気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香8 高台寺霊屋

2024年02月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺の庭園と開山堂を見た後、いったん南門から出て順路を東に進み、高台の山裾を斜めに登るような形で分岐点に着き、そのまままっすぐに上図の霊屋(おたまや)の前に進みました。その階段は老朽化のためか、いずれ修理するようで、木造の仮設階段によってカバーされていました。

 

 霊屋の前に立って建物を見上げました。庭園の東の丘裾の傾斜地を削って平坦地を造り、傾斜が残る西側と南側に石を積んで建物の基礎面を確保し、そのうえに敷地いっぱいに建物を建てています。
 高台寺は、本質的には豊臣家の墓所および供養所としての性格をもつ寺院であり、開祖の高台院北政所はこの霊屋の地下に埋葬されています。ですから、その境内地のどこからも見える高所に、中心の墓所である霊屋が建てられなければいけません。それで、かなりの土木工事を施して霊屋の敷地を構築したあとがうかがえます。

 南と西に門が設けられて土塀がまわっていますが、内部の通路空間は必要最低限であるため、見学者はその狭い通路から霊屋の建物を見上げ、内部へは立ち入り禁止であるために、正面の扉口から内部をのぞくことになります。

 

 先に見てきた開山堂の外観が禅宗様の質素な素木造であったのに対して、こちらの霊屋は御覧のように外観も豪華な造りです。豊臣政権期の建築の特色をよく示しています。南に付く上図の唐破風も、豊臣政権期特有の持ち上がりが少ない破風の形式です。

 U氏が「5月に見てきた大徳寺の唐門に似た雰囲気があるよなあ」と感心しつつ見上げ、撮っていました。ともに同時期の建築ですから、まとっている時代の気分や美的感覚が共通していても不思議はありません。
 ただ、こちらは墓所の霊廟(れいびょう)建築であるので、あまり豪華に走らず、装飾も控えめにとどめています。現存する最古級の霊廟建築として国の重要文化財に指定されています。

 

 「高臺寺誌稿」によれば、この霊屋も、かつての康徳寺(こうとくじ)の建物として寺町(現在の京都市上京区高徳寺町付近)に建てられていたのを、慶長十一年(1606)に東山の現在地に移したといいます。

 ですが、康徳寺は北政所が亡き母朝日局の菩提を弔うために建てているので、その霊屋であったのならば、本来は朝日局の霊屋であっただろうと考えられます。それを現在地に移した後は、秀吉と北政所の夫妻の墓所になっていますから、朝日局の供養はどうなったのだろうか、と少し不思議に思ってしまいます。それに、康徳寺の霊屋が最初からいまのような豪華な造りだったのか、という疑問も浮かび上がります。

 また、北政所の公館から移したものとする別説があるようですが、この北政所の公館というのが、どういう建物でどこにあったのかが分かっていません。屋敷でなく公館と称しますから、現在の圓徳院の位置にあった北政所屋敷とは無関係だろうと思われます。

 これに関して、U氏は「公館というのなら、政治的本拠地の居館だった聚楽第とかさ、そういう所にあった屋敷のことだろうな」と言いましたが、私自身は、北政所が高台寺圓徳院の地に移る前に住んでいた京都新城の屋敷のほうが可能性が高いかな、と思います。京都新城にあった建物であれば、開山堂とは対照的なほどに豪華で立派な外観のさまも納得出来るからです。

 いま西本願寺に伝わる国宝の唐門や飛雲閣が、京都新城からの移築ではないかとされていますが、ここ高台寺の霊屋に関しても、そうした可能性を否定出来ません。飛雲閣の建築意匠と、ここの霊屋のそれには、よく似ている箇所が少なくないように感じられるからです。

 

 ですが、真相はただひとつ、ここに眠る高台院北政所のみが知っておられるでしょう。その家紋の五七桐紋(ごしちきり)の飾り金具の金色の淡い煌めきに、永遠に秘められて知られなくなってしまった豊臣家の数々の歴史の輝きがひっそりと息づいているように感じられました。

 

 この霊屋の建物は、昭和25年のジェーン台風によって大きな被害を受けたため、昭和29年から30年にかけて解体修理が行われました。その結果、建物自体は創建以来の構えでしたが、もとは西に向いていた事が分かり、「高臺寺誌稿」などが伝える移築の件が史実であることが確かめられました。

 

 ですが、どこから移築したのかは、それを示す墨書や銘文等の史料が発見されなかったために、いまなお不明です。

 

 寺で貰った拝観の栞を読みながら、霊屋の各所を観察していたU氏が、ふと思いついたように私に問いかけました。

「こういう、大名家とかの御堂の霊廟って、あちこちにあるんだよな、東京にゃ徳川家関連の歴代将軍の霊廟があるし、日光東照宮のところもあるし、他の大名家の霊廟の建物も幾つかあるんだよな・・・?」
「水戸の、君はそういう霊廟の建築って、德川家関連以外のは見てへんのかね・・・」
「ああ、わが水戸藩28万4千石の墓所は、残念ながら墓石と石碑ばかりで霊廟は無いからな」
「東北の諸藩の霊廟は?」
「あー、仙台藩の霊屋なら見たことある。国の重文になってる・・・」
「なら、松島にある圓通院の霊屋やろな」
「うん、それそれ」
「他は?」
「いや・・・、そういうのは星野のほうが詳しいんと違うかね、実際にあちこち見てるんだろ?」
「まあな、覚えてる限りでは、山形に住んでた頃に、新庄藩の瑞雲院と桂嶽寺の茅葺の霊屋を見たな。宮城県はさっき言うた圓通院霊屋と登米伊達藩の覚乗寺霊屋、秋田県は佐竹藩の天徳寺霊廟、青森県は・・・津軽藩の長勝寺霊廟と革秀寺霊廟、それと南部藩のも見に行ったな」
「おい、南部藩って青森だったか?岩手じゃないのか?」
「岩手のは盛岡南部藩や。岩手はなんでか全然行っとらんのよ・・・。僕が見に行ったんは、青森の三戸の分家の南部藩のほう。そこに聖寿寺館ちゅう居館の遺跡があってな、そこに物凄い立派な霊屋の建築があるんよ。あれは感動したで」
「ふーん、色々行ってるなあ、東北以外ではどこに?」
「うーん、関東は無いな・・・、中部だと長野県の松代藩真田氏の長国寺霊廟、静岡県の掛川藩の龍華院霊屋ぐらいかな・・・、あ、愛知県の尾張藩の徳川義直の定光寺霊廟も見てるわ・・・。近畿だと・・・京都とか奈良にはあんまり無いな・・・、兵庫県は姫路藩本多家の円教寺霊廟と明石藩松平家の長寿院霊屋、あと和歌山県の高野山に幾つか大名家の霊廟があるけど、大半は石造だな・・・・。中国四国地方だと 備前足守藩木下家の大光寺霊廟、伊予松山藩の松平家の常信寺霊廟、ぐらいか。九州は、ええと、福岡の久留米藩有馬家の梅林寺霊廟、長崎の大村藩の本経寺霊廟、佐賀の鍋島小城藩の玉毫寺霊廟の三ヶ所だな・・・」
「やっぱりあちこち行ってるなあ、流石だな」
「転勤で全国各地へ引っ越して住んでたからな、住んでた時に近くの歴史や文化財は何でもかんでも興味を持って見に行ったからね」
「でも霊廟建築はあんまり無いんだな」
「無いと言うか、大名家の墓所ってのは城館とあわせて大体行ってるけどな、殆どは墓石と石碑の組み合わせなの。霊廟の建物まで建ててる所は少ないの。そもそも江戸幕府徳川家が、確か8代将軍の吉宗やったかな、その頃に全国の大名に贅沢を禁じて倹約に励めってんで、霊屋の建立禁止令ってのも出してるんで、それ以後は全国の大名家が霊廟建築を造らなくなったんや」
「そんなことがあったのか・・・」
「うん、だから霊廟の建物というと、現存して文化財になってるのは、大名家よりも寺院の僧侶の墓のほうが多いんやないかな」
「なるほど・・・・」


「で、そういう色んな大名家の霊廟を見てきた星野の眼からみると、ここの霊屋が最も古くて立派、ということになるわけか」
「まあ、最古の遺構だし、豊臣政権期の典型的な建築様式で丁寧に造ってあるしな・・・」
「その言い方だと、他にもあるみたいだな・・・」
「実はな。さっきも話したけど、東北の青森の南部藩聖寿寺館の霊屋、あれ凄い豪華やった印象がある。国重文になってる筈。確か寛永の頃の建物やったけど、桃山期の復古調の感じで、聚楽第の雰囲気がああやったんじゃないか、って思った」
「ふーん、それは俺も見に行かないとな・・・」
「で、こっちの霊屋の場合はさ、ホラ、組物(上図)の彩色の繧繝(うんげん)とかは平安期以来の伝統的技法も多用しているから、豊臣政権期の典型的な建築様式ではあるけれど、こっちも復古調の感じが強い。ああいう組物の彩色の繧繝(うんげん)は、例えば宇治平等院の鳳凰堂の繧繝のパターンをアレンジしてる。木口に金色の飾り金具を打ってるから、繧繝のグラデーションをわざと大まかにして合わせてある」
「なるほど・・・」

 

 霊屋の内部は、正面の扉口から拝する事が出来ます。内部空間全体が、高台寺蒔絵と呼ばれる豊臣政権期の最高級の蒔絵技術による様々な装飾模様で彩られています。

 上図のように、内部の仏壇は三つに区切られています。中央の厨子には大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には高台院北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されています。そして高台院北政所の木像の真下2メートルの地下に、北政所の遺骸が埋葬されています。

 高台寺蒔絵の装飾の他には狩野永徳による絵が見られ、厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されています。向かって右側の秀吉の厨子の扉および勾欄の材に墨書と針刻があり、「ふん六五年十二月 久造之」「幸阿ミ久造之」と読めますので、当時の蒔絵師を代表した幸阿弥派の七代目の幸阿弥久次郎長晏(きゅうじろうながずみ)が文禄五年(1596)12月に製作にあたったことが分かります。

 この霊屋が現地に移築されたのは慶長十一年(1606)といいますから、その十年前に内部の蒔絵装飾が製作されたことになります。霊屋がもと康徳寺の建物であれば、康徳寺が寺町にあった頃に、当時の日本の蒔絵師のトップであり、後陽成天皇即位に際して豊臣秀吉から道具類の製作を命ぜられた幸阿弥久次郎長晏がこれらの蒔絵を製作したことになりますが、当時の最高級の蒔絵を、北政所の一私寺に過ぎなかった康徳寺の建物にはたして作り得たのか、という疑問がわいてまいります。

 なので、先にこの霊屋がもとは北政所の公館つまり京都新城の屋敷にあった可能性を述べましたが、そのことは内部の蒔絵が幸阿弥久次郎長晏による当時の最高級の出来である点を考えれば、より強くなってきます。京都新城は、秀吉が聚楽第を破却した後に豊臣関白家の正式な邸宅として建てた公的な居館屋敷でしたから、そういう場所の建物であれば、当時の最高級の蒔絵が製作されても違和感はありません。

 なので、この霊屋にも、高台寺や豊臣政権期の秘められた数々の謎へのヒントがありそうに思われます。

 

 霊屋の拝観の最後に、西門へ行って上図の臥龍廊(がりょうろう)を上から見下ろしました。U氏が「やっぱり、一度は歩いてみたいものだな」と言いました。

 この石段は北政所も行き来したでしょうから、一度同じように歩いてみたら、北政所が見つめていたもの、その思いなどが僅かながらでも偲ばれるのかな、と思います。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする