気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

栂ノ尾高山寺1 栂ノ尾の古刹へ

2024年05月08日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月11日、嫁さんが高山寺に行きたいというので、昼から出かけました。地下鉄東西線に乗って太秦天神川駅まで行き、そのバスターミナルから上図の市バス8系統に乗り、終点の「栂ノ尾」で降りました。「栂ノ尾」は「とがのお」と読みます。

 この時期、紅葉のピークは過ぎていましたが、山々にはまだ赤や黄の色彩が残り、もともと人気の観光地だけに賑わっていました。バスも満員でしたが、手前の「高雄」バス停で大部分が降りていきました。高雄の神護寺が紅葉スポットの人気ナンバーワンであるのは、昔も今も変わらないようです。

 

 バス停となっている広場の横に、上図の高山寺裏参道の入り口がありました。が、私自身は「あれ?」と思って立ち止まりました。嫁さんも同じように立ち止まり、横から訊いてきました。

「どうしたんです?なにかあるんですか?」
「いや、高山寺の参道って、こんなんやったかなあ、と思って・・・。ゆるやかな階段道やったような記憶があるんでね・・・」
「これは裏参道ってありますよ、表参道が別にあるみたいですね。そっちのほうが記憶にあるんじゃないですか?」
「かもしれない。高山寺に来たのは随分久しぶりの事やからね」
「前回はいつ来られたんですか?」
「造形大(京都造形芸術大学・現在の京都芸術大学)に通ってた頃やから、2000年頃やな。平成12年頃か」
「すると23年前ですかー、大昔ですねえ」

 高山寺に参ったのは、その平成12年頃の前は大学時代の昭和62年だけであった。近くの神護寺へは特別開扉などで10回ぐらい参っているが、こちらの高山寺は、仏教彫刻史専攻であった私が関心を寄せていた彫刻遺品の全てを京都や奈良の国立博物館へ委託しており、見るべき文化財が石水院しかなかった事もあって、あまり関心が向かず、2回しか訪れなかったのでした。

 それで今回は三度目の参拝となりましたが、以前の2回の参拝時の記憶がかすれ気味になっているため、初めて来たような感覚がありました。嫁さんは丹波の人なので、この辺りには昔からよく来ていたそうで、「わりと色々思い出がありますよ」と話していました。

 

 裏参道をそのまま進むと、折り返して急な石段になりますが、その突き当りに上図の案内板と史跡石標が立っていました。

 

 案内板です。嫁さんが読んでいて、「創建が宝亀五年、って天平時代ですよね、そういえば高山寺の一番古い仏像って天平時代のものですよね」と訊いてきました。

「あれは違うね。もとは丹波の金輪寺の本尊やったの、ここ高山寺の明恵さん(明恵房高弁・明恵上人)が金輪寺が荒れ寺になっていたのを再興した際に、ボロボロだった本尊の薬師三尊像を高山寺に引き取って、それが今に伝わってるの」
「ふーん、そうなのですかー、金輪寺って丹波のどこにあるんですか」
「確か、宮前町やったかな、修験道のお寺やで。本山修験宗やったかな」
「あー、神尾山のお寺ですね、行ったことあるかも」

 

 それからの石段道は、上図のとおり崖面に何段にも築かれた石垣の塁線に沿ってジグザグに登る急な道でした。まるでどこかの戦国期の山城跡へ登って行くような感じで、嫁さんは「こういうのって風情がありますよねえ」と楽しんでいましたが、こちらはハアハア、ゼイゼイの繰り返しでした。

 

 急な石段道の途中の景色。石垣に囲まれて幾つかの平坦面があり、東屋などが置かれていますが、付近はなぜか立ち入り禁止になっていました。苔庭の保護と、安全対策のためでしょうか。

 

 石段道を登り切って平坦な参道になったところで、上図の大きな境内案内図を見ました。実際の地形を無視して広い平坦地に伽藍が広がっているように描かれています。
 嫁さんが「さっきの急な石垣と階段の道のところ、適当に端折ってるですよ、下の車道が青いんで川に見えましたよ」と笑っていました。

 

 近くには上図の新しい案内説明板もありました。平成6年に境内地が世界文化遺産に登録されたことをうけて文化庁が設置したものです。

 

 そして今回、嫁さんが高山寺行きを言いだした理由である、金堂の初公開にともなう参拝順路への案内板がありました。高山寺の金堂はずっと非公開とされ、これまでに特別公開されたことも無く、私自身もこれまでの2度の参拝で金堂だけは全然見ていませんでした。

 それが2023年秋に初めて公開されたのですから、古社寺が大好きな嫁さんが見たいと言い出すのも必然であり、私も興味を持って共にやってきた次第でした。

 

 金堂へは、裏参道をずっと登って行く形になりました。左右に連なる石積みは、かっての堂宇や塔頭、子院の跡地であり、昔の高山寺が広大な敷地内に多くの堂塔建築を並べて栄えていた歴史をしのばせます。

 

 奥に行くと地形が平坦になり、左右の建物跡や敷地跡が広くなってきました。境内地の中心地域に入ったようでした。

 

 途中の右手には上図の「明恵上人 御廟」の札がありました。高山寺の開基である明恵上人こと明恵房高弁の墓所です。お参りしていこうか、と嫁さんに尋ねると「うん」と頷いて後を付いてきました。

 

 石段を登り切って、柵に囲まれた御廟を拝所より拝みました。

 高山寺の中興の祖にして開基である明恵上人こと明恵房高弁は、鎌倉時代の華厳宗の僧でした。出身は紀伊国有田郡(現・和歌山県有田川町)で、父は伊勢平氏系の伊藤党の武士平重国、母は紀州の豪族湯浅氏の娘であったといいます。幼時に両親を亡くし、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚のもとで仏門に入り、以降は華厳宗の復興に努めました。
 建永元年(1206)11月、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜されました。この時をもって高山寺が創立されたといいます。  (続く)

 

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