気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香2 高台寺表門

2024年02月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 いま国の重要文化財に指定されているこの高台寺表門は、加藤清正の築造と伝わり、伏見城の城門であったのを高台寺の建設に際して表門とするべく移築した、とされています。

 これらの内容は、ほぼ史実を反映しているものと思われるので、これがもと伏見城の城門であった事も本当だろうと考えられます。その場合、検証すべき問題点が一つ浮かび上がります。

 

 上図のように、いまも本柱の根巻きの飾り金具の中央が豊臣家の五七桐紋になっていますが、これが伏見城の城門として築造された時からのままなのか、それとも高台寺の表門とするべく現在地に移築してからの追加の飾り金具であるのか、という問題点です。

 なぜそのような問題点があるのかというと、伏見城は豊臣期に指月に築かれたものが文禄五年(1596)の慶長伏見地震で倒壊し、位置を変更して木幡山に築かれ、それが慶長五年(1600)の伏見城合戦で焼亡し、これを徳川政権が慶長七年(1602)に再建、元和五年(1619)に廃城となった歴史があって、おおまかに指月、豊臣期木幡山、徳川期木幡山、の三つの時期に分けられ、それぞれの時期の城郭建築が存在した経緯が知られるからです。
 なので、伏見城からの移築の伝承がある、と言っても、どの時期の建物を移築しているのかまでは伝えられていないため、豊臣期なのか、徳川期なのかの区別さえもなかなかつかない、というのが実態です。

 いまの高台寺表門が、豊臣期の伏見城城門を移築したのであれば、本柱の根巻きの五七桐紋の飾りも築造当時からのものである可能性が高くなりますが、徳川期の伏見城城門を移築したならば、家紋の飾りは徳川葵になっているはずですから、五七桐紋の飾りも現在地に移されてから付け替えたもの、ということになるでしょう。

 それ以前に、表門自体が伏見城のどの時期の城門であったかが未だに分かっていません。そこで、今回私なりに関連史料をひも解いて調べ、時期の絞り込みを試みました。

 高台寺の建設は、寺史の「高臺寺誌稿」によれば慶長十一年(1606)となっていますが、高台寺を建てた北政所と親交があった参議・大納言の西洞院時慶(にしのとういん ときよし)の日記「時慶卿記(ときよしきょうき)」を読むと、寺の建設は慶長九年から十年にかけて行われた様子がみえますので、慶長十一年はおそらく竣工の時期を示しているものと解釈出来ます。

 そのことは、德川政権側の公的史料である「徳川実記」の慶長十一年十二月八日の項に「故豊臣太閤政所の沙汰として。京東山将軍塚の地を引て一寺を建立し高臺寺と號し。太閤夫婦香火院とせられんと経営せられければ。福島左衛門大夫正則。加藤肥後守清正人夫を出す。寺領五百石寄らる。」とありますので、慶長十一年に高台寺が出来上がったことが分かります。

 したがって、いまの表門が伏見城から移築されたのであれば、慶長九年から十一年までの間になされた可能性が考えられます。
 当時の伏見城は、徳川政権が慶長七年(1602)から再建した建築群で構成されていましたが、家康が駿府城を改築して移るにあたって慶長十一年頃に作事(建設工事)がいったん停止され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれた経緯が知られます。城門を移す場合、作事が停止された時期ならば都合が良いので、そのときに高台寺へ移されたのではないかと推定出来ます。

 また、「徳川実記」の文中に「加藤肥後守清正人夫を出す。」とあるので、まさに加藤清正が高台寺の建設に関わっていたことが伺えます。高台寺表門を加藤清正の築造と伝えるのも、加藤清正が高台寺の建設に関わって伏見城から城門を移したことを暗示しているのではないか、と考えます。

 以上の事柄から、いまの高台寺表門が本当にもと伏見城城門であったならば、それは徳川政権が慶長七年より再建した伏見城の建物であって、つまりは徳川期の城門である、ということにまとまります。したがって、いま見られる五七桐紋の飾りも現在地に移されてから付けられたものと考えられます。

 

 高台寺表門が、現在地に移築されて後、ずっとその位置を保っていることは、門前の南側に建つ上図の寺領標によっても分かります。寺領標とは、寺院の境内地の境界線に建てられて境内地の範囲を明記する標柱です。「これより南東が高台寺領である」という意味ですので、この表門が境内地の南西隅の参道筋に建てられていることが分かります。

 

 慶長十一年に竣工した高台寺の伽藍規模については江戸期の色々な史料にほぼ同じ内容で述べられています。一番分かりやすいのが宝暦四年(1754)に作成されたガイドブックの一種である「山城名跡巡行志」の記載であり、上図の表門に関しては「惣門二所 正面西向 北面北向」とあって、もとは伽藍の北にも北向きの門があったことが知られ、そして「正面西向」とあるのが現在の表門にあたります。正面西向とは、は寺の正式な参道筋が西に向いていることを指します。

 

 したがって、この高台寺表門は、慶長九年から十一年までの間に、德川政権が再建した伏見城から城門を移築して、高台寺の本来の境内地の南西隅に正式な参道をしいてその出入口の門とされ、現在に至るまでその位置を動いていない、ということが分かります。

 竣工後の高台寺は、いまの霊山観音の境内地に仏殿や方丈などが並んでいて大きな伽藍を誇っていましたが、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿や方丈、小方丈、庫裏などを焼失してしまい、現在は北側の開山堂や霊屋などのエリアだけが創建時の面影をしのばせるのみです。仏殿などが並んでいた区域は、いまの霊山観音の境内地になっているので、表門だけがポツンと離れているように見えているのも、仕方のないところでしょう。

 

 U氏が「妻飾りとかを見よう」と言うので、いったん高台寺南門通に出て、改めて表門の横側に回りました。

 

 上図のように、妻梁(つまばり)の上に蟇股(かえるまた)が2個並んで見えます。これは西側、表側の蟇股です。

 

 その蟇股(かえるまた)に彫刻が施されています。デジカメのズームで引き寄せて撮りました。花鳥風月のデザインが各所に彫られています。

 

 その反対側、東側つまり内側の蟇股(かえるまた)には動物の彫刻が見えました。U氏は「犬かな?いや狐かな?尻尾が長いなあ」と視ていましたが、私にもよく分かりませんでした。徳川期の寺院建築の彫り物には、時々神獣と呼ばれる伝説上の動物が見られますが、その名称を不勉強のゆえにあまり知らないからです。

 

 裏側、つまり境内地側に回って見上げました。表からは見付などに見える彫刻意匠や飾り金具などが、裏側には一切ありません。大型の普通の門、といった雰囲気にとどまっていました。U氏が半ば呆れたような口調で、「飾っているのは表だけで、裏は武骨な戦国期の城門のままか・・・」と呟いていました。

 

 ですが、戦国期の城門にしては規模が大きく、屋根も高いので、軒も広がるように長く出ています。実際の大きさ以上に雄大に見えるのもそのためですが、一般的な門よりも規模が大きいのであれば、伏見城においては重要な位置を占めていた可能性が考えられます。

 いま伏見の御香宮神社に同じ徳川期の大手門が移築されていますが、それよりも建築的にはこちらのほうが立派なので、もとは本丸の主要な城門か、もしくは御殿区域の門であった可能性が考えられます。京都市内の各地に伏見城からの移築城門が残っていますが、この高台寺表門が抜きんでて立派で格式も高いからです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする