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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その14 「三名瀑の一です!!」

2022年02月21日 | 大洗巡礼記

 袋田の滝は、往古は滝壺に近い四度滝不動堂の奥之院から見上げ、昭和54年に袋田の滝トンネルが完成して後は第1観瀑台から見上げるのが滝見物のパターンでした。上図は第1観瀑台からの眺めですが、落差約120メートルを四段に流れ落ちる滝の三段目に近いため、滝のアップが眼前に広がって迫力は感じられるものの、上図の通り滝全体を捉えるのは難しく、最上段の滝はほとんど見えないという難点がありました。

 

 そこで、平成20年に第1観瀑台より約50メートルの高さの、約10メートル後ろに下げた位置に第2観瀑台が新設され、上図のように滝の最上段とほぼ同じ高さに最高視点を確保して、滝全体を俯瞰出来るようになりました。第2観瀑台は3つのデッキからなり、第1デッキは第1観瀑台よりも約44メートル、第2デッキは約48メートル、第3デッキは約51メートル上にあるため、滝の全容を三段階の眺望高によって楽しめるようになっています。

 同時に個人的には、この滝を天然の水濠と見立てた天険の要害、月居城の有る月居山の峻険なる威容をも目の当たりに出来てより楽しめました。上図の滝の右側の急斜面が、月居山の西崖です。

 

 その要害の月居山よりも更に険しい地形が、滝をはさんだこちら側、第2観瀑台の西側に聳える上図の断崖でした。この凄まじい段差が、戦国期の月居城の鬼門を護って敵を寄せ付けず、常陸大子に南下してきた白河結城氏もこれを越えられず、古河公方家の足利政氏・高基の内紛に際しても佐竹義舜方の勢力圏の北限を維持して「月居番」の戦略的重要性を誇示したのでした。

 

 その息をのむような断崖絶壁の真下に、かつての四度滝不動堂奥之院、江戸期までは「本殿」または「奥殿」と呼ばれたかつての「奥之院」の堂が残されていました。江戸期の懸造(かけづくり)建物で、かつての滝見物の名所でもありました。時折改修がなされて維持されていますが、滝川沿いの参道の高低差が大きいうえに危険なので、現在は一般の立入りは禁止となっています。

 昭和54年に袋田の滝トンネルが完成して第1観瀑台からの滝見コースが定着した後に、従来の参道(遊歩道)は寺専用の保全路となって今も残されていますが、そのルートは滝に最も近づいて滝壺のすぐ横を回るので、今とは違った眺めが見られたことでしょう。この奥之院までの途中に滝の参拝所があったそうですが、現在は袋田の滝トンネルの一番奥に移設されています。

 

 第2観瀑台にて滝見を楽しんだのは御覧のように12時28分のことでした。気温は2.2度で、有名な氷瀑が形成されるにはもう少し寒さが必要でした。

 

 第2観瀑台へはトンネル内のエレベーターで上り下りしますが、そのエレベーターの中で見た見学コース案内図。エレベーターの位置が分かります。

 

 トンネル内のエレベーターの出入口。

 

 袋田の滝の四季のポスター。右端の冬の「氷瀑」が三名瀑の一としての袋田の名を高からしめています。

 

 ちょっとブレてしまいましたが、袋田の滝トンネルの一番奥に移設されている、かつての奥之院までの参道途中にあった滝の参拝所。本尊不動明王の分身をお祀りしています。

 

 その立派な寺名碑は、昭和54年の建立でした。同年に袋田の滝トンネルが完成した際、四度滝不動堂の参拝路を新たにこちらに移す事になったのを記念しての造立でしょうか。

 

 帰路はトンネル内をそのまま戻るのではなく、途中から左の順路にそれて外に出て、かつての参道に合流する滝川沿いのルートをたどりました。そのルート上の吊橋を渡る前に、一度振り返って滝を見上げました。見どころの多い、三名瀑の名にふさわしい素晴らしい自然の景観だった、としばらく感動の余韻に浸りました。  (続く)

 


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