蒲生郡日野の町を歩いた日は晴れていたが、町をつつんでいる陽の光までがぎらつかず、空に一重の水の膜でも覆っているように光がしずかたった。
やがて家並のあいだに、大きな鳥居があった。くぐると、境内の結構や社殿がふしぎなほどに品がよかった。境内に林泉があり、ひとめぐりして鳥居を出た。鳥居の前から家並のゆきつくはてをながめてみると、向こうの屋根の上に淡く雪を刷いた岩山のいただきがわずかにのぞいていた。それが奇妙なほど神々しくおもえたのは、私の中にも古代人の感覚がねむっていたからに相違ない。
もう一度神社に入りなおして社務所の若い神職にきくと、ああ綿向山でございますか、あのお山は綿向神社にとって神体山でございます、ということだった。神社は延喜式の古社で、建立はそれ以前であり、社殿がここに造営されたのは白鳳十三年(六八五)であるという。
京都のホテルに帰ると、古い友人が訪ねてくれていた。世の事に疲れきっていて、話し相手をほしがっている風情だった。二日目に、ふと、近江をお歩きになると、疲れがなおるかもしれませんよ、といってみた。漠然と歩くのも何でしょうから、蒲生郡日野町の綿向神社に行ってみられるといいかもしれません、と言い、いかにも近江通であるかのように滋賀県地図のその場所に赤いマルをつけて渡したりした。
やがて、友人は近江からもどってきて、意外にも綿向神社の社務所で買ったという小さな絵馬をくれた。杉材の絵馬に、イノシシの焼印が捺されていた。
「ご存じなかったんですか」
友人は、いった。
「あのお宮では、十二年に一度、イノシシ年にだけこの絵馬を出すのだそうです。ことしはイノシシ年ですから」
私は干支に鈍感で、この正月がイノシシ年のはじまりであることも気づかなかった。まして綿向神社がイノシシ年の年男のための神社であることも知らなかった。この友人と私は同年で、干支はイノシシなのである。この偶然のかさなりが友人の気分をあかるくし、私まで余慶を頂戴した。
司馬 遼太郎『街道をゆく 近江散歩』より抜粋
今年は12年に一度の亥年
もうあれから12年。
光陰矢の如しとは
よく言ったもので
月日がたつのは
本当に早すぎる。
古い絵馬を持って
馬見岡綿向神社(うまみおか わたむきじんじゃ)に
お参りに行ってきた。

正月の七日
さすがに駐車場も
空きスペースが目立つ。
近江商人が寄進したと
言われるだけあって
立派な本殿の前に立つ。

手を伸ばしてお賽銭を入れ
大きな鈴を鳴らし
二礼二拍手一礼の
神様への正式な
ご挨拶をして
無病息災をお願いした。
社務所で猪の刻印された
絵馬を買い求め
古い絵馬を一礼して
納めさせていただいた。

12年前は確か
刻印した絵馬が足りず
住所を書いて送っていただいた。

巫女さんにしては
少々年配の方が
親しげにどこからですか?
と尋ねてくださった。

今年で3回絵馬を
頂いています。
12年前は郵送でした
と話すと自分の責任のように
申し訳ありませんでしたと
おっしゃられたので
恐縮してしまった。

猪は綿向大神様の神使いとされ
古来より尊ばれてきたそうだ。

境内には神猪像として
猪の像が安置されている。

どの神猪像にも
手を合わせ
お参りを済ませ
神社をあとにした。
12年後の亥年に
お参りできる
自信はないのだが
この絵馬を返却すると言う
大きな目標ができたお詣りだった。