ガエル記

本・映画備忘録と「思うこと」の記録

宮沢賢治「貝の火」についてもう少し~執着のない心~

2018-10-17 21:25:36 | 小説


朝書いた宮沢賢治「貝の火」についてもう少し。

私は「貝の火」の意味は特に子供時代に持つ純粋な心なのではないか、と考えています。

「良いことをしたバロメーター」のようなものではないのです。だから悪いこと、意地悪なことをしたから消える、壊れるということではなく「何かに囚われてしまうことのない心」の象徴ではないのかと思うのです。
なのでホモイの心が「これでいいのだろうか」と囚われた時に炎は消え、玉は砕け散ったのではないのでしょうか。


これを書いてて思い出したことがあります。
この夏、山口県で行方不明になった小さな男の子を見つけ出した男性・尾畠春夫さんのことです。男の子がなかなか見つからず皆が絶望的になっていた時、突然現れあっという間に男の子を見つけて親御さんに届けあっという間に去ってしまった方です。
「小さな命を救えてよかった」とだけ言い残し何のお礼も受け取らず、でもちゃんとTV報道には受け答えをしている姿に感動した方も多かったと思います。私もこんな人がいるんだと驚いて見ていました。
更に感心したのは報道陣が尾畠さんの次のボランティア活動の場まで追いかけて「助けた男の子に会いたくないですか?」と問いかけたら「全然そんなこと思っていない。元気ならそれでいいよ」とざっくばらんに答えたことです。
本当に報道陣への受け答えと言い、何にもこだわってない感じが良いなあ、と思いました。なかなかできないことだと思います。
尾畠さんの「貝の火」はきっと燃え盛っているのではないでしょうか。

もう一つ、これもTVで知ったのですが仏教のお話です。

ふたりの僧侶が旅をしていると川岸で若い女性が渡れずに困っています。
女性に触れてはいけない僧侶の身なのでその禁を破るのは、と一人の僧侶が迷っているともう一人の僧侶が彼女をさっと抱き上げ川を渡って向かい岸におろしました。
しばらく僧侶たちは歩き続けましたが、女性を助けなかった方の僧侶はこのことについて悶々と考え、ついにもう一人に話しかけました。
「さきほど若い女性を抱きかかえたのは僧侶として、やはり間違いだったのではないか。」
もう一人の僧侶が答えました。
「私は女性を向こう岸でおろしたが、おまえはまだあの女性を抱いているのか?」

これもこだわりの心に対する戒めのお話ですね。
尾畠さんはこのような思想を持った方なのでしょうか。
自然とそういう気持ちになられた方なのでしょうか。
まったくこのお話から学ぶような「こだわりのない心」「執着のない心」を実践されているのだと思いました。

宮沢賢治の「貝の火」もこの「執着のない心」を意味しているのではないか、と考えます。
ホモイは最初は執着せずにいられたのに、だんだんとこだわりを持つようになってしまいました。
それはある意味、成長していく過程でどうしても持ってしまう気持ちなのだと思います。
人助けをして、さっとそれを忘れてしまうこと。
良い人だと皆に言われたいと思う気持ちを持たないこと。
そんな執着のない心を持つ大切さを賢治は「貝の火」で描いたのではないでしょうか。

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