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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

牛尾山法厳寺 下

2023年12月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 法厳寺本堂の前庭に設けられた、参拝客および特別公開見学者のための休憩所テントにて、住職らしき僧形の方から冷たいお茶をいただきました。嫁さんが「ここの住職様ですか?」と尋ねると、僧形の方は「そうです」と答えました。その横で色々と手伝っている若い女性は、どうやら住職の娘さんのようでした。

 その娘さんが、上図の建物を指差して「あちらでもお休みいただけますんで、どうぞごゆっくり」と話しかけてきたので、嫁さんが「あれは庫裏ですか、僧坊ですか」と訊くと、「まあ庫裏の客殿みたいなもんですけど」と答えてきました。外観的にはかつての修行僧や修験者が泊まる宿坊を兼ねた建物だろうな、と推察しました。

 この法厳寺は、もとは天台宗に属したようで、その流れで天台宗系の修験道であった本山派の拠点寺院としての歴史を刻んだようです。本山派は、明治維新後の神仏分離令および明治五年(1872)の修験宗廃止令によって、天台宗に強制的に統合される形で消滅していますが、本山派の中心であった聖護院(京都市東山区)はこの一連の措置に反発し、結果的には第二次大戦後に本山修験宗として再び独立し、現在に至っています。
 その流れに法厳寺もならったようで、現在は聖護院を本山と仰ぐ本山修験宗に属しています。

 

 つまりは法厳寺は、音羽山系を統べる山岳修験の中心的寺院として、かつては多くの遊行の聖や修験者が行き来して山頂での修行などに励んだ霊地であったわけです。その歴史は、本堂の右手後方の山裾にいまも祀られる経塚(きょうづか)などに象徴されています。

 経塚とは、経典を土中に埋納した塚のことです。これの造営は仏教的な作善行為の一種とされ、経塚造営に関する一連の供養、儀式を埋経(まいきょう)といいます。平安時代に流行し、担い手の多くは廻国聖(かいこくひじり)と呼ばれた遊行の聖や修験者であったそうです。

 

 嫁さんが「じゃあ、この地面の下にはお経が埋められているの?」と訊いたので、「そういうことになるな、後に掘り出したりしてなければな」と答えました。

「じゃあ、もし発掘とかやって遺品が出てきたりしたら、文化財に指定されたりするの?」
「経塚の遺品はだいたい平安期から鎌倉期のものが多いからな、今までに発掘で検出確認された遺品はたいてい文化財指定を受けてるな」
「ふーん、貴重な歴史的遺産なんですねえ」
「有名なのは、奈良吉野の大峯山寺の経塚遺品やな。藤原道長が寄進造営したもので、現在は国宝になってる」
「国宝があるのかあ、重要文化財のもいっぱいあるんでしょうか」
「ああ、全国各地にある」

 

 経塚の奥には上図の「金生水」と呼ばれる湧水が霊水として祀られています。法厳寺の縁起によれば、寺の開基とされる延鎮(えんちん)が、霊夢により金色の水源を求めて辿りついた場所であるとされています。

 その延鎮に関して住職が簡単に説明していた時に、嫁さんは「えんちん」を円珍のことだと思ったようで、「天台宗の寺門派の始祖のあの人?」と小声で私に訊きました。
「いや違う、別人や。読みは同じやが、こっちの方は漢字で書くと延長の延、鎮守さんの鎮や。清水寺の開基でもある」
「あっ、清水さん(清水寺)の開基さんなのか、こちらにも来ていたから、ここが清水さんの奥ノ院になったのね」
「厳密にはちょっと違う流れかもしれんが、伝承的には、そういうことになっとるわけやな」

 

 「金生水」の湧水は本堂の背後に掘られた井戸に集約されているようで、上図のように閼伽井の体裁に整えられて覆屋が設けられています。開基延鎮ゆかりの霊水ですから、寺でも大切に守っているのでしょう。

 ここで補足しておくと、延鎮は大和国出身でもとは法相宗に属した僧であります。奈良吉野山の山岳修行者であり子嶋寺の開基となった備前国の報恩法師の弟子となり、後に宝亀九年(778)に京都東山にある乙輪山(音羽山)に移りました。延暦十七年(798)に坂上田村麻呂は乙輪山に山荘を作り、その山荘を寺にするべく延鎮を開山として招きました。その寺が現在の清水寺です。

 法厳寺の縁起にみる法厳寺の創建伝承は、清水寺のそれとほぼ同じで音羽山の山名も一致しています。したがって、実際には天台宗の大拠点であった清水寺が教線を拡大した時期に、周囲の山岳霊地を支配下に置くなかで天台宗本山派の修験者が山科にも進出して牛尾山に入り、ここに法厳寺を創設して拠点として整備し、清水寺の山号と縁起をそのままコピーして奥ノ院となしたのが始まりではなかったか、と思います。

 

 なぜそのように考えるかというと、法厳寺の位置がいわゆる古代、中世における「境目の寺」に該当するからです。現地は現在でも京都府と滋賀県の県境にあり、つまりは山城国と近江国との境目にあったわけです。

 天台宗は平安京を完全に宗教的支配下において皇室権門の信仰を一手に集めるべく、山城国の四方の国境に拠点寺院を整備し、比叡山を鬼門の守護と位置づけました。そのうえで東山にある清水寺、近江の園城寺の両方に連絡出来る山岳寺院を求めて牛尾山に着目し、北麓の東海道をおさえると同時に南麓の近江から伊賀への交通路をも掌握していったのではないか、と思うのです。

 その場合、牛尾山の法厳寺は絶好の適地に位置して、滝行などの昔からの山岳修行場であった環境が活かせることになります。それで、寺を創設するにあたっては、現地の宗教施策上の重要性にかんがみ、清水寺の後方にあたる地理関係が考慮されてその奥ノ院として整備されることになったのだろう、と推察しています。

 清水寺の奥ノ院としておまつりするのですから、創建にまつわる事情は原則的に清水寺のそれが援用されることになります。現在の音羽山の名も、おそらく東山の音羽山から持ってきたのでしょうし、音羽山の旧名ともされる牛尾山の名が今に伝わっているのも、もともとの山名が牛尾山であったからであろう、と個人的に推測しています。

 上図は本堂です。江戸時代の建物で、平成30年に京都府の暫定登録有形文化財に登録されているそうです。

 

 住職の案内で、他の数人の参拝客とともに本堂にあがりました。本山修験宗の寺院だけあって、内部の調度や什器類が密教系の雰囲気にみちたものばかりでした。山岳修験の御堂を彷彿とさせる内部空間でした。

 

 特別公開されていた本尊の十一面千手観音立像です。清水寺の本尊と同じ尊像で、厨子におさめられ、その両側に不動明王像と毘沙門天像が侍立しています。天台宗寺院によく見られる「観音・不動・多聞」の三尊安置形式です。その三尊が安置される須弥壇の四方の柱には曼荼羅の主要尊像が描かれて密教の世界観を立体的にみせています。

 

 さらに本尊の厨子は、驚くべきことに、古代の建築様式の要素もとどめた宝殿形式の珍しいものです。屋根下の垂木が放射状に広がる点や、四隅の尾垂木の先端が屋根の上に蕨手状に丸くなる点は、飛鳥時代の建築にみられる特徴です。厨子そのものの年代は中世期とみられますので、こうした古代の宝殿形式の姿は何らかの古代遺品をモデルにしたのだろうと思われます。

 その意味で、江戸時代の地誌「都名所図会」などがこの本尊像を天智天皇の手彫りと伝え、飛鳥時代の天智二年(663)の白村江(はくそんこう)での敗戦後、天智天皇が近江大津宮に遷都した際に刻んだ像がのちに寺に移された、とするのは何らかの歴史的背景が介在した可能性を思わせます。

 

 ですが、厨子内にまつられる本尊のの十一面千手観音立像は典型的な藤原時代の作風を示しています。飛鳥時代に天智天皇が近江大津宮に遷都した際に刻み、のちに寺に移されたといわれる像には該当しないことが分かります。

 つまり、飛鳥様式の余香を伝える古代宝殿形式の厨子とはミスマッチであるわけですが、しかし、ただのミスマッチとも思われないな、というのが正直な感想です。なにか今では失われた、もしくは秘められた歴史があったのかもしれません。

 

 たまたま、住職と若い学生とみられる見学者の方が、有り難いことに、参拝客のために本尊像を懐中電灯で明るく照らし出して下さいました。撮影OKと伺っていたので、その直前からデジカメの望遠モードで暗い厨子内を覗いていましたが、たまたま懐中電灯で明るく照らされたので、思わず撮りました。同時に、本尊像の制作年代も分かりました。

 

 嫁さんが一緒にスマホで撮っていて、画像を再生して「綺麗なお顔ですねえ、平安時代の仏さまですねえ」と感動していました。その通り、平安時代の後期つまり藤原時代の作です。絞り込めば、十二世紀の前半期になるかな、と個人的には拝察しました。

 清水寺の本尊の十一面千手観音像は、2000年の33年毎の特別開帳で拝観した限りでは鎌倉期以降の作に見えましたので、奥ノ院のこちらの本尊像のほうが古い遺品であることになります。現時点では未指定ですが、各所に痛みがみられるとのことで、保存修理措置を含めての文化財指定が急がれていると聞きました。

 その後、住職が本堂の手前の右側に立つ護摩堂に参拝客一同を案内し、本尊の不動明王坐像も公開してくれましたが、そちらのほうが痛みが激しく、後補部分が多かったので、そちらも保存修理措置が必要だなあ、と感じました。ただ、像そのものは本尊像よりも古い作風を示しているので、個人的には、十一世紀に遡るだろうか、と推測しました。

 以上で法厳寺の特別公開の見学が終わりました。初めての隠れ古寺に来られて楽しかった、大満足ですー、と笑顔で参道を降りていく嫁さんの後に続いて、行きにさんざん苦労した長い参詣道を、約1.5キロ先の麓のバス停までひたすら降りていったのでした。  (了)

 


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