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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香3 高台寺圓徳院へ

2024年02月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺表門より、高台寺旧伽藍域の西側の道に左折しました。この道は元は高台寺道と呼ばれていましたが、近年に観光客対策として電線地中化工事を行い、道幅を広げて御影石を敷き詰めた石畳の道に整備され、それを機に「ねねの道」の愛称が付けられて今に至っています。

 U氏が上図右手の高台を指さして、「いまは公園とか霊山観音とかあるけど、このへんも全部高台寺の境内地だったんだろ」と言いました。大体はそれで合っていますが、南側の霊山観音の敷地のあたりは、高台寺が建てられる前に存在していた、「雲居の半仏東福」と呼ばれた雲居寺(うんごじ)の跡地だ、と付け加えておきました。

 

 雲居寺って、どんな寺だったのか、とU氏の問いかけに簡単に応じているうちに、次の目的地である高台寺圓徳院の門前に着きました。ここだ、と言うとU氏も「おお、もう着いたか」と左横の上図の門を見上げました。

 

 早速、門の左脇に立つ上図の案内説明板を読み始めるU氏でした。いつものように最低二度は読み返して内容をしっかりと理解しようとする彼のスタンスにはもう慣れっこになっていますので、私も同じように二度読み返しました。

 

 門をくぐってから振り返りました。U氏が「お寺の門には見えないな。確かに木下家の長屋門だな。一般的な武家屋敷の長屋門の形式だな」と言いました。

 圓徳院は、高台寺を創建した北政所が、慶長十年(1605)に高台寺の西側に自らの屋敷と甥の木下利房(備中国足守藩2代藩主)の屋敷を造営し、伏見城の北政所化粧御殿とその前庭をこの地に移築して高台院屋敷とした所です。
 そして寛永元年(1624)の北政所の没後、木下利房は高台寺の三江紹益を開山として屋敷を高台寺の塔頭圓徳院に改め、以降は木下家の菩提寺として現在に至っています。

 

 長屋門から真っすぐ進むと、上図の唐門が見えてきました。本堂である方丈の玄関口にあたりますが、現在の建物は江戸末期以降に建て直されたものといいます。位置や規模は創建以来変わっていないそうです。

 

 唐門に近づきつつ右手を見ると、上図の庫裏の建物が見えました。真新しく見えるので、近世以降に建て直しているようです。U氏は庫裏の手前に建つ十一重石塔を指さして、「あれは古そうだな。戦国期ぐらいかな」と推測していましたが、私も同意見でした。北政所が高台寺建設にあたってここに屋敷地を構えた際に、あの十一重石塔も設置したのだろう、と思いますが、詳しい事は不明です。

 ただ、北政所の屋敷つまり圓徳院の境内地には、もと岩栖院という寺があって、高台寺建設に際して南禅寺に移転しています。その岩栖院の遺品である可能性も否定出来ません。

 

 唐門の左手前には、上図の手水鉢が置かれていました。脇に立つ立て札に、U氏が近づいていきました。

 

 立て札の説明文です。U氏は「ほう・・・、今川家の親戚の西尾家・・・、この西尾氏っての、知ってる?」と言って私を振り返りました。とりあえず、乏しい知識を伝えました。
「詳しくは知らんが、西尾といえば今川家発祥の地の三河国幡豆郡今川荘のことや。現在も愛知県西尾市になってるから、今川氏の一族に西尾を名乗る家があってもおかしくないな・・・」
「なるほど・・・、そんならこの手水鉢は本物だろうね」
「西尾家から寄贈、とあるから西尾家でそれまで大切に守っていたんやろな。豊臣家一族の木下家の菩提寺に寄贈するあたり、まず本物とみて間違いないやろな」
「うん、そういうことだな」

 

 唐門をくぐって廊下を右に進み、上図の廊下口で本堂である方丈の縁側にあがりました。

 

 本堂の方丈です。慶長十年(1605)に北政所と木下利房がここに屋敷地を造営した際に客殿として建てられたものを、寛永九年(1632)に寺院とした際にそのまま方丈としています。

 

 方丈内部に進みつつ、U氏が「この内部の襖絵が長谷川等伯大先生の画・・・って、あれ、全然違うじゃないか」と言いました。現在、方丈内部にある長谷川等伯の襖絵は精密な模造品で、国重要文化財の本物は京都国立博物館と石川県七尾美術館に寄託されてるよ、と言うと「なんだ・・・」とガッカリしていました。

 ちなみに上図の金箔押しの襖絵と壁画は、平成6年に本堂を解体修理した際に日本画家の志村正さんが描かれた雪月花図です。志村さんは、平成の初め頃まで京都市の市民美術教室の講師を務めておられたので、御存知の方も多いでしょう。  (続く)

 

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