真夜中の映画&写真帖 

渡部幻(ライター、編集者)
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(その一)ロバート・アルトマンの平らな街の猫と犬 傑作『ロング・グッドバイ』

2009-08-25 | ロバート・アルトマン
 

(その一)


僕の今のところ一番好きなロバート・アルトマン作品は『ロング・グッドバイ』である。アルトマンの個性が非常によくあらわれていて、愉快でかつとても哀しい作品である。娯楽的であると同時に実験的で、ハードボイルドなのに柔らかく温もりがあり、しかし奥に70年代のアメリカ状況に対する鋭い棘を隠している。つまりアルトマン節に満ち満ちた傑作なのである。

初見は80何年かのテレビ放映だった。たるい雰囲気に酔いながら、しかし――とくに難解とも思えないのに――なにか漠然とした印象を持ったことも事実で、「本当の良さ」を一つ実感仕切れないでいたことも確かだ。かなりカットされたトリミング版の放送だったし、そもそも子供だったせいもあるだろうが、それはともかく奇妙な味を残す映画だったのである。

それから大分たった90年代初頭のある日、突然もう一度観たくなった。いくつかの場面(ネコの描写や、海辺の色彩、ラストの並木道)や俳優たち(エリオット・グールドやスターリング・ヘイドン)が忘れ難かったからで、それに、親から「あの映像の美しさは劇場で観なければ分からない」と言われ、常に心に引っ掛かっていたからである。レーザーディスクを発作的に購入して改めて鑑賞。驚いた。今度はすべての映像がスルスルと心に入り込んできて、そのあまりのすばらしさに、すっかり夢中になってしまった。僕がそれまでに観てきたすべての映画の中でも最も好きな作品の一本になって、突然、人が変わったようにアルトマン作品を探し求めてビデオ店を彷徨う日々が始まったのである。

一度目と二度目で最も大きかったのは、アルトマンという映画作家の「視点=眼差し」の存在を強く感じ取れた点だ。ここで言う「視点」とは大上段に構えたテーマやストーリーによるものではなく、より視覚的な要素――カメラワーク――によってもたらされるもので、目から沁み入り、体中をかけ廻り、心をかき乱した末に、それまでの認識や感覚を揺さぶるような、そんな感動であった。それまでにすでに観ていた他のアルトマン作品(『マッシュ』『ポパイ』『フール・フォア・ラブ』)とは段違いの衝撃で、本作の性質を思えば大げさのようだが、それは映画という表現の再発見であった。





アルトマン作品の映像的な特徴は、ズームイン、ズームアウトを繰り返す望遠カメラの不安定な動きと、霞がかったパステル調の色彩である。クッキリしたハリウッド風でもグラグラして焦点の定まらないアンダーグラウンド映画風でもない、アルトマン印のフラフラとホロ酔い加減の千鳥足風カメラワークが、現実からほんの少しだけ遊離したような感覚を観る者に与える。そんなアルトマン作品には、何というか、現実性の夢とでも言いたいと独特の浮遊感がある。半睡半醒の……遠いと同時に近く、近いと同時に遠い、そんな混沌として眼差しが、矛盾に満ちたこの世界を右往左往しつつ生きる人間たちをまるごと捉える。そんなアルトマンの視覚スタイルは、撮影監督が交代したり、時代が変わったとしても生涯貫徹された。

『ロング・グッドバイ』の撮影は、アルトマンが見出したヴィルモス・ジグモンドが担当している。同じくアルトマンの『イメージス』『ギャンブラー』の撮影も彼によるもので、この時期のアルトマンの「視点」を完璧に具象化した名カメラマンである。僕はアルトマン作品を観る前からのジグモンド・ファンで、たとえば、『脱出』(ジョン・ブアマン)『スケアクロウ』(ジェリー・シャッツバーグ)『続・激突!カージャック』(スティーブン・スピルバーグ)『ディアハンター』(マイケル・チミノ)『ミッドナイトクロス』(ブライアン・デ・パルマ)などに惚れ込んでいた。彼は、僕が10代の頃に夢中になった、70~80年代初頭のアメリカ映画の多くを撮影していたのである。








本作におけるアルトマンのカメラアイは、探偵フィリップ・マーロウが人々を見つめる眼差しに同調している。つまり、マーロウが常に人を見つているのに対し、見つめられている人々がマーロウ=アルトマンを見つめ返すことはない。

アルトマンの眼はつねに観察者に徹している。彼が人間や風景を観察するときに注目しているのは、多くの映画では切り落とされてしまうであろう枝葉の部分である。ハリウッドがその歴史の中で磨き上げてきたのは、ドラマ進行の効率を上げるべく細部を整理して可能な限りシンプルに纏め上げるストーリーテリングの技術である。その洗練が世界中の観客を虜にしてきたのだが、しかしアルトマンはその切り捨てられた無数の枝葉をあらためて一枚一枚拾い上げて「ストーリー」を語り直していった。アルトマンにとってはその枝葉の中にこそ彼の考える「世界の真実」があったのである。

そうした枝葉の集積からなるアルトマン作品は当然のごとく従来のアメリカ映画とは似て非なるものとなった。そんな彼の作品を観ることで多くの映画がいかに映像でものを考えるよりも、脚本に書かれた文字の映像化に腐心してきたのかに思い至ることができる。僕が、かつて彼の映画を観たときにひとつ理解出来なかったのも、つまりは僕の映画を観る目が“物語=書かれた文字”の従属し、映画の映像を「観察する眼」を持たなかったからなのである。

アルトマンの映像は一つの意味に収斂することを拒否する。無数の小さなエピソードを積み重ねることによって観る者の視点を拡散させる。彼の眼目は“大きな物語”の中から“小さな物語=細部”が生まれてくる様を見守ることにあり、そんな映画の有り様がこの世に存在することを僕は了解していなかった僕は、一貫した物語を見つけ出そうとやっきになり、無意識に困惑していた。アルトマンのこうした姿勢は“音響”に対しても貫かれ、いわゆる“雑音”が意識的に拾われてゆく。一見取るに足らない雑多な要素の集積からなる“アルトマン的世界”はひどくノイジーであり、ゆえに従来の映画からは逸脱しているのだ。しかし、その世界観に一度慣れると、それが僕たちの生きるこの世界ととても似通っていることに気付かされる。そのことの発見が僕の大きな喜びになったのである。


『ロング・グッドバイ』はそんなアルトマンの映像スタイルが非常に大きな効果をあげた作品である。パンとズームを繰り返すカメラはおっとりと彷徨い、その動きを片時も止めない。不透明なクローズアップが続くかと思うと、唐突にズームバックをはじめ、それがかなり離れた位置から撮られたものであることを暴露する。アルトマンのクローズアップは被写体のすぐ手前にカメラを置いたそれではない。つねに被写体から離れた位置から狙ったそれであり、ズームバックによって対象に対する距離感を強調するのである。

アルトマンのクローズアップは、たとえばカサヴェテス映画のそれのように被写体に寄り添うために用いられることはない。一定の距離が担保されているため、どこかクールな距離感を感じさせる。同時に、そのことがキューブリック映画のような「冷たさ」に繋がらない。彼のつかず離れずの眼差しには「温かみ」があるのである。

『ロング・グッドバイ』の映像の殆どがそんな覗き見的な視点から撮影されていると気づいたとき、僕は初めて“アルトマン映画”の魅力を理解した気になった。「遠くて近い」その眼差しはここで探偵マーロウの眼差し=視点であると同時に映画作家アルトマンの眼差し=視点であると気づいた。
ありとあらゆる対象を「遠くて近い」位置から眺めざるを得ないの人間が居るとすれば、それは何と孤独な存在であろう。アルトマンが、チャンドラーが創造した50年代の探偵マーロウを70年代に登場させて場違いな世界を右往左往させることで描いていたのは、「遠くて近い」宿命を背負わされた人間の眼から眺めた「70年代前半のアメリカ」の諸相であり、そこにアルトマン自身の戸惑いと孤独感と行き場のない怒りが混沌と二重写しになっているのだ。



探偵とは事件を発端に関係する人間と人間の間を彷徨い、つかず離れずの位置を保ちながら、その観察の眼の冴えによって、ついに真実に肉薄していく存在である。その意味において探偵と映画監督はともに「眼の人」である。
『ロング・グッドバイ』の物語が悲劇的なのは、探偵が調査する事件が彼の無二の親友によって引き起こされたものであったからだ。名探偵たるマーロウは「つかず離れずの位置」から事件の真相を明らかにし、場合によって裁かなければならないが、しかしマーロウという男が背負う宿命的な感傷が判断を鈍らせてしまう。

アルトマンは一人称で書かれたハードボイルド小説の映画化にあたり、つねにカメラの構図の中にマーロウを収め、彼が立ち会っている場面だけに限定して描いている。探偵マーロウが目撃した出来事は、監督アルトマンが目撃した出来事であり、つまりは観客が目撃するのも彼らが見たそれがすべてなのである。本作はハードボイルド小説の多くがそうであるように事件の謎解きに眼目があるわけではない。重視されるのは事件を軸とする不安定な人間関係であり、そこから浮かび上がるこの世界の諸相なのである。

マーロウとアルトマンは世界を遠い位置から観察し、時に望遠の眼でズームすると枝葉の一枚一枚に注目していく。それは人に限らず、事物や動物にいたるが、注目されたそれらが彼らの眼差しに気づくことはない。遠い位置にいる彼らに気づくことはなく、また、気にとめないが、しかしそのことが彼らを宿命的かつ絶対的な孤独へと追い詰めていくのだ。





ここで多用されるズームレンズの使用から感じられるのは、全てが遠くにあるようで、同時に身近にあるような奇妙な感覚である。

アルトマン映画に登場する人物たちの多くは、皆、他人に関心を持たない。自分のことしか考えておらず、その心は刻々と移ろい続ける。ここで変わらないのはマーロウだけである。マーロウは彼が出会う人間たちに対し一定の距離を保っている。それは探偵として欠くべからず資質であり才能であるはずだが、しかし彼の場合、優しすぎるほど優しいのだ。マーロウがすべての人々を見つめているのは、見つめ観察することによって事件の真相に迫るためだが、にしては心優しすぎる。マーロウだけが他者に関心を持ち続け、その性格が彼を孤独の道化に仕立てていく。アルトマンのフラフラと彷徨い続けるカメラワークは、ここで道化の観察者としてもマーロウでありアルトマンその人と同化しているが、同時に、移ろい続ける人々の心模様を反映してもいるのである。

アルトマンは望遠レンズする。望遠は近景と遠景を圧縮し、距離を破壊する性質を持つ。彼の作品の画面がすべて平面的なのはそのせいである。本作は、ロサンゼルスという「平らな街」を背景とし、奥行きを欠いて平面化した人間関係を描いているが、その感性と主題はそのままのちにやはりロスを背景にした『ザ・プレイヤー』『ショートカッツ』へと引き継がれている。

アルトマン映画に独特のマリファナでとろけた寝ぼけ眼でこの世を眺めてるかのような奇妙な幽体離脱的感覚がユニークで、しかしとろけながらもどこか覚醒した自己批評性を失わないところがまた特異である。そしてこの寝ぼけ眼と覚醒の同居は、『ロング・グッドバイ』の伝説的なオープニングシーン――フィリップ・マーロウの目覚めから始まる――に呼応し、これも高名なラストの並木道とハーモニカ演奏にいたるまで貫かれ、本作をまこと異色なチャンドラー小説の映画化にしているのである。





映画は名曲「フレー・フォー・ハリウッド」の一部が流れ出して始まり、そのメロディに重なるように壁にかけられた「ハリウッド地図」が映しだされる。曲がジャズ・ピアノに変わるとそのまま右にパンするカメラがマーロウの寝室を映し出す。ネクタイをつけたまま眠りこけているマーロウのみすぼらしい姿はすでに原作に描写されたマーロウ像やかつてハンフリー・ボガートが演じたマーロウ像とは似ても似つかない。飼い猫が入ってきて、無理矢理に起こされた彼は驚いて時計を見る。まだ深夜だが、愛猫は腹が減っているのだ。仕方なく起き上がりタバコに火をつける。壁はブックマッチを擦った跡で傷だらけだ。台所に向かうが、猫の大好きなカリー印の缶詰がない。ピーナッツバターで即席の夜食を作ってやったが食べようとしない。ブツクサ文句を呟きながらも観念して買い物に出かけようとすると、隣人の女の子たちから「ブラウニー・ミックスを買ってきて欲しい」と頼まれて引き受け、「やさしいのね」とおだてられると、「探偵だからね……ま、どうでもいいけど」と独り言のように答える。クラッシック・カーに乗りこみ深夜営業のスーパーへ。しかし沢山ありすぎて分からない。黒人の店員に尋ねると「猫の缶詰なんてどれも一緒だ」。マーロウが「猫をしらないな」と反論すると店員は「猫より女の方がいい」と口答えする。



これからハードボイルド映画が始まるとは思えぬこうした描写が延々と続く様はまさしくアルトマン映画だ。先の一連の描写は、テリー・レノックスがマーロウのそれとは対照的な70年代的なスポーツ・カーに乗り込み、手の甲についた謎の痕を気にしながら運転している様子とともにカットバックされる。二人の深夜の道行きを結びつけるのはジョン・ウィリアムズの音楽。アレンジの異なる男女のヴォーカルが歌われるのは名曲「ロング・グッドバイ」だ。

結局、違う缶詰を買ってきたマーロウは帰るなり猫をキッチンから締め出してカリー印の空き缶に詰め変える。あらためて猫を招き入れ、ご丁寧に缶切で開ける振りまでして与えるが、猫は騙されず家をプイと出ていってしまう。猫を探していると交代するようにテリーがやってくる。
マーロウとテリーは親友。久しぶりの再会である。マーロウが顔見てすかさず札を使ったゲームをやろうと提案すると、よし来たと応えるテリー。その様子だけで彼らの過ごしてきた時間が伺える。テリーは告白する。「実は追われているんだ。メキシコのティファナまで車で送ってくれないか」。せっかく久しぶりの再会なのに、いますぐに行かねばならないという彼の言葉に従うマーロウ。

別れて戻るともう昼間である。猫を気にしつつ家に着くと出迎えたのは顔見知りの二人組の刑事。何故かテリーのことを質問してくる。マーロウがとぼけていると強引に参考人として連行され、尋問される。刑事たちはテリーは彼の妻を殴り殺して、マーロウはその逃亡を助けたと言う。あり得ないと否定するが、無惨な死体写真を見せられ絶句する。留置場に入れられ、翌朝、唐突に釈放されるが、その理由と問いただすとテリーの自殺で事件は一件落着、もう用はないという。探偵仲間によればテリーの死体は弾き受け先がなくメキシコで葬られるという。探偵業の窓口に使っているサンフェルナンド・バレーのバーに立ち寄ってみると新しい仕事の依頼。さっそく出向く。中年の美しい夫人アイリーンから行方不明の夫を探して欲しいと依頼される。夫はアルコール中毒の有名作家。そしてこの夫妻は同じ地区に暮らしていたテリー夫妻と顔見知りだったらしい……。

アルトマンの才気は冴えに冴えて流れるような演出で観る者を酔わせるが、こうした文字面の要約では映画『ロング・グッドバイ』の奥深い面白さが一向に分かってこない。アルトマン流のハードボイルドスタイルは、ユーモラスで、まったくスリリングではない。探偵小説史に名を残すフィリップ・マーロウに扮するエリオット・グールドの風情もどこか滑稽であり、ドラマが進むごとに、冒頭の原作にない愛猫家の設定が効いて、彼の全身から得も言われぬ男の孤独がにじみだしてくるのである。(つづく/渡部幻)





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