ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「嵐が丘」E・ブロンテ 中村佐喜子訳

2018-10-02 06:52:41 | 小説


文学少女、というと「嵐が丘」というタイトルが浮かんできて「そればかりではあるまい」と思いながらもやはりその通りであると考えてしまう。

というのは「嵐が丘」を書いたエミリ・ブロンテはイングランドの北部ヨークシャーで生まれ育ち、ほぼそこで人生の30年を過ごしたという女性であるという。友達も恋人もなく家族の間だけで勉強し文学に浸って暮らしていたエミリ、という姿は現在のオタク少女と重なってしまう気がする。

恋愛経験もなかったというエミリが英文学史上際立った男性像のひとりであるヒースクリフを作り上げた、ということになる。これは大変なことではないのだろうか。


以下、内容に触れますので、ご注意を。





ヒースクリフという名前だけしかないこの男は捨て子だった。ヒロインであるキャサリンの父親が何故か彼を気に入って家に引き取ってしまう。キャサリンの家は田舎にあるが使用人も幾人かいる裕福な立場である。
ヒースクリフは明らかに周囲の男たちとは違っていた。皮膚も髪の色も浅黒く、たぶんインド人かジプシーの捨て子だろうと噂される。キャサリンの兄・ヒンドリはヒースクリフを目の敵にして虐めるがキャサリンは一目見てヒースクリフを気に入りいつも一緒に遊ぶ幼馴染となる。

この物語が非常に面白いのはロックウッド氏という極めて純朴そうな一紳士がネリというキャサリン一家で仕えてきた家政婦から昔話を聞く、という構成で語られていくことだ。
つまり物語はネリ・ディーンという女性が見たこと、聞いたことのみから知らされることになる。登場人物の動向・心の中はネリ・ディーンだけが知っていることに限る、というトリックでもある。
なのでネリに打ち明け話をよくするキャサリンの心情はよくわかるが、彼女とあまり話をしないヒースクリフの感情はあまりよくわからない。
この視点はとても面白い仕掛けだと思う。さほど文学の勉強をしていないはずのエミリ・ブロンテがなぜこんなギミックを使ったのか?もしかしたらその当時はよくある手法だったのかもしれないが。(イギリス文学にはままあるようにも思えるけども)
嵐が丘の登場人物はキャサリンにしろヒースクリフにしろ他の者たちまでやや野卑で激情型であるのだが、そこでこの「ネリ・ディーンが語る」という仕組みが生きてくる。
この仕組みのおかげで、また語り手ネリが意外に落ち着いたクールな女性ゆえに「嵐が丘」という感情に走る物語をじっくりと冷静に判断しつつ進行できたのだと思える。

さて本題である。
ヒースクリフ、という存在はいったいなんなのだろうか。

物語のヒロイン・キャサリンは言う。
ヒースクリフを愛するのは「わたしよりも彼のほうがもっと私自身に近いからよ。彼とわたしの魂はまったく同じなの」

そう言いながらキャサリンは金持ちでハンサムなエドガァと結婚してしまう。
読者はとまどってしまう。何故なのか、と。

それはまさしくキャサリンとヒースクリフが同じ人間である女性と男性だから、なのだろう。
作者エミリは内向的でありながら激しい気性でもあったという。
彼女はきっと内気で外へ出ることができない女性である自分と荒々しい気性の男性になりたい、むしろ自分はそうなのだと思っていたのかもしれない。
ヒースクリフは自分の周りにいる男性たちとはかけ離れている。作者エミリの周囲にいたのはエドガァのような温厚で礼儀正しい白人男性だったろう。一方ヒースクリフのような存在は身近にはいなかったのではないのだろうか。
姿かたちが似たような人物・外国から来たのではないかと思える異質な男の姿を見たことはあったかもしれない。そういう男の容姿に作家エミリは一種の憧れと妄想を抱いたのかもしれない。私たちも異国の人に憧れるように。

捨て子だったというヒースクリフはインド人かジプシーの子供ではないかと噂される。皮膚も髪の色も黒く、エドガァよりは頑健で背が高く肩幅も広いがっしりした体格であるが、読み書きを教えられず乱暴な性格になって家を飛び出してしまう。
その後、ヒースクリフは軍隊にいたのではないかと言われるようなどっしりと落ち着いた風格を持つ大人の男になって戻ってくる。野卑な印象は失せ、どうやら金持ちでもあるようだ。そしてキャサリンがすでに結婚していながらも変わらぬ愛情を持ち続けるのだ。

これは少女のファンタジーなのである。
周りの他の男とは違う、燃えるような黒い眼の荒々しい男。卑賎な身の上ゆえに野望と復讐を誓いながらキャサリンを唯一愛する男。他にはなにもない。美しいイザベルとの結婚は復讐のためでしかなく、ヒースクリフの心を慰めることはなかった。
いつまでもキャサリンの魂を求め荒野を彷徨う男。そしてキャサリンも唯一愛したのはヒースクリフだけだったのだ。
最後、ヒースクリフは自分の頑健な体を恨み、自ら死へと導く。
これでやっとキャサリンとヒースクリフはひとつになれたのだ。二人の激しく純粋な魂は寄り添いながら永遠に荒野を駆け巡るだろう、と物語は終わる。

自分自身、荒野に生まれ育ち、実際の男とは生涯寄り添わなかった女性エミリ・ブロンテ。彼女がキャサリンであり、ヒースクリフでもあったのだ。
他人との交流がなかった彼女は自分の想像の中で最も美しい男女の愛を思い描き、文章にした。
当時「嵐が丘」は評価されなかったという。あまりにも現実的でない夢想と思える物語は受け入れにくいものだったのかもしれない。時を経てやっとその少女の夢想が真に純粋な愛の形を描いたものだと気づく人々が現れたのだろうと思う。

現実的でないからこそ、時代を経てもなおヒースクリフとキャサリンの魂を感じることができるのだ。

それにしても、キャサリンがあまりにあっけなく死んでしまうので不思議にも思えたのだけど、エミリ自身が30歳で亡くなっていることが重なってもくる。エミリは医師にかかることを拒否したということだし、キャサリンの最後も同じように取り立てて特別な医療があったようには思えない。当時の医療がどのようなものだったか、ということもあるけど。
キャサリンの死を書いた時、エミリ自身も自分がそんなに長く生きる人間ではないと思っていたのだろうか。
「嵐が丘」の前半に登場する人物たちは短命だ。キャサリンの両親、兄ヒンドリ、その妻フランシス、エドガァの両親、キャサリン、エドガァ、そしてエドガァの妹イザベラ、さらにその息子(ヒースクリフの息子でもある)リントン。これだけが次々と死んでしまうのだ。しかも若いうちに。
語り手のネリ・ディーンと聞き手のロックウッド氏が健康そうなのは喜ばしいし、なんといっても物語の後継者となるヘアトン・アーンショウとキャサリン・リントン(それぞれヒンドリの息子とキャサリンの娘)が夫婦となり健康な体と精神をもって長生きしそうな予感を持たせてくれることがこの小説の光明である。

ごく狭い世界観の少女の夢想とも思える小説ではあるけど、この語り口の巧妙さは驚きであるし、激しい思い入れには現在のオタク女子が持つ妄想を重ね合わせてしまう。

ヒースクリフとキャサリンの持つ愛情の純粋さはいつの世でも女子の憧れなのに違いない。

今一度、死を前にしたキャサリンとヒースクリフの激しい抱擁の場面を読み返していただきたい。

「ああ、キャシィ!ああ。おれの命!どうしてこれに耐えていけようか!」

ヒースクリフがキャサリンの体を抱きしめた後、皮膚に青くはっきりと指の跡がのこっている。
キャサリンが気を失ったのではと心配するネリが近づこうとするとヒースクリフは歯をむき出し、狂犬のように泡を吹きながら、とられまいと彼女を引き寄せる。
ネリは彼が同じ生き物ではないような気がして茫然と見ている。

「もう一度キスしておくれ。そしてその眼をおれに見せないでおくれ。あんたがおれにした仕打ちは許すよ。おれはおれを殺したあんたを愛する。―だが、あんた自身を殺したあんたを、どうして愛せるんだ!」

礼拝からエドガァが帰ってくる物音がする。
ネリはヒースクリフに早く逃げるよう叫ぶ。
キャサリンは狂人のように叫ぶ。
「だめェ!」「ああ、行かないで、行かないで。これきりお別れなんだから!エドガァはどうもしないわ。ヒースクリフ、あたしは死ぬわ!あたしは死ぬわ!」
「ちくしょうめ!あのばかが来やがった」ヒースクリフは叫んでまた元の椅子にどっかり腰をおろしました。「静かにおし、いい子だ!静かに、静かに、キャサリン!おれはここにいるよ。ここでやつに射たれたら、おれは祝福を口にしながら消えていこう」

ヒースクリフとキャサリンは、供時代の描写はあまりないのでわからないのだけど、大人になってからの肉体的な接触の場面はここくらいしかないのである。
ふたりの激しい愛情。それは子供時代に築かれた精神的な愛ゆえだったのか。
死んでしまったキャサリンに「幽霊になって会いに来い」と叫ぶヒースクリフ。
その言葉通り、幽霊となって何度も現れる(ヒースクリフの前には現れないのだが)キャサリン。

こんな愛が真実の愛なのだとエミリ・ブロンテは書き記した。

文学少女の夢の物語なのである。




最後に、私の「嵐が丘」は旺文社文庫の中村佐喜子訳であることが重要だと言っておきたい。
別の翻訳を読んだら、これは私のヒースクリフではない、と拒否してしまったので。

なのでここに書いた人名は他と違うものかもしれない。中村佐喜子氏訳ではキャシィであり、エドガァであり、ヒンドリであり、アーンショウなのだ。
作者もエミリ・ブロンテと記されている。
長年これで親しんできたので他の書き方だと途端にイメージが崩れてしまう。
ヒースクリフが自分を「ぼく」と言う訳文ではそれ以上読まずに本を閉じた。
イメージは大切である。


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