水戸城二の丸角櫓の見学にて印象に残った展示品がありました。上図の壁の構造を示した模型です。御覧の通り、漆喰壁の製造方法を段階的に再現して表示してあり、これはおそらく戦国期の土壁の製造法を発展させたものと推測されます。
説明板を読むと、1から4までの工程がありますが、このうち3までが戦国期の手法を受け継いでいるのではないかと思います。戦国後期に鉄砲が使われ出してから、弾が貫通しやすい板壁から貫通しにくい土壁への変換が全国的に行われたのではないか、とする論考を以前に読んだ記憶がありますが、その土壁への変換は、寺院建築の土壁の技法が参考にされているのではないか、と個人的に思っています。
そもそも、江戸期の城郭建築とくに櫓などが漆喰壁を常用するようになると、技法のうえのみならず外観的にも寺院建築とほとんど変わらなくなってきます。
日本の建築において最も歴史が長いのが神社建築、次いで寺院建築なので、室町期にやっと始まった城郭建築が先行する建築技法を参考にして、なるべく堅牢な、そして耐久性もあるものを造ろうとすると、寺院建築しか選択肢が無かった筈です。構造的には貧弱なゆえに、式年造替(しきねんぞうたい)の名目で何度も建て替えが必須となる神社建築の技法では防御戦に耐えうる城郭建築は造れないからです。
二の丸角櫓から大手門へ移動しました。以前の訪問時には土塁の残存部しか無かった大手口が、御覧のように大手門だけでなく塀も高土塁もセットで復元され、見応えある大手虎口の重厚な構えを甦らせていました。明治期の古写真が参考になったのでしょうが、江戸期の雰囲気がリアルに味わえます。
令和元年9月に復元なった大手門の裏側です。西面して建つので、午前中は内側にあかるく日があたります。
開け放たれた門口の向こうには、堀切をまたぐ大手橋を経て藩校の弘道館の現存建築群が望まれました。
大手門をくぐっていったん大手橋まで行ってみました。この大手橋は、前回の訪問時に行った時と同じ状態でした。大手門がまだ無かった頃でしたので、大手虎口もスーッと通っただけで二の丸展示館へ直行した記憶があります。
今回は、立派な大手門が水戸藩の正式な門としての格式と威容を示して建っていました。説明ガイドによれば、水戸藩成立直後に、それまで在った佐竹氏建立の門を建て替えて江戸初期の様式で一新したものであろう、とされています。
確かに構造的には古式で、戦国期の櫓門の手法も受け継がれているようです。門口は防御性を重視して狭くとり、両脇の潜り戸も設け、板壁を張った姿がいかにも古式を思わせます。個人的には、奈良県の大和郡山城の追手門に似た雰囲気があるな、と思いました。
珍しかったのは上図の両脇の瓦塀(かわらべい)と呼ばれる一種の練塀(ねりべい)でした。瓦塀はもともと寺院の土塀の一形態として平安期から存在し、現存遺構は鎌倉末期頃からのものが多いです。
京都では大徳寺や天龍寺や本隆寺、今宮神社など各地の寺社で色々な瓦塀が見られますが、城郭において瓦塀を見たのは、私の記憶の限りでは和歌山城ぐらいで、他には全然思い当りません。
なので、この水戸城大手門の復元瓦塀は、規模も大きいことによって必見のものと言えましょう。
そしてU氏のいつもの決め台詞、「水戸藩28万4千石の・・・」が。
彼の先祖は、遠くは笠間氏の分流と伝わり、江戸期には水戸藩の勘定奉行も務めた階級の上級武士であったといい、江戸期の屋敷地はいまのJR水戸駅北口バスターミナルの西側にあったそうです。
それで、先祖は水戸在住だったのか、と聞いた事がありますが、答えは「江戸に常住してて、職務によって三か月ほど水戸に滞在したようだ」でした。その水戸の屋敷地からは、この大手門はちょっと見えにくかったかもしれませんが、二の丸角櫓は見えた筈です。
大手門の脇から、下のかつての堀切の底の車道、県道232号線に連絡する階段道があります。そこを降りました。
この県道232号線が通る堀切が、かつての水戸城の二の丸と三の丸とを隔てる防御線でした。いまでは宅地化によって三の丸側がかなり削られてしまいましたが、それでも大堀切の面影は残っていました。
大手門前の大手橋を下から見ました。その規模が、そのまま二の丸と三の丸とを隔てる堀切の規模を端的に物語っています。これを見て今回の水戸城跡散策は終了となり、あとは駅までU氏と雑談をしながら降りてゆきました。 (続く)