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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その21 「水戸城の模型です!!」

2022年03月23日 | 大洗巡礼記

 二ノ丸御殿の往時の姿は、二の丸展示館にある水戸城の全体模型を見れば理解出来ます。そこで二の丸展示館へ向かおうとしたところ、U氏が「待て」と制して右を指さしました。上図の玄関口が開いていました。

 

 二中見晴らし台、とは何か、とU氏を振り返って訊くと、「この北側は水戸第二中学校なんで二中だな、その敷地の脇にある見晴らし台をそう呼んでる。杉山坂を見下ろす塁線上の展望所だな」と答えてきました。

「塁線上にあるってことは、櫓とかがあった位置か」
「いや、櫓は無かったと思う。縄張り図だと土塀がずっと続いてる位置になる」
「すると、水戸城の歴史とは無関係なのか」
「まあ、そうだ。確か天覧記恩之碑というのが建っててさ、昭和四年だったかな、ここいらで陸軍が特別演習をやった際に天皇が御覧になったという場所らしいんだな」
「そうか。そういえば水戸の陸軍の配置部隊名は?」
「歩兵第二連隊だよ」
「えっ、じゃあ、中川大佐の・・・?」
「・・・そうだ。連隊長は中川州男大佐。二階級特進されて中将だけどな」
「ペリリューか・・・」
「うん・・・」

 しばらく、二人とも沈黙しました。

 

 かつて水戸に営舎を置いた歩兵第二連隊は、太平洋戦争にて第十四師団に所属してパラオ方面に出張、その主力はペリリュー島の守備を任されて歩兵第十五連隊とともに1万余の兵力を擁し、昭和19年9月から進攻してきた米軍第一海兵師団以下5万4千の精鋭を迎え撃ちました。激戦は11月まで続き、米軍側は1万4千の死傷者を出して第一海兵師団は壊滅的打撃を受けましたが、日本軍の歩兵第二連隊も連隊長中川州男大佐以下1万が戦死して玉砕、生き残りは僅かに446名であったといいます。

 

 見晴らし台から、上図の景色を遠くまで見渡しながら、U氏が呟くように言いました。
「この水戸平野で訓練し景色を胸に刻んだ将兵1万が、祖国の為に戦って散ったペリリューへ、星野は行ったんだっけな」
「ああ、国の戦跡巡拝遺骨収集団に参加して行った。平成五年の夏だったかな、あわせて70柱ほどの遺骨を拾って、千鳥ヶ淵に納めたよ」
「立派だ、実に立派な行いだ。歩兵第二連隊の英霊をよくぞ連れ帰ってくれた」
「・・・・」

 

 歩兵第二連隊の兵士たちが憩いの際に見上げたであろう、水戸城二の丸の大きなシイの老木を見上げました。自生と伝わり、樹齢は約400年余りとされていますから、関ケ原合戦の前後ぐらいに芽を出したということになるのでしょうか。

 当時の水戸はまだ佐竹義宣の支配下にあり、常陸国35万石の中心城下としての水戸もまだ整備中で、水戸城自体もまだ本丸地区のみであったとされています。現在の二の丸地域がどのようであったかはよく分かっていません。ただ、この自生のシイの木を残して伝えているぐらいですから、戦国末期までは自然のままの尾根地域だったのかもしれません。

 

 この大シイは、説明板にもあるように、水戸市の天然記念物に指定されています。

 

 大シイの下から北西方向へ100メートルほど歩いて、上図の二の丸展示館に着きました。ここが水戸城跡の観光ガイダンス施設となっていて、水戸城の全体模型も展示されています。

 

 早速、館内展示室中央の水戸城全体模型を見ました。さきほど見てきた本丸地区の範囲を見ました。
「この大手口にある門の位置はおかしいよな」
「推定模型やからしょうがないやん」
「それはそうだが、この推定の門の位置もおかしい。こんな構えの虎口があるもんかね」
「僕に文句を言わんといてくれんか・・・。お前が地元で水戸藩士の末裔なんやから、水戸藩の誇りにかけて文化財担当者にアドバイスしたらええのとちがうか・・・」
「俺にそんな権限は無い。むしろ星野が文化財行政にも関わってたんだから、それとなく助言すれば良かったんだよ」
「無茶を言うなよ、僕は水戸城跡関連の諸行政とは全く関わりが無いし、以前に協力していたのも県の悉皆調査のほうやったんやで」
「ああ、そうなのか・・・」

 

 続いて杉山門と杉山坂の範囲を見ました。
「杉山坂って、こんなんやったんやな」
「だろうな。坂道をまっすぐ登って塀に突き当たる。左に曲がって杉山門を通る。有事の際には門を固く閉めて坂を登ってくる敵を三方の塀の塁線上から迎え撃つ。杉が立ち並ぶことによって敵は城への視界が限られて死角が多くなる」
「うん、わかる」
「そこで、鉄砲三千挺を塀上に並べて撃ちまくる・・・」
「待て」
「なんだよ」
「水戸藩の鉄砲保有数は三千挺なんかね」
「いや、これは長篠の信長鉄砲隊の数だ」
「水戸とは関係あらへんやないか・・・」

 

 続いて二の丸の中心を占めた御殿の区域を見ました。
「なかなか立派なもんやね・・・」
「そうさ。なにしろ水戸藩28万4千石の城の御殿だからな」
「待て」
「なんだよ」
「水戸藩ってのは実収石高は35万石だったと聞いたんやけどね?」
「それは寛永検地の後の公称の石高だな。慶長の藩祖頼宣の頃は25万石、水戸家初代の頼房の時に元和の加増で28万4千石になったのさ。もっとも寛永以降も公称は28万石で通したらしい。実収もさ、35万石ということになってるが、実態の伴わない石直しを何度もやってるから、せいぜい30万石ぐらいがやっとだったという説もある」
「なんでや?石直しってのは、帳簿上の石高と実際の石高が合わなかった時に帳簿のほうを修正するんやろ?それを何度もやってて、なおかつ実収石高が35万石に満たないというのはどういうわけや」
「そりゃあ、水戸藩は御三家中で唯一の江戸定府になってたからだよ」
「江戸定府・・・、ああ、なるほど、そうか・・・価格差かあ」
「そう、星野なら分かるだろうけど、江戸と水戸との間の物価差が常にあるわけだ。藩主以下主な藩士は江戸常住だけど水戸にも屋敷とか職分があるから帳簿も二重になってしまうよな。しかし基準の物価は江戸に合わせてるから高いほうの値段で帳簿に書く。水戸の1石が江戸じゃ値上がってるから1.5石ぐらいで取引されてしまう。それで幕閣での公称石高は水戸中納言家としての格式にも繋がるから35万石となってるが、これは江戸の物価で計算しての数値だから、実際の水戸の石高はそれより少ないのが常態となる」
「ああ、よく分かるな、だから何度も石直しをやったわけか」
「そうだ。それでも物価が今と同じで上がり続けていたから、江戸と水戸との帳簿上の差はなかなか埋まらないわけ」
「そういうことやな・・・」

 

 二の丸御殿の一角には、当時は「御三階」と呼ばれた実質上の天守櫓が位置していました。昭和まで残っていましたが、太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。そのことが残念でならないのか、U氏はいつも「これの復原は水戸市民の悲願であるぞ」と言います。

「これは今回の復元事業では対象外やったのかね?」
「いや、最初の計画案では確か、御三階も復元しようかっていうね、意見もあった筈だよ。選択肢としては最上というか、シンボルの再興ということになるからな。でも位置が三高の敷地内にあたるんで、三高を立ち退かせないといけなくなる。そんな余裕は無かったところへコロナ流行でいっぺんにパアになった感がなくもない」
「なるほど」
「それにさ、今回の水戸城歴史的建造物復元整備事業というのも、二の丸角櫓の完成で完了ということになってる。市の財政面からも当分の間は次の整備事業というのは無理だ。大体、今回の復元工事だって予算の大半を市民からの寄付浄財でまかなってるんだぜ」
「それは聞いてる。大したもんやねえ。事業そのものも計画して発掘して建設して10年以上かかってるんやってね」
「そうだ、水戸藩28万4千石の誇りだぞ」

 

 御三階の南西の塁線の隅にU氏がさし指をすーっと移動させながら、「これから行く櫓はここだ」と言いました。

 

 この二の丸隅櫓です。今回の水戸城歴史的建造物復元整備事業のラストとして令和二年10月に竣工しました。
「この櫓が復元対象に選ばれたのは、もちろん城下町の大手筋から一番よく見える櫓で、かつ城下のシンボルとして江戸期を通じて親しまれた歴史があったからだな」
「待て」
「なんだよ」
「城下のシンボルってことは、他にはこういう櫓が無かったということかね?」
「まあ、そういうこともあっただろうな。水戸城の櫓の数は他の城に比べたら最低限でさ、本丸にだって櫓はひとつしか無かったし、石垣も無かったんだぞ・・・。御三家のなかじゃ一番地味だったんだ。尾張や紀伊みたいに立派な天守閣を構えることもせずに御三階で済ませてるしな」

 

 地味な城、というのはよく分かりました。模型で見ても石垣が表されていない土造りの素朴さが濃厚に感じられ、表玄関口にあたる大手門の構えすら地味に見えてしまいます。この大手門も復元されており、後で見に行く予定でしたから、この模型で江戸期の姿を捉えておくのは、よい予習になりました。

 

 そして大手門と堀切をはさんで西側には三の丸が広がります。大手門と向かい合う位置には藩校の弘道館の施設があります。この弘道館はいまも主要建築群が現存して国の重要文化財に指定され、一般公開されています。弘道館は以前にU氏の案内で行っています(見学記事はこちら)ので、今回の見学では立ち寄りませんでした。

 

 とにかく何度みても勉強になる水戸城全体模型でした。模型にあまり縁のない見学者でも楽しく見てゆくそうですから、模型好きの私には大変に楽しい展示品でありました。全国各地の城跡へ行くと、大体は現地の資料館などにこういった城の模型が置いてあるので、それらを見て回るのも個人的な楽しみの一つでした。

 ですが、地元の京都市の二条城においては、資料館はおろかガイダンス施設すら存在しませんから、全体模型も置いてありません。二条城の東向かいにあるANAクラウンプラザホテル京都に菓子職人が砂糖で作った全体模型がありますが、まだ見たことがないので、いずれ行かなければ、と思っています。  (続く)

 

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