ベトナムの子どもたちに奨学金を――FUJI教育基金

ベトナム南部・北部の中学・高校生、大学生に奨学金を贈って勉学の支援をしています。

2010年奨学金授与の旅(ベトナム北部):3(10月8日)

2010-11-08 | CB(チャット・ビン)中学校
10月8日(金)

 きょうはチャットビン中学訪問。
 06:00 朝食。早いためか、ホテルの朝食バイキングの会場にフォーの用意はしてあるものの、麺がなくて作ってくれない。
 だれかが、「麺がないから、ごメンね」。

 Mr.フンさんが、きょうと明日、付き添ってくれる。
 フンさんは千葉大の建築学科出身で、日本の会社に数年働いたあと、ハノイで「建築と植物のシステム化」をコンセプトにした建築設計・施工・監理の会社を興したベンチャー企業の社長さん。
 仕事が忙しそうで、マイクロバスの中にもしゅっちゅう携帯電話がかかっているのにもかかわらず、われわれに同行してくれた。
 半年前に結婚したベトナム人の奥さんはまだ日本に滞在中で、医師国家試験(眼科医)めざして勉強中とのこと。

 ホテル出発07:20
 まだハノイの中心街を走っていると、右手にある「日本病院」をルーンさんが教えてくれた。この病院(RC造6階建て、延24,817平方メートル)は、ベトナム北部の中核病院であるバックマイ病院の1棟として、2000年に日本の無償援助で造られた。
 ←ハノイ市街

 ←自動車専用道路から見た農村風景

 途中で、カーさんが、タンロン遷都千年祭について、ベトナムの歴史を講義してくれた。

 ――いまから千年前の西暦1010年7月、ニンビンのホアルー城からハノイのタンロンに遷都した。
 西暦939年に中国の支配から独立を勝ち取ったあと分裂状態になって12藩にわかれていた国を、西暦968年、ディン・ボ・リンが統一した。
 彼は、ニンビンのホアルー(華閭)を首都に定めディン王朝を建て、ディン・ティエン・ホアン(Dinh Tien Hoang、丁先皇)と称する。

 しかし56歳で彼が死んだ後、再び中国が侵略を始めたため、西暦979年、丁皇帝の事業を受け継いだ黎垣(レ・ホアン)将軍がディン王朝を廃止し、自ら皇帝の座に着き、レ(黎)王朝となる。

 その後、李公蘊(リー・コン・ウァン)はレ(黎)王朝を倒し、西暦1009年、李朝を樹立。
 広い平野があるタンロン(昇龍)へと西暦1010年に遷都し、西暦1054年、国号を「大越」とした。
 当時の人口は300万人。
 その後ベトナムは、北からの中国の圧力にさらされつづけて南へ進出し、「越南」となった。

 なお、李朝は、侵略してきた元の大艦隊を、潮の干満を利用して殲滅した。この打撃によって、元は計画していた3回目の元寇を行うことができなくなったとのこと。――

 こうしているうちに、バスはハノイから120km離れたニンビン市に近づき、09:50に2度目の休憩(ペットボトル調達)をとる。
 ←休憩した店の前でサトウキビを売っている。

 ニンビン省にはいると、車窓から、せいぜい標高は300メートルぐらいだが、ハロン湾や中国・桂林の景色に似た、険しい山々の姿が目にはいる。


 ニンビン市をすぎると、2車線の道路の両端には、車が通る部分にかからないギリギリまで、籾がびっしりと干し広げられている。


 メインの道路から鋭角に左に細い道へ入る。


 このあたりは、カーさんが6歳まで育ったところ。
 200年前に海を開墾したところで、稲作を中心とした貧しい地域だ。
 道に沿ってある水路に、小さな舟が浮かんでいる。


 コンクリート製の舟とのこと。
 そういえば、グレーの色で、よく見る舟の色ではない。

 さらに、車1台通るのがやっとの狭い道に左折し、慎重に、ゆっくり走る。


 道の左は水路が走り、右は田んぼというあぜ道だ。


 この狭い道には稲藁を広げて干してある。
 ところによっては、積み上げた稲藁が両側から道路をふさいでいて、運転手やカーさんが車を降りて、稲藁をどかしに行かねば通れない。


 2キロメートルぐらい、この細い道を進む。
 コンクリの舟が、ところどころに浮かんでいる。


 さらに進み、左折して小さな橋を渡る。橋のたもとに、小さな肉屋さんがある。


 道はさらに狭く、集落のあいだをすすむ。


道だか、庭先だかわからない。


 突然、チャットビン中学が見えてきた。11:15着。
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