ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

「貝の火」宮沢賢治

2018-10-17 07:01:44 | 小説


とても難しいお話です。

一見よくある因果応報的な教訓と思えてしまいますが、すじを追って読むと逆によく判らなくなってしまうのです。これをじっくり考えなくてはなりません。


以下、内容に触れますので、ご注意を。




子兎ホモイはひとりで遊んでいる時、川に流されるやせたひばりの子を見つけ、迷いなく水に飛び込んで助け上げ、ひばりの子の顔を気持ち悪く思いながらも花びらを体にかけてあげる優しさもありました。その後ホモイは熱病にかかってしばらく寝込んでしまいますが、両親やお医者さんのおかげで治った頃、助けたひばりの子の両親から美しい玉をお礼にと渡されたのでした。それは「貝の火」と呼ばれるもので玉の中で様々な色や形が変化して燃えるように見えるのです。
その「貝の火」はひばりたちの王様からの贈り物で「あなた様のお手入れしだいで、この球はどんなにでも立派になる」ということでした。


ここまで読むと「ははあ、それで子兎ホモイはきっと人助けをしたことで増上慢になり、その罰として貝の火が消えてしまうのだろう」と思ってしまいますね。

確かに結果から言うとホモイはどんどん間違った方向へ行って両親兎を心配させ貝の火は消えた上に破裂し、そのかけらがホモイの目に入って目が見えなくなる、ということになってしまうのです。

が、途中経過を追うと、ホモイが威張ってモグラをいじめたりリスをこき使ったり狐が盗んできたパンを食べたりするのですが「貝の火」はますます美しく燃え盛るのです。ホモイのお父さんはホモイの心が悪くなるのを随分心配してホモイを注意するのですが、そのたびに「貝の火」がより美しくなるのを怪訝に思っています。

読者はどうしてホモイの意地悪がどんどん酷くなるのに、「貝の火」がよけい美しくなるのか、と考えてしまうでしょう。そして狐が仕掛けた罠の網に鳥たちがつかまっていたのをホモイが助けた時に(つまり意地悪をやめ、良いことをした時に)初めて「貝の火」の炎が曇るのです。そして両親兎とホモイが狐をこらしめ、たくさんの鳥を救い出した後、「貝の火」は壊れてしまうのです。
これは奇妙な展開ですよね。

私も文章を追って考えてみました。
するとひとつ気づいたことがあります。
ホモイが悪いことをしてお父さんから怒られた後に「貝の火」を見る時はより炎が綺麗に燃え盛るのですが、狐に脅され、どきどきして(なにか気になった、ということでしょうか)自分で「貝の火」を取り出して見た時に初めて炎の曇りを見つけるのです。
つまりホモイはこの時初めて自分の行いを「どうだろうか?」と推し量ったのです。
最初にホモイが行った善行はお礼を求めたものではなかったし、後で行った悪いことも考えなしです。
だけど、ホモイが見返りを期待して行動した時に「貝の火」は消えてしまうのです。

これはちょっと難しい話です。

悪いことをするのはいけませんが、それは当然いつか罰せられるでしょう。
でも善行をする時、見返りを期待するのは自分の心の中のことなので誰かが判断できることではありません。
ホモイが「貝の火」を保ちたい、為に善行をする。それはもう純粋ではないのです。まだしも何も考えず悪いことをするほうが純粋ともいえるのです。
「貝の火」は純粋な心、なのではないでしょうか。

それを意識した時、もう純粋ではなくなってしまうのではないでしょうか。

ホモイはそれを知って目が見えなくなってしまいました。

これは寓話です。自分の行動が起こした様々な出来事で心が揺らいで、ホモイは自分の心が判らなくなってしまったのです。

お父さん兎の言葉通りになるのを願います。

「泣くな。こんなことはどこでもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はまたきっとよくなる。お父さんがよくしてやるから。な、泣くな」

そうです。純粋な心を失ってももっと強くなれるのではないかと信じたいです。

「カン、カン、カンカエコ,カンコカンカン」と朝の鐘を高く鳴らしました。
という最後はきっとホモイの成長を祝っているのだと思うのです。


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