Fuji Trip!

水豚先輩の週末旅日記

13.永観堂-見返り阿弥陀

2015-11-01 22:48:33 | 京都百話


南禅寺と共に東山山麓に位置する禅林寺。
またの名を永観堂という。

その名は本尊のみかえり阿弥陀像の逸話で知られる永観律師に由来する。

山肌に張り付く境内には起伏が多く、御堂を結ぶ廊下は各所で階段になる。
ちぐはぐした感じが迷路のよう。
中でも臥龍廊と呼ばれる階段は、いっそすべり台にでもしてしまいたいくらいの急斜面でその名の通り龍の姿を彷彿とさせる。

境内のもっとも奥にあるのが阿弥陀堂。
ここにいらっしゃる阿弥陀如来は「みかえり阿弥陀」と呼ばれ、お顔だけが横を向く他に例の少ない像。

薄暗い御堂の中、遠くに見える阿弥陀様は思ったより小さい。
身体はこちらに向かって来迎印をしているのに顔がそっぽを向いてしまっている。
仏様に会いに来て、顔が合わないのは寂しい。
御堂の中で阿弥陀様のお顔の向く方向へ回り込んで手を合わす。

いちばん近いところに立って、じっと見つめると繊細な造形に神々しさを感じずにはいられない。
すーっとこちらを向いて何かを囁いてくれるような優しい雰囲気。

御堂の中の匂いと音と光の中、阿弥陀様を拝んでいるとふわふわと夢に中へ行ってしまいそうだ。

極楽浄土に導いてくださるかもしれない。


12.南禅寺-山門

2015-10-31 22:10:31 | 京都百話


細く高い松の林を抜けると木造の三門が見える。 

小さいころから様々な媒体を通して自ら作りあげた寺院のイメージに限りなく近い気がする。
背後には山に抱かれ、背の高い樹林に囲まれた閑静な地。
そこに現れる、思わず見上げてしまうような三門。

絵に描いたような寺だ。

いつかの宿の主人は、「雨の日の朝の南禅寺はいいですよ」と言っていた。
霧がかるひとけのない境内で聴こえる念仏を聴いてみたい。
私たちのような観光客が消え去った時、ここは俗世から離れた異世界になるに違いない。



とりあえず最初は高いところから、境内を見渡すことにしょう。
南禅寺は京都でも珍しく、年中三門に登れる。

きっと高い建物がなかった時代、三門からの景色を楽しみにしていた奴がいるに違いない。
石川五右衛門はかつてこの三門に登り、こう言ったという。

「絶景かな 絶景かな」

五右衛門が言ったか言わなかったかは置いておいて、そんなことを言われたら自ら登ってその景色を堪能するしかない。
本当に絶景かな?

壁のように急な階段を、綱でできた手すりにつかまって一気に登る。

スリッパを履いているが冷え冷えとした空気が足から伝わってくる。
今日はだいぶ冷え込んでいる。

階段を登り終えると目の前には京都市街の風景。
手前には南禅寺境内の林が広がって、その奥に京都の街並みが見える。

林の木々を雲に見立てて、遥か遠くに私たちの住む世界があった。
とすればここは天界だ。五右衛門の言うことにも納得した。


11.京都タワー

2015-10-28 23:36:58 | 京都百話






京都タワーという奇抜な塔が、京都の駅前にある。
「灯台みたい」とフォローが入るくらいの場違いな存在なのである。
ビルの上に建ったその姿を見ると、ウルトラQに出てきたよくわからん花の怪物を思い出す。


日本の塔史上でも珍種中の珍種。
東京タワーのように塔の支柱に組み込まれる形でビルが存在する例は多いが、ビルの最上階から伸びている例は少ない。
ビルから延びるタワーは骨組みのないつくりで、円筒形の銅版を縦につなぎ合わせてできている。

そんなに珍しい建物ならば、ためしに一度登ってみるのもいい。
前世紀の香り漂う京都タワービルを抜けてタワー展望台へ。

展望台は二層構造になっていて、エレベーターは二階に到着する。
円形の展望台からは京都市街が一望できる。
タワーのアクセントとなっている赤い鉄骨が時々邪魔に思えたりもするが、高層建築の条例の厳しいこの街は見晴らしがとても良い。

碁盤の目状に整備された京都の街の景色はまるで箱庭のよう。
山に囲まれた小さな街のざわざわとひしめき合う音もここまでは聞こえない。

南に目を向けると、京都を分断する巨大な塊、京都駅が見える。
周囲の光を我がものにして輝いている。


寺社拝観が早めに終わってしまう京都の夜は長い。
灯る京都タワー、煌く京都駅ビルは夜の主役といったところだろうか。 

京都タワーがなんだか少し色っぽく見えてきた。


10.慈照寺-銀閣

2015-10-26 22:42:54 | 京都百話

哲学の道から逸れて、坂道を登りつめると銀閣寺こと慈照寺がある。
鹿苑寺とともに足利家ゆかりの相国寺派の寺院である。建立は足利義政。

銀閣と呼ばれる観音殿は、しばらくの間修復工事をしており、修学旅行時には真っ只中だった。
ゆえに銀閣をお目にかかるのはこれが初めてなのだ。

拝観料を支払い、生け垣を進んでいくと横にぬっと銀閣が現れて驚く。
教科書や資料集で幾度となく眺めているためか、「みたことあるわ、これ。」という感想。
想像通りの色をして想像通りの大きさをしている。

それは、決して残念だと言うのではなくて、期待通りの現実感、落ち着く空間を今に残している。
また、 信仰の寺院とは少し違うから、寺にいるという感覚は少ない。

義政の別荘にお邪魔する感じがいい。
腰を掛けて季節や天気の移ろいとともにじっと見ていたい。


建築として気になるのは、東求堂。
四畳半発祥の地とも言われる同仁斎は義政の芸術活動の根源であり興味深い。
高額な拝観料を支払わないと見ることはできない伝説の四畳半である。


9.安井金毘羅宮-縁切り縁結びの碑

2015-10-25 12:06:33 | 京都百話




祇園の花見小路から路地を散策して歩いていると、やがて安井金毘羅宮に着いた。

ここは縁結び・縁切りにご利益のある神社として知られている。
祭神の一人、崇徳天皇が讃岐に流された際に欲を断ち切って籠ったことに因み、断ち切り・縁切りの信仰に結び付いたといわれている。
境内には縁結び・縁切りに関連する不思議な形をした石がある。

名前は「縁切り縁結びの碑(いし)」というらしい。
碑といってももはや石の姿は見えず、中心に穴がある大量の形代の塊のようである。

ナウシカに登場するオームのようにもぞもぞ動き出しそうな姿をしている。

縁切り・縁結びを願う人は、願いを形代に書き、まず碑の穴を表から裏へ潜り悪縁を断ち切り、
裏から表へ潜り抜け良縁を結んでから最後に形代を碑に貼って祈願するという。

碑の形代には「あの人と結ばれますように」という微笑ましいものから、
「あいつさえいなければ」というような身震いをするようなものまでがべったりと貼られている。


そう思うと、生きていく中で常に絶えることのない人間関係の中で、縁結びと縁切りは非常に近いものであることを知る。
はたして今、形代に書いた願いと裏腹にもう一つの願いを秘めてはいないか。

期待と苦悩入り乱れた欲が渦まく碑に少しだけ身震いをした。


8.知恩院

2015-10-24 21:17:09 | 京都百話


外は生憎の雨模様である。

白川沿いに門があって、どうやらここからは知恩院が近いらしい。

広い道路には誰もいない。周囲は浄土宗系の学校や施設が密集しており、浄土宗町を形成している。緩やかな坂の頂上に位置するのが知恩院だ。

知恩院といえば三門である。高さ二十四メートル。木造門としては日本最大級だ。目の前に立つと、ドッシリとした構えに早くも圧倒される。


意味もなく三門の下で雨宿り。
誰もいない境内はモノクロの世界である。
傘を差さぬ今では聞こえる音は瓦に打ち付ける雨の音だけ。
ゆっくりとした時間の流れに心洗われるかのようだ。

羅城門の下で雨やみを待っているのは下人であるが、私は知恩院の門の下で止まぬと分かっている雨を眺めながら過ごす。

知恩院には七不思議が伝わっていて、その一つに「忘れ傘」というものがある。
御影堂の手の届かないほど高い軒裏に、傘が一本おいてあるのだが、左甚五郎か白狐がいずれも魔よけとして置いていったものだという。
三門下に置いた傘を私が忘れたら、もう一つの忘れ傘が誕生することになるが、どうやら忘れられぬほど雨脚は強まっているようだ。


7.蚕ノ社

2015-10-23 23:20:45 | 京都百話






住宅街というのは何処でもあまり変わらないのだろうか。
ひと度足を踏み入れると自分が何処にいるのかわからなくなってしまう。

なんの変哲もない住宅地をしばらく歩くと、もりもりとした森をたたえた大きな鳥居が現れる。
この森こそ、元糺の森。木嶋坐天照御魂神社の境内地だ。

忽然と現れたその森は想像以上に深くまた、濃い。
木の上では鳥たちが鳴いていて心地よいどころか少し怖い。
神秘的という言葉がふさわしい場所。住宅地に取り残された異世界だ。



境内左手に位置する「元糺の池」に目をやると不思議なものがぽつねんと建っている。
神社でよく目にする鳥居だ。

しかし何かが違う。
普通、鳥居の柱が二本であるのに対しこの鳥居は三本あるのだ。
境内の神秘的な雰囲気、それを通り越して妖しい雰囲気はこの鳥居から出ているだろうか。

鳥居とは神域を現す門。
それが何故三方を向いているのか。
それでも鳥居は何も語らず、只々異様な雰囲気を醸し出している。

謎に満ちた鳥居、私は何らかのパワーがあの池の中心から三方に放たれている、そんな気がしてならない。


6.広隆寺-弥勒菩薩

2015-10-21 23:30:16 | 京都百話

広隆寺の霊宝殿には有名な仏様がいらっしゃる。
国宝第一号として有名な弥勒菩薩半跏思惟像だ。
教科書で見た、あの像に会わずにはいられない。

石畳を歩いて行くと、旧霊宝殿。
隣にそれより一回り大きい新霊宝殿がある。
薄暗い館内には仏像たちがびっしりと並んでいて、作られた時代が異なるのだろう、綺麗なものから損傷の激しいものまである。

弥勒菩薩はその中心におられる。
サイズは思ったより大きく、ぼんやりと輝いている。私は鳥目ゆえにそのお姿をはっきりと見ることはできなかったが、うつむき加減な顔と頬に添えた右手はしっかりと見える。


弥勒菩薩様は未来に如来になることを約束された仏様。
釈迦入滅から五十六億七千万年後、如来となって人々を救ってくださる。
半跏思惟と呼ばれるその姿勢は、どうやって人々を救おうか考えている姿なのだという。


私は良いことを思いついて、思わず「フヒッ」となってしまう時がたまにあるが、弥勒菩薩様のその微笑みもそれに似ているのかもしれない。
なんてことを思ったりもするが、いつの日にか人々を救うため、今日も思案にふけっているのである。


5.鹿苑寺-金閣

2015-10-20 23:39:59 | 京都百話






鹿苑寺といえば金閣。
古都の代名詞である。

いつでも多くの修学旅行生や異国の団体旅行客で溢れかえっている。
総門を過ぎてまっすぐ進むと大きな池が現れて、その先に金閣が現れた。

「今日は風がないから水面に綺麗に映っとるやろ。」

タクシー運転手兼観光案内人の人が修学旅行生に話している。
本当だ。水面にもう一つの金閣が浮かんでいる。

北山文化の代表としても挙げられる金閣は室町幕府三代将軍、足利義満によって建てられた。
お堂に金箔を張ってみたり、各階の建築様式を変えてみたり、義満はそうとうアヴァンギャルドである。
この奇抜建築は奇跡的に応仁の乱で焼失を免れて二十世紀までその姿を伝えていたが一九五〇年に放火により焼失。
残念でならないが、現在の金閣は再建された二代目。

光輝く金閣はあまりにも「おくゆき」がないので、遊園地にあるハリボテのようだ。
そんな目で見たら復元建築がみんなハリボテに見えてきてしまいそうで、考えるのをやめた。


4.竜安寺石庭

2015-10-19 22:50:36 | 京都百話



きぬかけの路沿いに立つ、石庭で有名な竜安寺。
以前は庭園や枯山水に興味が湧かなかったために、訪れることはなかったが一度見てみようと思う。

方丈内に入って靴を履き替える。
スリッパは大人用と子供用が用意されており子供用はミッフィーが描かれていて可愛い。

お寺で靴を脱いで入るという行為が何となく好き。
人の家にお邪魔するような、親近感にも似たような気持ちがしてドキドキする。
こういう感情って日本人独特のものなのだろうか。
外との境界がフラットで、土足でずかずか入る行為こそ親近感か。


薄暗い方丈を歩いていくと、石庭が姿を見せる。
噂には聞いていた竜安寺石庭。縁側に座って、有名な庭との対峙が始まった。

土塀に囲まれたモノクロの空間に配置された、いくつかの石。
それ以外には何もない。
これが「極端にまで抽象化された世界」と謳われた庭である。
石の数は十五個。しかし、同時にすべて数を見ることはできないという。

また、この庭園が何を現しているのかもよくわかっていない。
「虎の子渡し」や「七五三配置」などと呼ばれ、従来から様々な憶測がなされているが、定説はない。
もちろん私にその謎が解けるはずもない。


人の少ない朝の竜安寺。
縁側に座る者は私の他にあと2人ほど。
静けさがあたりを包んでいる。
時間を気にせずにじっくりと庭を見つめてみる。


ふと、「この庭、角度美人だな。」と思った。


庭全体を見渡すのではなく、自分が気に入った場所から気に入った石を見る。
ゆったりと流れる時間の中でその風景が生きているように、動いているように見えるようになった。
静けさの中にこそ枯山水の良さはあるのかもしれない。
たとえそれが抽象的なものでも。いや抽象的だからこそ根源的なものに気付かされるのかも。

庭の謎を解かなくたって石庭と仲良くなれた気がする。
本当は意味なんてないのかもしれない。