ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

読まずにいられない山岸マンガ

2019-02-16 07:20:31 | マンガ


日本でのマンガというメディアは複雑で難しいものなのにそれを一人でこなすことがほとんどです。
アシスタント、というお手伝い、のスタッフはいますが、ストーリー・構成・セリフ・文章・キャラデザイン・作画などを分担して製作することが稀にはあっても普及しないのはそれらすべてを含めたもので作者を表現するのがデフォルトになってしまっているからなのでしょう。

私は実を言うと少女マンガのキャラクターデザインがどうしても心底好きになれないのですが、それなのに幾度となく読み返してしまうのは少女マンガなのですね。
そこはとても自分でも不思議です。

特に年老いてからも読み返し続けているのは山岸凉子・萩尾望都のふたり。山岸凉子さんの絵は子供の頃凄く苦手だったのになぜ今はこうも読んでいるのかと思ってしまいます。

さて、先日のようにバレエ映画を見た後などはすぐに山岸凉子マンガを手に取ってしまいます。
今回は映画の中のシーンが「黒鳥」を思い起こさせたので「牧神の午後」という単行本を手に取りました。
この本は一作目がニジンスキーを描いた「牧神の午後」二作目がその「黒鳥」後の3篇が山岸凉子さんのエッセイになっているというお得な一冊です。
「牧神の午後」はほぼハーバート・ロスの映画「ニジンスキー」をマンガに書き起こしたもののようにも思えますが、そこに山岸凉子の解析が入ることが重要な要素なのです。

ニジンスキーはロモラという女性と結婚したのだから同性愛者ではなくディアギレフとは強制された関係だったとする方もありますが、私はそんな単純なことではないと思います。
映画「ニジンスキー」や山岸凉子「牧神の午後」に描かれた微妙な感情であるのではないでしょうか。
ここに描かれたニジンスキーの狂気が別作品「負の暗示」につながるようにも思えてしまいます(内容は全く違いますが)


「黒鳥」
実在のバレリーナ・マリア・トールチーフを語り手にして描かれた物語です。
マリアと結婚した有名な振付家バランシンがミスターBという名前で登場します(そのことを表記されてはいますが)バランシンに霊感を与え続けたのは出会った若く美しい女性たちで、その出会いごとに彼はその女性たちと結婚、そして離婚を繰り返します。
その行動は「男性は若く美しい女性を求める」ことを極端に嫌悪しというか憎悪する山岸凉子の感性に酷い衝撃を与えたのだと思います。
このことも「バランシンとマリアは離婚後も仲が良かった。このマンガの描き方は間違っている」という文章を見つけましたが、仲良くしていたとしてもマリアの心の中は判りません。
作中にも描かれていますがバランシンは実際悪気はなく純粋に若く美しい女性に惹かれているのでしょう。そして結婚した女性には心から忠実に献身していると自己を信じ切っているのですが女性から見ればそれは裏切りなのだと山岸氏は描いているのです。
悪い人ではないから仲良くはできても異性として愛することはできないのです。
自分の中の女を殺されてしまうからです。
短編ですから単純に描くという技法もあると思います。

怖ろしい二つの短編の後はエッセイマンガでこちらはほっとします。

少女の頃バレエを学んでいた山岸凉子さんが40代後半になって再び教室に通い始める、という話を楽しく描いています。男性編集長を巻き込んでの参加だったのですが、なんと無理をして骨折をしてしまうという事態に。それでも頑張り続けるのがすごいです。
しかも他にも多々困難が待ち構えるドラマチックな展開です。
発表会を終えた後は真っ白な灰になていたという・・・。

バレエというと若い男女のもののようですが実際は年を取ってから「健康のために」というようなことで始める人も多いのですね。
緊張感あふれる発表会のどきどきも楽しそうです。

2つ目のエッセイにはなんと首藤康之さんも登場してのレッスン。
それにしても山岸凉子氏のバレエマンガになれてしまうとこのポーズの描き方が当たり前になってしまい、他の人が描いたのを見るとあまりの下手さに(ほんとに失礼な言い方ですが)驚いてしまうのですよね。
重心の置き方、手足の角度や線の描き方、衣装や靴の描き方、山岸氏は簡単な線ですらっと描かれているのですが他の人の絵を見るとすべて少しずつおかしく見えてしょうがないのです。
これは思いもよらぬ副作用でありました。
(もちろん、上手い方はうまく描けていますけども)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿