JR清水駅からバスに乗り、上図の終点のバス停「世界遺産三保松原」に着きました。バス停は三保松原の中央やや南寄りの内側に位置しています。バス停から三保松原の園路入口まではすぐでした。
三保松原の園路入口です。左手が三保松原の稜線になります。高い土手になっており、防風林、防水林としての機能を併せ持っていることがうかがえます。
園路入口の案内板です。初めて来たので、総延長7キロメートル、5万4000本の松林が生い茂る広い海浜のどこへどう行っていいか分かりませんでした。とりあえずガイダンス施設である「みほしるべ」に行って、三保松原の基本情報を学んで、そこに設置されているゆるキャンのキャラクターパネルを見に行こう、と決めました。
これが三保松原ですか・・・。昔から名前だけは聞いていましたが、確かに松林ですな。大洗海岸の松原を思い出してしまいました。
羽衣の碑、ですか・・・。三保松原は、北に鎮座する延喜式式内社、駿河国三ノ宮の御穂神社の鎮守の杜として崇められ、守られてきた所ですので、御神体も松であるそうで、特に「羽衣の松」と呼ばれているそうです。それに関係した記念碑かな、と思いました。
ですが、近寄ってみたら、フランスのダンサー、エレーヌ・ジュグラリスの記念碑でした。彼女は舞踊家として日本の能楽をも研究し、三保松原に由来する「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣の舞」を発表した方です。それで来日して伝説の舞台となった三保松原を訪れたいと希望していましたが、病気のため叶うことなく35歳の若さで亡くなりました。
「せめて髪と衣装だけは三保の松原に」との遺言にしたがい、夫のマルセルが彼女の衣装と遺髪を持って来日しました。その後、昭和二十七年(1952)に地域住民により、エレーヌの功績を称えてこの上図の「羽衣の碑(エレーヌの碑)」が建てられ、その碑の袂には彼女の遺髪が納められたといいます。
「羽衣の碑」の近くに、ひときわ立派な枝ぶりをみせる幹の太い老松がありました。直感的に「御神体の松じゃないかな」と考えましたが、正解でした。
駿河国三ノ宮の御穂神社の御神体と崇められる、「羽衣の松」の案内板です。ただし、上図のように三代目となっています。
後で「みほしるべ」の展示説明文を読んで知ったところによれば、「羽衣の松」の初代は宝永四年(1707)の宝永富士山大噴火の際に海に沈んだと伝わります。二代目は樹齢650年のクロマツでしたが、立ち枯れが進んだために平成二十二年に近くにある別の松を三代目に認定して世代交代し、その翌年に約3メートルの幹を残して伐採されたということです。
「羽衣の松」の東側、海に面した場所に上図の羽車神社がありました。御穂神社の離宮で、羽車磯田社とも呼ばれるそうです。御神体である「羽衣の松」の横に鎮座しますので、本来は「羽衣の松」の祭祀拠点であったのだろうと思われます。
羽車神社の境内地は、御覧のように松原と海浜の境目に位置しています。境内地の東側に砂浜が広がっています。
おお、海だ・・・。駿河湾だ・・・。
こうして松原を海岸から見渡すと、防風林、防水林であることがよく分かります。海岸は常に横風が強く吹いていて、それが御穂神社や宅地や農地に及ばないように、高く土手を築いて松林を造成したのが始まりだろうと思います。三保松原に限らず、全国各地にこのような海岸の松原が普通にありますが、ここは特に規模が大きいことで知られているわけです。
三保松原の海岸には広い砂浜がありました。これでも昔よりは小さくなっているのだそうで、既に1980年代から海岸浸食による消失の危機に見舞われているそうです。
それで、静岡県が平成元年2月に海岸保全事業を策定し、海岸から100メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置したり、離岸堤式ヘッドランド(人工岬)やL字突堤型ヘッドランドを設置して波による浸食を抑え、砂を補給したりして養浜対策を講じているそうです。
それを知って、京都府の天橋立と同じ問題に直面してるわけか、と思いました。天橋立も流水浸水による縮小、消滅の危機にあるため、砂浜部分に養浜を行うために砂州上に小型の堆砂堤を多数設置し、流出する土砂を食い止めているそうです。 (続く)