ベトナムの子どもたちに奨学金を――FUJI教育基金

ベトナム南部・北部の中学・高校生、大学生に奨学金を贈って勉学の支援をしています。

[ツ・コア・ギア高校における奨学金授与式](2007年10月12日)

2007-12-24 | TKN(ツ・コア・ギア)高校
チャウドック市にあるツ・コア・ギア高校生20名と、グエン・デイン・チュー中学生20名に対する奨学金授与は、一緒にツ・コア・ギア高校で行われた。
12日は金曜日なので、通常の授業中授業が行われている。授与式に出席したのは、その時間に授業のない約半数の生徒たちだった。
高校1年生のアンさん、中学2年生のグエンさんがお礼の言葉を述べた。なかなか立派だった。
生徒がそろう前に、校長先生にツ・コア・ギア高校の費用について伺った。(英語とカーさんの通訳)
「ツ・コア・ギア高校は、文部省の標準校(文部省の指定校)になって、学費が以前より数倍も高くなった。
さらに、親が負担する学校設備費 の額も大きくなっている。年により異なり、多いときは8万5,000 ドンのときもあったが、今年は3万6,000ドンである。」
授与のあと生徒たちが質問した。
――日本の中学生、高校生はどんな勉強やくらしをしていますか?
――日本の人たちは親のことをどう思っていますか?
など。
こちらから、
「なぜ勉強するか」
と質問したら、
「いい仕事につけるから」
ということだった。
授与式が終わったあと、生徒たちと一緒に昼食をとり,、魚の養殖場の見学をした。


[アンザン大学奨学金授与式] (2007年10月11日)

2007-12-18 | アンザン大学
カントー市から車で1時間ほど離れた、メコンデルタ第2の都市ロンスエン市にあるアンザン大学は、1999年12月に設立された。もと師範学校から昇格して、現在、教育学部のほかに農学部もできている。学生数6,000人である。
FUJI教育基金は2006年からアンザン大学の農学部学生20人に奨学金を授与している。(教員養成課程は授業料免除)
アンザン大学では、世界的に有名なコメの研究者であるスオン学長が迎えてくださった。奨学生は女子13人・男子7名で、前年と同じく女子優勢である。
(ボ・トン・スアン学長)
初めにFUJI教育基金から挨拶をした。「奨学金は少額であるけれど、少しでも皆さんの役にたって将来の社会に貢献してほしい」。
それに対しスオン学長から、「メコンデルタの環境は厳しく、農民の収入は低い。奨学金は安心して勉強できるよう、大きな刺激と励ましになる。また訪問したFUJI教育基金のメンバーに新しい人が増え、また若い人が増えているのもうれしい」とおっしゃった。
また、「アンザン大学は女性が進歩するためのプロジェクトをたてている。女子学生の数は53-54%である。副学長ほか女性のスタッフも多い。特に女性の栄養について考えている。なぜなら、世界的に見てGDPの上昇と女性の体格の上昇は、並行しているから」とのことであった。(アメリカだけが例外)
奨学生の1人アントウさんが感動的な感謝の辞を述べた。
その後、奨学生と懇談した。

学生はアンザン省だけでなく他の地域からも来ている。同じ省からでも自宅からは通えないが、他省からはさらに条件が悪い。
図書館も見せてもらった。開架式で明るい感じであるが、まだ図書は少ない。コンピュータも80台しかなく、1人2時間の制限時間をもうけている。
(アンザン大学の時間を知らせる“ドラ”?)
夜はスオン先生を囲んで、有意義な夕食の会となった。例の橋についても話がでた。(宮本記)

[カントー大学奨学金授与式] (2007年10月11日)

2007-12-18 | カントー大学
カントー大学は、FUJI教育基金の出発点で、在日の元ベトナム留学生たちが初めて奨学金を贈呈した。この1991年から、奨学基金を設立した1996年を経て、いままで17年間奨学金の授与がつづいている。
これまで延べ431人に奨学金を授与してきた。その間、事務的な世話をしていただいた職員も入れ代わり、また大学の経済的な環境も改善されてきたため、2006年からは奨学生数をそれまでの20人から5名に絞り、逆に金額は3倍にして、年間1人300万ドンを授与している。
 メコンデルタ最大の街カントー市にあるカントー大学は、2006年に創立40周年を迎え、記念式典には我々も招かれて出席した。理学部、工学部、農学部、教育学部があるが、これからは文系を整備して総合大学を目指している。特に農学部は、メコンデルタの主要な生産を担っている農業の発展に大きく寄与している。東京農工大学と姉妹校でもある。
1年後には整備されるという分子遺伝学の建物を見ながら、我々は授与式の行われる教室に入った。そこでは顔なじみのキム先生(名誉教授)、副学科長のチュン先生がお待ちだった。若い方のキム(チョン?)先生の司会で、式が始まった。
はじめにFUJI教育基金からの挨拶と紹介、キム先生の奨学生選択の過程の紹介、奨学金授与、園芸科3年のジュンさんのお礼、などがつづいた。ご出席の先生方のなかには、九州大、東京農工大、広島大等日本に留学された人も多かった。メコンデルタはとても生活が厳しいところで、学生達たちにとって、奨学金はとてもありがたいとのことであった。
その後学生食堂で、教室のスタッフや大学院生を交え、奨学生とともに昼食を囲み懇談した。今年の奨学生は男子1人・女子4人で、いぜん女子が優勢であった。(宮本記)

[ベンチェ特別支援児学校訪問] (2007年10月10日)

2007-12-18 | ベンチェ
 翌10日は朝から移動し、ベンチェ省特別支援児学校を訪問した。
 ベンチェ省は、ホーチミンより南南西70km (車で約2時間余) メコン川河口部の広大な中洲地帯に位置している。ベトナム戦争当時、はじめて民族解放戦線が結成され、戦闘が行われたところで、大量の枯れ葉剤散布に曝された地域でもある。
 1989年、日本の女性養護教員により家庭に放置されていたさまざまな障害をもつ子供たちが見出され、日本に援助の会ができ、学校が建てられた。現在では視力、聴力、肢体不自由等の障害をもつ、小学生から高校生までの子供達たち204人が、共同生活をしながら学校教育を受けている。
 日本からの援助は打ち切られているが、ベンチェ省の予算による障害をもつ子供たちへの普通教育は、ベトナムにおいても進んだものとして高く評価されている。しかしここを卒業した後の子供たちは、自立が難しく、やむなく宝くじ売り等をして生活しているものもいる。
 その実情を憂慮した“ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会”の会長で元知事レ・フインさん (Le Huynh=Huynh Van Camさん) の希望を受け、FUJI教育基金では2006年度から、学校卒業生と周辺の障害をもつ生徒への職業トレーニングに対する援助を開始した。

 援助の内容は、刺繍教室を開くための教材、生徒20人分の9ヵ月間の食費、先生の費用である。このトレーニングは、子供たちが将来、自立して生活できるようになることを目的にしている。
 ベンチェ特別支援児学校では、レ・フインさんと前副校長のデイエップさんに迎えられた。昨年会った校長先生は変わられたそうで、会えなかった。刺繍の先生も変わっていた。刺繍教室は、昨年訪問したときは夜で、中高校生も混じって行われていたが、今年は昼で授業中ということもあり、埃の少ない敷地の奥の一室に移り、20名で行われていた。男の子もひとりいた。

 児玉房子さんデザインの憲法九条のポスターを、昨年、教材として試しに作らせ、試作品を日本でまわりに紹介したところ、きれいだと好評を博した。そこで、50枚を注文していたが、その半数以上が出来上がっていた。ほかの作品もとても上手になっていて嬉しかった。一部、サインの位置等の手直しと、ガラスの額をプラスチックの額に換えてもらうよう頼み、先を急ぐ我々はおいとました。(宮本記)

[ツーズー病院訪問] (2007年10月9日)

2007-12-18 | ドクさん

 ツーズー病院はベトナム一の規模の産科専門病院で、日本にもこのような大きな病院はない。ベトちゃんドクちゃんがそこで分離手術を受け、25歳の今日まで(ドク君は結婚して最近独立し、ベト君は先日亡くなった)暮らしてきた。
(ドクさん夫妻)
 私は2年前、初めてドク君に会い、彼の片足を支えている骨盤の小さいこと、手術当時すでに意識のなかったベト君に残り半分を与えたこと、そして今日まで看護をしてこられたツーズー病院の姿勢に深く感動し、尊敬してきた。旅行者には簡単に訪れることのできない病院である。今回、静脈点滴の器械をおみやげに持参した。
 前副院長のタン先生、平和村のチュン先生、ドク君、あとから院長のタン先生も来てくださり、立派なザボン(唐辛子と塩をつけて食べる)をいただきながら説明をうかがった。また、私達の質問にもこたえていただいた。

 なお、平和村は親に捨てられた障害を持つ子どもを育てるために、ドイツのNGOによって建てられ、このツーズー病院内を含めて、全国に4箇所ある。
 医師281人、看護士800人以上、スタッフ1,800人で、ベッド数1,100、患者2,000人、お産は年間4万5,000人。ベトナムには産科の病院が少ないため、患者が集中しているという。日本のように分娩促進剤を使ったり、帝王切開等はせずに、結合児も逆位も普通分娩で産ませる、障害児の割合は約1.5%で、このなかには耳の聴こえない子などは含まれていない。この数字は日本の10倍である。その他、スタッフの仕事のやりかたの違いが、いろいろわかった。
 午後も遅くなったので、平和村の4階だけ案内していただいた。
現在、ツーズー病院の平和村には60人が収容されている。うち35人は学校に行くことができるが、25人は障害が重く、一生面倒を見ることになるという、チュン先生の説明であった。現在はドイツの援助はなく、病院が費用を出しているという。
まず通された一室には、四方の壁全体に3段の棚が設えてあり、異常胎児の標本が保存されていた。ラベルを見ると、戦争終結直後の標本とみられるものから、最近のものまであった。
 子供たちの部屋に行く階段の壁には、子供たちの写真が掲げられている。
ベッドには、重度の障害を持つ小さい子供たちが横になっている。彼らは、思わず抱き締めてしまいそうな美しい目をし、我々の来訪を喜んで声をあげてくれた。子供たちは大変弱いので、空港から直行した我々がどんな病気の原因を持ってきているかもしれないと、早々においとました。(宮本記)


FUJI教育基金・奨学金授与の旅【2007年10月13~18日】

2007-12-17 | ベトナム
【2007年10月13日】  
チャウドック市場へ行く。
ホテルをチェックアウト。
11日にスワン学長と食事をしたロンスエンのレストランで昼食を取り、ひたすらホーチミン市に向かう。
ミトーのドライブイン前で刺繍クラスの先生と待ち合わせ、製品を受け取る。ええーと思うほどの量の製品をバイクに積み、ベンチェから運んでこられた先生に脱帽。
サイゴンホテル着。
日本から1名合流。夜間、関空へ1名、成田へ4名帰国。一部の製品を日本へ持ち帰るため成田組が預けようとしたら14kgオーバー、これくらいまけるよう交渉したら10kgおまけで4kg分払えとのこと。1名のトランクを機内持ち込みにして、結局ただになる。それぞれ無事帰国。

【2007年10月14日】 
コンソン島コンダオ島)へ、かわいいプロペラ飛行機で行く。上空から見たメコン河は道かクリークかよくわからない色で、どこもかも水浸しのように見える。河口は茶色く濁り、ここまでが川の水、ここからが海の水との境界線があり、上から見ると判別できる。
しばらくすると島が見えてきて、いちばん大きな島に回りこむように着陸したが、滑走路は島のくびれたような平らなところにあり、オーバーランしたらそのまま海に突っ込むような小ささだ。海沿いをたどり、ホテルのある中心部へ行く。古いフランス風の建物が多い。
(コンソン島のメイン・ストリート)
大きな“ももたまな”の木が生い茂り、さほど暑さは感じられず、過ごしやすい。しかし海辺で湿気は高い。
屋根付きのテラスで昼食をとり、博物館や虎の檻を見学に行く。
(コンソン島の刑務所前)
穏やかなベトナムの人たちの中に、これほどの反骨精神、独立心が潜んでいたのかと驚かされる。
夕食は、ぱりぱりに焼いたライスペーパーに、ハーブやナッツの刻んだものと少し骨っぽい挽肉の混ざったものをのせて、頂く。海蛇の肉であった。

【2007年10月15日】 
島の市場へ行く。魚屋には、まさしく熱帯魚が並んでいる。はさみで上手に裁いている。市場の中ほどに食堂がある。おこわや、芋羊羹のようなものも売っている。奥の八百屋は、蔓を食べるサツマイモの茎や野菜も変わったものがある。主婦には楽しい場所だ。
その後、虎の檻で亡くなられた方たちのお墓に行く。ジャンヌダルクのような女性(ボ・テイ・サウさん)の墓を詣でた。
囚人に作らせた未完成の橋を見学した近くで、ラタンを見た。籐と訳されているので藤蔓を連想していたが、棘だらけの羊歯のお化けのようなものだ。
島の反対側の漁村へ行き、蟹をとる仕掛けを見たり、漁をする大きなざる舟や海蛇をさばいているところを、面白く見学した。女の人たちが円陣を組んでトランプをしたりしている片隅で干し蝦の殻をむいていて、その場で購入する。帰りに海水浴を楽しむ。

【2007年10月16日】 
コンソン島よりホーチミン市に戻り、フォーのお店で昼食。蕃レイシ釈迦頭)が、とても美味しかった。
戦争博物館(戦争証跡博物館)を見学。
夕食はスコールの中、ベトナムのお好み焼き(バイン・セオ)を頂く。

【2007年10月17日】 
午前中は美術館を見る。インターナショナル・スクールの子供たちが見学に来ていて、五月蝿いこと。裕福な家庭の一人っ子が多くわがままに育っているらしく、今まで会ってきた子供たちとは、人種が違うような気がする。
フランス映画に出てきそうな昔のエレベーターがあり面白い。ステンドグラスも綺麗だ。窓から見える家々の裏側も面白い。
バイキングの昼食。日本であまり食べられなくなったタニシなどの食材も味わう。
渦巻きの線香で有名な中国のお寺(ティエン・ハウ寺:Chua Thien Hau)を見て、ベンタン市場へ行く。
ホテルに戻り、ドクさんの新居を訪問。
ベトナム最後の夕食を生演奏つきで頂く。待望の“美しき昔”をリクエスト。その後、空港へ向かい、深夜、関空、成田へ出発。

【2007年10月18日】 
早朝、無事関空、成田着。   (記録藤村知子)
 

FUJI教育基金・奨学金授与の旅【2007年10月12日】

2007-12-17 | チャウドック
【2007年10月12日】
FUJI奨学基金を通じて建設を援助した幼稚園、中学校、建設中幼稚園等を見学。
ツ・コア・ギア高等学校へ行き、奨学金を授与。
 奨学金授与式の様子は別途報告
高校生6人と中華の店で昼食。鶏にしては少し骨が細いなと思われるから揚げが出る。これは何かと学生に聞くと、“クウェ”(蛙)であった。
水上生活をして魚(鯰の仲間)の養殖をしているところを見学。ここの犬はタイリッジバックの血を引いているらしく、背中の毛並みが逆立ち興味深い。
その後、回教徒のチャンパ族のところへ行く。雨期のため周り一面が水浸し。、機場も水で作業できず、見学は中止。モスクの脇のみやげ物店で布の買い物をする。
5名がホーチミンへ一足先に帰るため、別れる。残った一行で、一面の雨期のメコンの凄さを見ようと、サム山の頂上を目指したが、バスが大きいので上がれない。
バイクタクシーと交渉したが、料金を吹っかけてきたので登るのをあきらめ、ミーハーさんのいる山の幼稚園を訪問。
その後、ハーさんのいる中学校も見学。建物が老朽化して使えない教室もあり、援助を望んでいるらしい。校庭が日本と比べ狭いので、体育などはどうしているのだろう? 木も植わり、石もある狭い校庭で、子供たちは走ったりボールをけったりしていた。
ホテル近くのレストランまで、夜のチャウドックをぶらぶら歩いていく。これまで強行軍で、1名が軽い熱中症にかかる。

FUJI教育基金・奨学金授与の旅【2007年10月11日】

2007-12-17 | カントー大学
【2007年10月11日】
水上マーケットへ行く。船着場が変わっていて、探しているうちに時間が少し遅くなり、賑わいが少なかった。帰りに、日本のODAで建設中、突如崩壊した橋

を見に行く。
その後、カントー大学に行く。
 カントー大学での奨学金授与式の様子は、別途報告
その後、ロンスエンアンザン大学に行く。
 アンザン大学での奨学金授与式の様子は、別途報告

元気なアンザン大学学長ボ・トン・スワン先生と夕食を共にする。

若いマンゴーの漬物が好評。上流で取水をするため水量が年々少なくなり、何年か後にはロンスエンあたりまで海水が上がって来るようになるという。稲作もできなくなり、景色が一変するだろうとのことで、生活にも困ることになる。
チャウドックへ向かう。新しい国営のチャウ・フォー・ホテルに泊まる。ここは換気があまりよくなく、洗濯物が乾かない。

FUJI教育基金・奨学金授与の旅【2007年10月10日】

2007-12-17 | ベンチェ
【2007年10月10日】  
まだ雨期が明けていないので、サイゴン川より昇る朝日は、雲で見ることはできなかった。けれども、ホテルの窓からは、昨年には見られなかったビルが建っているのが見え、ホーチミン市もどんどん変わっていくのだろう。
一路、ベンチェの職業訓練校へ向かう。時折り、激しいスコールに遇う。
ベンチェの刺繍クラスを見学。
 ベンチェの報告は別途
昼食は水上レストランでいただく。その後、ミトーへ戻らず、カントーへ直接向かう。車は田舎道を走る。周りには、ニッパヤシや珍しい植物がつづく。大丈夫かなと心配になる小さな橋を渡る。
カントーでは、ニン・キュー・ホテルの水上レストランで夕食。ニン・キュー・ホテル泊。
 

FUJI教育基金・奨学金授与の旅2007年10月9日~18日【2007年10月9日】

2007-12-17 | ホーチミン
FUJI教育基金・奨学金授与の旅
 
2007年10月9日~18日

参加者:成田から10名、関空からの2名、現地から1名、13日より1名。
 
【2007年10月9日】

朝成田に集合。ターミナルビルが工事中のため、ベトナム航空の受付はいちばん奥に追いやられ、不便だが、逆に、人が混雑しておらずゆったりしていた。
窓の外は良いお天気で、(雲の上はいつもお天気)眼下に沖縄らしい島が見える。昼のフライトはこのような景色が楽しい。何事もなくホーチミン市に到着。
昨年は工事中だった空港施設が出来上がっていて、スッキリとして明るく良い感じ。現地にてミンさん、バンさん、ニャンさん奨学金を受けていた2人の学生、関空からの2人と合流して、ツーズー病院に直行。
 ツーズー病院での詳しい様子は、別途報告
夕食はベトナム料理をいただき、サイゴンホテルに泊まる。

FUJI教育基金・奨学金への感謝のことば

2007-12-13 | アンザン大学
 FUJI教育基金の皆様

 私は、光栄にも、FUJI教育基金の奨学金を受けている学生の一人で、アンザン大学生物工学科、アン・テュと申します。

 皆様がベトナムへ来て奨学金を渡してくれる日(2007年10月11日)の前に、奨学金をもらえるのがわかって、心から喜び、とっても幸せでした。私が母に電話したところ、母はとっても感激し、喜びました。母は“皆様が遠い所で、苦労して働いているのに、あなたたちのことを考えてくれているという、その気持ちをとてもありがたく思います”と言いました。私の家族は皆様に心から感謝の気持ちを送らせていただきます。

 皆様がベトナムへ来て奨学金を渡してくれた日、私は、初めて、尊厳でありながらとっても親密な式典に参加することができました。
 皆様の心、笑顔、厚い手の輪の握手が、言語の距離をなくさせて、人情が小さい部屋にいっぱい広がり、私はとっても暖かくて幸せでした。
 私は光栄にも、FUJI教育基金の学生の代表として、感想の言葉を発表しました。
 私はいつも皆様の親愛、分け合いの心、心が通じ合う視線、を忘れることはありません。

 私の家族は6人です。おじいさんは81歳で、両親と3人兄弟です。私の家族は田圃がありません。公務員の少ない給料で、父は苦労して私と高校2年の弟を育成しています。
 兄は19年前から精神病にかかって、毎月150万-200万ドンの治療費が必要です。もし病気がなければ兄は26歳で、働いて、両親の厳しい生活を助けることができるでしょう。兄は怒りやすくて、石を人に投げます。父も彼に石を投げられて、針で6箇所を縫いました。
 兄の興奮状態でどんなに家族が心配しているか、じゅうぶん話し切れません。彼の行動をコントロールできないことを両親が苦しみ、涙していることををじゅうぶんお伝えすることができません。
 あいにく、2年前に母は卵巣病にかかって、今もまだ手術しておらず、南方薬でしか治療していません。
 私は、母の治療費がないのを心配しながらも、父の働く所が遠くて家を守る人がいないこと、おじいさんが高齢で体が弱いこと、私が勉強で家を離れていること、あるいは兄がそのような病気にかかっていることを、父が心配していることがわかります。
 私は家族をとても愛しており、両親の子供であること、先生方々に見守られていること、友達の親愛で幸せです。

 私は、作家グエン・カイ (Nguyen Khai)の次の言葉がとっても好きです。
 “生きることは死ぬことから生み出すのです。苦労、犠牲から幸せが現れます。世の中、終わる道はなく、境界線しかありません。大切なのは、私たちは力が足りるかどうか、その境界線を越えることができるのかどうかです”。
 それで、私は大勢の人々より幸せを感じています:私は健康で、日常生活、勉強ができ、周りの方々から助けていただいています。
 現在、私は勉強しながら3人の5年生の家庭教師をやっています。その他、学校の活動にも参加しています。
 仕事通しての喜びが苦悩を忘れさせて、私は、人生がとっても価値のあることを感じています。

 皆様
 不幸の後ろは喜びです。もしそうでなければ、信じることと人生の高貴な価値は存続することはできません。FUJI教育基金の奨学金をもらうことは、私にとって大きい激励なのです。
 皆様の真情は大きな動機で、私の厳しい環境を越えるのを助けてくれます。もらった奨学金で、私はいままで実現できなかった夢の専門英語辞書を買うことができ、私の専門の勉強にとっても役に立っています。残りは勉強のための分で、家族の負担をある程度減らすことができます。

 いくら厳しくて、苦労しても、私はいつもすべての面で頑張って越えていきます。その理由は、私は孤独ではないからです。私の将来に向けて、両親、先生方々の恩情、特に皆様の真情と期待があります。私は勉強をよく頑張って、役に立つ公民に成り、自分の力で社会に貢献します。

 最後に、皆様に私と私の家族の心からの感謝の言葉を送りさせていただきます。
 皆様が健康で、幸運と幸せでありますようにお祈りいたします。

 まことに感謝します: アン・テュ (女性)