です。格式の高い部屋であり、葵紋をあしらった飾金具が使用されていて、武家御殿の大広間を彷彿とさせる室空間になっています。
このような「富貴の間」がある点も、禅院方丈としては極めて異例の造りですが、おそらくは徳川将軍家の御成を迎えるためであったのでしょう。
「要するにだ、ここ金地院は京都における徳川家の重要拠点でもあったわけだ、神君家康公の遺言による三ヶ所の東照宮の一つがここだし、それを遥拝する仏殿としての機能も併せ持った方丈は、将軍家の御成があっても良いように高い格式で造られてる。庭園は小堀遠州、障壁画は狩野探幽、当代一流の名人による仕事だ。最初の頃は伏見城の書院を移して使ったかもしれんが、徳川家の菩提寺となった知恩院の壮大さに比べりゃ、小さかったんだろうな、そこで寛永四年に新たに大きな建物を造営した、と、こういう流れかもしれんぞ」
U氏がそう話しましたが、それで合っているのではないかと思います。ここに伽藍を建設し始めた時には伏見城からの移築による大小の方丈があったのかもしれませんが、徳川家の拠点に相応しい大方丈を新たに造営するにあたって両方とも撤去、小方丈のみが正伝寺に移された、と考えれば、金地院方丈が伏見城からの移築とされる寺伝とも符合します。
大方丈を出て、拝観順路を進んで明智門へと向かいました。これで金地院境内を一巡したことになります。
近づいてくる明智門を見つつ、U氏が言いました。
「そういえば、徳川家の拠点である金地院の中門が、明智光秀の寄進門というのも、なんか不思議な組み合わせだな」
「あれはもとの門が豊国神社へ移されたんで、明治期に大徳寺から買い取って移したものやからな」
「あっ、そうか、そうだった。この前見てきたあの唐門がここにあったわけか」
「せや」
「それもなんかすげえ景色だったのと違うかね。国宝の三大唐門のひとつだぞ」
「せやな」
金地院を辞して、参道を北へ進んで上図の門をくぐりました。南禅寺主参道に面するこの門も金地院の建物で、下乗門と呼ばれます。金地院一山の総門にあたり、参詣者はここで馬や輿から降りて門をくぐる習わしでした。
金地院下乗門から右に曲がって南禅寺主参道に進むと、やがて上図の門が見えてきました。U氏が「よし、あれだな」と気合を入れ直していました。かつて伏見城内にあった武家屋敷の門であったもので、慶長六年(1601)に南禅寺に寄進移築されたものです。 (続く)