真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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デヴィッド・ボウイと映画の演技~~ニコラス・ローグ、大島渚、そしてオーソン・ウェルズ。

2016-01-12 | 雑感
 

 再読していたヴィクター・ボクリスの『ビート・パンクス』に、70年代イギリス映画界の鬼才ニコラス・ローグ監督のインタビューが入っていて、彼がデヴィッド・ボウイについて語った言葉があったので引用する。ローグは、ロックスターのデヴィッド・ボウイに演技が出来るのだろうかと人に尋ねられて「思わず」次のように応えたという。

 「しかしあの男はちょっと奇妙な仕草をするだけで、4万人もの人間を魅了してきたんだ。どこの俳優が4万人もの人間を意のままにできると思ってるんだ。たとえデヴィッド自身がジョーン・サザーランドのようにはできないと言ったとしてもだよ。観衆は彼のパフォーマンスや彼の言葉を求めにやってくるんだ。ウォーレン・ベイティじゃあれだけの人は集まらんだろう。そもそもどういう意味で俳優って言葉を使ってるんだ?」

 ちなみに、ローグは、ボウイが主演した奇妙な映画『地球に落ちて来た男』を撮った才人。代表作『赤い影』や『マリリンとアインシュタイン』など記憶を主題に超絶的な技法を駆使したスタイルは、当時、『肉体の悪魔』『マーラー』『TOMMY/トミー』などのケン・ラッセル監督と並び称された。70年代のローグはミュージシャンの起用で知られ、『パフォーマンス』(ドナルド・キャメル共同監督)ではミック・ジャガー、『ジェラシー』ではアート・ガーファンクルを主演に迎え、ドキュメンタリー『Glastonbury Fayre』(ピーター・ニール共同監督)も手掛けており、ミュージシャンたちからの信用を集めていた。(ジョーン・サザーランドはオーストラリアのソプラノ歌手、ウォーレン・ベイティは『俺たちに明日はない』『ギャンブラー』『シャンプー』などの主演や製作者として当時もっとも人気の高かったハリウッド俳優の一人)

 

 ローグは1977年の時点で、アート・ガーファンクルとシシー・スペイセクの主演で『イリュージョンズ』という映画をつくろうとしていたようだが、この企画はなくなり、そしてガーファンクルとテレサ・ラッセルを共演させた傑作『ジェラシー』を完成させる。
 その『ジェラシー』のパンフレットに大島渚が寄稿している。大島は『戦場のメリークリスマス』の監督としてデヴィッド・ボウイを起用。ボウイの映画キャリアにおける「もう一本」の代表作になった。
 大島の文章は「『ジェラシー』との奇縁」と題してデヴィッド・ボウイとの出会いを回想したものだ。

 「昨年の十月の末、私はシティ・マラソンと大統領選でわきたつニューヨークにいた。デヴィッド・ボウイに会うためである。一九七八年の暮から準備をはじめた『戦場のメリークリスマス』は一向に前に進まないのだった。金がかかりすぎるということもあったが、主人公の英国軍将校があまりにも美しく描かれていることも難点のひとつだった。いったい、こういう役者がいるのかね? ふと、デヴィッド・ボウイに思い立った。聞いてみると、人を介したりせず直接交渉した方がいいだろうということだった。早速手紙を書くとシナリオを読みたいと言ってきた。シナリオを送るとすぐ、興奮している。すぐ会いたいと返事が来た。ニューヨークへ着くと、彼は出演している舞台の『エレファントマン』の切符まで用意して待っていてくれた。」「誰かいいライターを知らないかと聞いてみたが、彼は控え目な性格らしく、とり立てて名前をあげなかった。しかし、自分が主演した『地球に落ちて来た男』の監督ニコラス・ローグと、そのグループは信頼していると言った」

 ニコラス・ローグの『ジェラシー』を製作したのはジェレミー・トーマス。彼はのちに『戦場のメリークリスマス』の製作者として名を連ねるのだった(ほかに、ベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』やデヴィッド・クローネンバーグの『裸のランチ』の製作も彼だ)。

 

 ところで、先のローグの言葉に、ある種の「スター=演技者」が「4万人もの人間を意のままに」することに関するがあったが、そこで思い出すのが、かのオーソン・ウェルズが、「映画の演技術なるものがあるのか」についてゲーリー・クーパーとローレンス・オリヴィエを引き合いにして語った言葉である。

 「映画俳優はいる。古典的なケースだが、(ゲーリー・)クーパーは映画俳優だった。セットを彼が歩いてゆくのを見たら、だれもが思う。「やれやれ、こりゃ撮り直しになるぞ」そこに彼がいるとはじっさい思えないんだ。それからラッシュを見る、するとスクリーンをはみ出さんばかりに彼がいる。」「個性だ。その秘密を解明する気はない。テクニック以上のなにかだ。テクニックに関しては、ローレンス・オリヴィエ以上の知識の持ち主はいない。もし、映画の演技術がキャメラのテクニックに帰着するのなら、ラリーは第一人者になったはずだ。ところが、映画での彼はすばらしくはあるが、それでも舞台を統括している時の、あのピリピリした存在感が消え、その影法師としか思えない。なぜ、キャメラは彼を縮小してしまうのか? そして、テクニックとは無縁と思われるゲーリー・クーパーを拡大するのか?」(ピーター・ボグダノヴィッチ『オーソン・ウェルズ その半生を語る』より)

 ウェルズの言葉に倣えば、僕としては、「ステージ」から降りて「映画」に出演してスクリーンに映った「俳優デヴィッド・ボウイ」も、「4万人もの人間を意のままに」するカリスマであるときよりも、ずっと「縮小」してしまっているように思える。つまり、ステージでのデヴィッド・ボウイ――こと全盛時代の――は、「映画」(グラマラスな魅力をかなり伝えたトニー・スコットの『ハンガー』や『ジギー・スターダスト』などのライブ映画ほかの映像全般を含む)などで見るより、もっともっと「凄かったはず」だと想像させるのである。

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