気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影10 正伝寺境内にて

2024年05月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 正伝寺本堂の妻飾りの懸魚に徳川葵の紋を確認したことで、その徳川期伏見城御成殿としての由緒がほぼ確定しました。残る問題は、御成殿とともに伏見城より移築された御前殿のことでした。正伝寺においては仏殿にあたる法堂として使用されたそうです。

 本堂を退出する際に、受付にてその法堂のあった場所を尋ねたら、本堂の一段下の前にある平坦地の中央、と教えられました。鐘楼が建ってる場所の奥、ということでした。

 

 本堂の一段下の平坦地に向かいました。上図の通り、鐘楼が見えました。

 

 鐘楼の近くに行きました。明治期に建て直されたものだそうです。

 

 「鐘楼が建ってる場所の奥、というと、この辺りか」とU氏が周囲を見回し、連絡通路が左の傾斜面に付けられているのを確かめつつ、言いました。上図の、鐘楼の斜め後ろ、奥に見える本堂の前にあたる位置でした。
 伽藍の中心軸線に沿った位置であるうえ、他にそれらしい広い平坦地がありませんでしたので、消去法的にこの場所に絞り込まれました。

 かつて建っていた法堂は、江戸期に建て直された後、明治期に東山の長楽寺に売却されて、現在は長楽寺の本堂になっています。その長楽寺の名に、U氏は敏感に反応しました。

「長楽寺だと?円山公園の奥の?」
「知ってるんかね」
「ああ、水戸藩の京都における本国寺党の志士たちの墓所がある。一度お参りに行ったな」
「それは初耳や。水戸藩士の墓所があるのか・・・」
「なんだ、星野は知らなかったのか。長楽寺に行った事はないのか」
「いや、大学生の頃に一度行った。国重要文化財の一遍上人彫像を見学に行ったの」
「なるほど、仏教彫刻史専攻としては見ておかないといけない文化財資料だもんな」
「もう30年以上昔なんで、本堂とかも全然記憶が無いねん、水戸藩士の墓所ってのは本堂の横とかにあるの?」
「横じゃなくて裏山のちょっと高い場所にある。少し山道を登らないと行けない」
「それは、たぶん登ってないと思う」
「そうだろうな、星野は一遍上人の像だけ見て満足して帰ったんと違うか」
「うん」

 それで、現時点では長楽寺の本堂がちょっと気になる、江戸期に建て直されたというが、伏見城からの移築建築の面影があるかどうかを、いずれ見に行く積りだ、と話しましたら、U氏も「必ず同道する。決まったら連絡をくれ」と応じてきました。

 

 それから、Uが言うままに、法堂跡の左手の傾斜面に付けられた通路階段を登ってみました。その通路は本堂方丈の唐門へと通じていました。

 

「つまり、法堂が仏殿だった頃は、今本堂になってるこの御殿は方丈、つまりは客殿として使われてたのかもしれんな」
「そうやろうな」
「明治期に何らかの事情で法堂が売却されて長楽寺へ移転して、そのあとは方丈が本堂の仏殿となって今に至る、と、こういうわけだな」
「そうやろうな」

 

 唐門の建物については、江戸期の再建、という以外に情報がありませんでした。江戸期に法堂が建て直されたのに伴ってこれも建て直されているのかもしれません。

 

 建物の様式そのものは古式に倣ったようで、つまりは室町期の建物を模したかのような有様でした。もとの唐門が室町期の建物だったのかもしれませんが、寺伝においても詳しい事は分かっていないようです。

 

 唐門に繋がる土塀は割合に低いタイプでしたので、あまり背が高いほうではないU氏や私でも、背伸びをすれば塀の中がよく見えました。初めて伏見城御成殿だった建物の優雅な全容を見る事が出来ました。

「これが御成殿だったとすると、いまの建物にゃ式台や通廊の施設が無いから、それに付属する御前殿があったというのは納得出来るな」
「せやな」
「御前殿というから、御成殿の前につく殿舎なわけで、玄関とかがあって、そこから廊下で御成殿へ繋がってて、将軍家は式台から廊下で奥の上の間へ御成りになる、と、こういうわけだ」
「そういうイメージでええんやないかな」

 かくして、かつての伏見城の御成殿と御前殿が、ともに正伝寺に移築され、一方は方丈、もう一方は法堂として使われた、という流れが明快に推定出来ました。伏見城の面影が、いまなお確かに見て取れるのでした。

 

 なので、思った以上の成果があったと思います。二人とも大満足で参道石段を降りてゆきました。

 

 参道筋の通用門の脇に、上図の鎮守社とみられる朱塗りの社殿が鎮座していました。寺の総門と同じく東を向いています。正伝寺が弘安五年(1282)に再興された際、賀茂社社家の森経久が援助したといいますから、もともとこの地は賀茂社の所有地であったのかもしれません。

 現地の地名も西賀茂ですから、もとは賀茂社の末社の境内地であったのかもしれませんが、そうであれば、その社殿の由緒がいまもこの朱塗りの社殿に受け継がれているのでしょう。

 

 境内社から山門へと抜ける途中にあった、中世期の石塔。五輪塔や灯籠などの幾つかの石造品のパーツの寄せ集めでした。他にも似たようなパーツが林間に点在していましたので、中世期には墓地なども営まれていたのでしょう。

 

 山門を出て、門前にて二人揃って向き直り、寺の方角に一礼しました。

 時刻は11時41分でした。市バスで北大路バスターミナルまで戻り、イオンモール北大路の食堂街にて昼食をとり、それから地下鉄で京都駅まで移動し、15時過ぎの新幹線で帰るU氏を改札口まで見送りました。

「次は長楽寺だな。来年の春ぐらいに必ず行こうぜ。水戸藩士の墓所も案内してやる」
「長楽寺だけ?他に行きたい所はないんかね」
「伏見城の移築建築、まだあるんなら、見に行きたいな。どこにある?」
「養源院や」
「あ、養源院か。三十三間堂の向かいだったか。まだ行ってないな・・・」
「なら長楽寺と養源院で決めとこう。あともう一ヶ所ぐらい考えとくわ」
「宜しく頼む」

 ということで、握手して解散したのでした。  (続く)

 

コメント
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