ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「虹色のトロツキー」安彦良和

2018-10-10 07:14:48 | マンガ


安彦良和氏のことを書きたくなったのだけど、やはり難しくて、一番良く読み込んだこれからにしてみます。

長くなるでしょうが、前置きを書かせてください。

安彦良和氏を知ったのはやはり「機動戦士ガンダム」初代でそのずば抜けた絵の巧さとキャラクターのかっこよさに参りました。今でも大好きなアニメ絵師で自分にとって追随を許しません。かっこいいだけじゃなく、様々なキャラの書き分けが飛び抜けて巧いのですね。
これ以上の巧さの人はいないと思うのです。

その安彦氏がアニメ界から抜けてマンガを描き始めた時は正直言ってがっかりしました。
一つは無論アニメで安彦氏のキャラクターを見られなくなってしまう悲しさで、特にその後のアニメ界の絵柄が(1990年代)嫌いになっていった私には酷い喪失感を味わいました。後で思うと、時代がそういう方向へ行っていたわけで、絵の巧い安彦氏は逆にやりづらい環境になっていたのではないでしょうか。

もう一つはマンガ家としての安彦氏の技術が当時はやや疑問に思えるもの、と感じられたことです。卓越した巧さは伝わるもののマンガとしての魅力はまだ物足りない。もっと下手で面白くないマンガはあったとしてもアニメ絵師として最高峰にいた人としては実に「もったいない」転向に思えたのでした。絵はうまいけど、物語はちょっと・・・というのが正直な思いだったのです。

今にすると本当に残念なのは、そう思ってしまったせいで、私は本タイトル「虹色のトロツキー」を読んだのはかなり後になってしまいました。すでに全巻出版されていたので一冊手に取った後は夢中になって読みました。
無論、そうそう簡単に読んでしまえる内容ではなかったので最初読んだときはあまり意味が解らず(笑)歴史に興味をもって色々と知るようになった後にやっと少し本作が判読できるようになってきたと思います(全部理解してるとは言ってませんぞー)

今では安彦氏の物語を作るスタンスが自分にとって一番好きなスタンスです。片方からだけでない書き方はやや印象の弱い書き方になってしまって勧善懲悪スタイルに比べるとどうしても印象が薄くなってしまう。
しかし、その書き方こそ本来あるべき物語なのだと私は思っています。
安彦氏が作った物語ではないのに「ガンダム」こそがそのスタイルで描かれているのは面白いことです。主人公のはずのアムロより敵のシャアに肩入れしてしまうのですから。

さてそろそろ本題「虹色のトロツキー」です。
まずは主人公の立ち位置が好きです。
日本人の父とモンゴル人の母を持つウムボルトですが、日本人の父親に対しては悪い記憶しかなく日本人を嫌っています。運命によって辻政信の策略で満州国・新京に建てられた「建国大学」へ研修生として送られることになります。
「日本人を嫌っている」というのが安彦氏の物語のスタンスです。
ウムボルトは最後まで日本人を好きになることはできませんでした。「良い日本人もいる」くらいの変化です。恋人役の少女はさらに日本人嫌いの中国・ウイグルのハーフです。つまり主人公側はほぼ日本寄りではない、という構図になっていてここにさらなる抗日運動家ジャムツが「イケメン」として登場してくるのですから本作品が日本への疑問として語られていることになるのですね。(ジャムツは途中からイケメンとしての役目を追われ退場してしまいますが)
ウムボルトが男らしく整った容姿の実直な青年である、というキャラなのも好感が持てます。日本映画の中でも古いタイプの主人公の理想のスタイルですね。私はすごく好きです。
ウムボルトは主人公というより歴史の案内役という感じで行動していきます。
飛び抜けた活躍をしたわけでもなく壮絶な大陸を歩いて死にゆく最期にも安彦氏の人生観が伺えます。

物語の前半運命の流れに翻弄され苛立つウムボルトの迷走も興味深いですが、彼が興安軍官学校の指導軍官・少尉となってからの話に惹かれます。
特に最初、指導軍官着任したばかりの際、「要務令」を暗唱できなかったモンゴルの少年兵がウムボルトに謝るのを見て心を動かされ「相撲(ブフ)をやろう」と言ってモンゴル出身の少年兵ひとりひとりと相撲をとっていく場面は感動します。
この場面を描くためにウムボルトが格闘技に優れた男だと設定したのではないかと思えてしまうのです。

その後、ウムボルトは戦争の渦へと巻きこまれていきます。
意義無き戦いに消耗し歩き続けることすら果たせなくなってしまうウムボルトと対照的に辻政信が「正義王道の楽土をこの大東亜に実現するためなら百万の命もオレは惜しまんぞ!!」といって大闊歩していく様が本作の産みだされた原因なのでしょう。
「正義のためなら人を殺すことなどなんでもない」という論理は今もまかり通っていますが、一体どういう論理なのか、教えてもらいたいです。
ウムボルトが愛する麗華に再会することもなく倒れた時、第二次世界大戦が始まるのです。

日本人をあれほど嫌っていたウムボルトが「人と人がみんな仲良くできる世の中」を望み、麗華と自分の子供がそんな世界でなら幸せになれると思う。
当たり前のことがいまだに困難な世界です。

つい先日、フジテレビが「タイキョの瞬間」というテレビ番組を放送し、その中で日本での不法滞在者を検挙する、ということをエンターテインメント的に演出していた、と聞きました。
「正義」とはなんなのか。
「自国のルール違反者を迫害する」イコール正義、という世界は幸せなのでしょうか。
何故そんなことが起きているのか、を考え、少しでも人々が幸せになれる方法を見出していく、そのことを訴えていくのが大きなメディアの根本でなければ世の中は生きていけなくなってしまいます。

人間は完ぺきではないからこそ、常に考え論じ合い高い理想を目指していかなければならないと思うのです。
そのことこそが幸福への道ではないのでしょうか。

こういう考え方は歴史上多くの思想家が掲げ実行しようとしてはつまずきさらに迷走し而して考え続けてきたのだと思います。
「我こそが正義」という考え方は恐ろしいです。
50代の私たち世代は「正義」という言葉が常にアニメ・マンガで謳われて育ってきた世代ですが、その正義の正体を見極めるのはなかなか難しく、容易に理解することができないのですね。

「正義の味方」はどのような人なのでしょう。






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