ベトナムの子どもたちに奨学金を――FUJI教育基金

ベトナム南部・北部の中学・高校生、大学生に奨学金を贈って勉学の支援をしています。

ベトナム奥地の学校-2 (長谷川義春)

2012-04-30 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

長谷川義春さんから、ベトナム奥地の学校の様子について、詳しいレポートを教えていただきました。5回に分けて掲載します。『トゥオイ チェ新聞』の翻訳(長谷川さんによる)と、長谷川さんのコメントです。


[2]   トゥオイ チェ新聞2009年9月17日

"学校"を求めて広大な原生林を歩く

 広大なプーマット国有林の中に、ベトナムの学校教育の中でもおそらくは最も困難な奥地の学校、モンソン第3小学校(ゲアン省(*訳注1)コンクオン郡モンソン村)がある。

モンソン村の中心地から分校まで、先生は山道をよじ登り川を徒歩(かち)渡って、藪を押し分け、非常に危険な行程を一日がかりで歩かなければならない。ケーブン集落、ケーコン集落そしてコーファット集落の全部を合わせた地域で、1台の自転車もない。この地域の子供たちは、日々、自分の足で森を越え、川を徒歩(かち)渡って学校に通う。

2009年の新学年(*訳注:9月)にあたって、小学校は卒業生(*訳注:ベトナムの小学校は5年制)に対し「村の中心地にある中学校に進学するよう」辛抱強く働きかけた。しかし、困難な経済状況の中で、子供たちの多くが進学を果たせなかった。ある卒業生の一人は無邪気に、自慢した。

「ボクはもう、学校を全部終わりまで勉強したんだよ。」

グエン ダン コア

*訳注1:《①山岳地帯の通学》の*訳注1を参照してください。

                                                                  

 タブロイド版『トゥオイ チェ新聞』2009年9月17日付記事のいちばん上にある大きな写真の説明文には、「3人の子供を学校に連れて行くダンライ族の母親」と説明文が添えてあります。おそらく、川はかなりの急流なのでしょう。先頭を行く大きな子は、荷物を竿に通して母親と2人で分け持ち、転ばないように腰を落として一歩ずつ川底を探りながら慎重に歩を運んでいます。母親は、いちばん小さな子を背負って、右手で荷物の竿をつかみ、左手で2番目の子が水に流されないように手をつないでいます。水深は、母親の膝を超える深さまであります。母親に右手を取ってもらっている2番目の子は、水に濡らさないよう服を大きくたくし上げ(たぶん、貴重品であるズボンは脱いでいて、パンツは はいていません)腰まで水に浸かりながら、両足を大きく踏んばって一生懸命に歩いています。先頭を行く大きな子が頭から提げている布は袋状になっていて、たぶん、学用品とかサンダル(もし履いて通学しているとすれば、川を渡っている今は脱いでいるでしょう。サンダルを履かずに通学している子も珍しくない)とかが入っているのでしょう。写真の画面からは、川を渡る子供たちの緊張感が伝わってきます。それだけ、この川を渡るのは危険を伴うのでしょう。その川の流れも、毎日同じではありません。雨が降った後は当然水かさが増え、流れもさらに激しくなり、危険性も増大します。

 そして、母親の負担の大きさも、想像するに余りあるものがあります。早朝、恐らくまだ暗いうちに起きて3人の子供たちに食事を取らせて身支度を整えさせ、親子4人で何時間も山道をのぼり下りして川を渡り森を抜け、始業時刻前に学校に着かなければなりません。帰路も当然同じ道ですから、母親が付き添うのでしょう。とすれば、母親は毎日同じ道を2回ずつ往復することになります。その時間的・体力的負担は半端なものではないと、私は思います。そして、一家の、農家の主婦である以上、家の仕事もこなさなければなりません…。

 さらに4枚、小さな写真が掲載されています。そのうちの1枚の写真には、「校門前で歓迎してくれる小さな友人たち」と説明書きがあります。たぶん、記者が携帯電話で校長先生に「もうすぐ学校につく」と連絡を取り(奥地の学校でも、簡便な連絡手段として校長先生は必ず携帯電話を持っているようです。たぶん“行政”の指導によって。電波が届かない地域もあるようですが、この地域はたぶん届くのでしょう)、先生から連絡を受けた子供たちが珍客を歓迎しようと校門の前で記者を待ち受けていたのでしょう。

 もう1枚の写真には、「学校に通う子供の足元」と説明書きがあります。サンダルは大人用で、小さな子供の足にはブカブカで歩きにくそうですね。そしてよく見ると、右足の鼻緒に当たる部分が切れかけていますね。たぶん、この子はふだん裸足で通学していて、親か誰か大人が履いていたサンダルが切れかけてきたので新しく買い替え、不要になったものを「とりあえず拝借」したのだろうと思います。足元に石ころがゴロゴロしているところを見ると、たぶん場所は川原で、ここを裸足で歩くのは石がゴツゴツしているので足の裏が痛いし危ない。こんな大きな切れかけたサンダルでも、履いたほうがラクに歩ける、ということなのでしょう。

 次の写真には「ダンライ少数民族の生徒の微笑」とあります。民族によって顔の雰囲気や目の色に多少の違いはあっても、子供の笑顔にさほどの違いはないと思います。

 さいごの写真には「滝のような急流を小舟で学校へ」と説明書きが添えてあります。ちょっと見るとレクリェーションのようで楽しそうですが、実は、けっこう危険なのです。何年か前に、私はトゥオイ チェ新聞で次のような記事を読みました。

 《十数人の通学生を乗せた小舟が急流に呑まれて転覆し、乗っていた子供たち全員が溺れ死んで、年老いた船頭1人がやっと浅瀬まで泳ぎ着いて助かった。助かった船頭が“自分はもう長い間、渡しの船頭をやってきたが、こんな事故を起こしたことはない。しかし自分ももう歳で、体力もなくなって、舟を転覆させ1人の子供も助けられなかった。もう怖いので、渡しの船頭はできない…”と、泣きながら記者に語った。地元の人たちや学童たちは、川を渡ることができなくなって困っている…。》

 そしてその何ヵ月後かに、私は、その記事を読んで心を痛めた多くの読者が新聞社に基金を寄せ、その基金などを元にその川に橋が架けられた…という続報を読みました。


ベトナム奥地の学校-1 (長谷川義春)

2012-04-29 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

長谷川義春さんから、ベトナム奥地の学校の様子について、詳しいレポートを教えていただきました。5回に分けて掲載します。『トゥオイ チェ新聞』の翻訳(長谷川さんによる)と、長谷川さんのコメントです。


[1]  トゥオイ チェ新聞2009年4月25日

山岳地域の通学

  子供たちは自転車で、チャウタム集落からカオベウ集落(ゲアン省(*訳注1)アンソン郡フクソン村)に抜けて学校にまで通じる道をたどっている。チャウタム集落は、四方を原生林の山に囲まれて周囲から隔絶したような地形の中にあり、“電気がない、道路がない(*訳注2)、学校がない、医療施設がない”地域で、100%の住民が“貧しい世帯”と認定されている(*訳注3)


学校に行くために、子供たちはひどいぬかるみの泥道を7kmに渡って越えて行かなければならない。毎日、子供たちはまだニワトリも鳴き出さない早朝に家を出て、トリたちが、もううに自分の小屋に戻ったころになって、やっと家に帰り着く(*訳注4)

ダオ ゴク ベト記

*訳注1:ゲアン省はベトナムの中北部に位置し、国内有数の貧しい地域として有名です。抗仏抗米戦争時代には勇敢で粘り強い優秀な戦士たちを数多く輩出した地域として、ベトナム国内でもよく知られています。故ホーチミン主席も、ゲアン省出身者の一人です。

*訳注2:人が生活している地域に「道」がないわけがなく、この場合は、「行政が作った正式な(車が通れるような)公道はない」の意味だと思います。

*訳注3:行政府から“貧しい世帯”と認定を受けるには、申請書を提出して調査を受けなければなりません。認定を受けると、行政府からそれなりの優遇策を受けられるようです。といっても、もちろん、日本の生活保護のように“健康で文化的な最低限度の生活を保障する”という制度とは全く異なり、“生命維持”を含む一切のものを保障するものではありません。あくまでも、何かがあった時に行政府からの経済的支援を優遇的に受けられるというに過ぎません。また、全国的な視野で見れば、貧しすぎて家族の中に識字者がいないために申請できないまま放置されている家庭も、まれではないようです。この集落が「100%の住民が“貧しい世帯”と認定されている」集落だとすれば、たぶん、集落中が助け合って申請書を提出できたのでしょう。

*訳注4:一般的にベトナムの朝は早く、私の家の前にある小学校でも、朝7時から授業が始まります。通学にこれだけの時間がかかるということは、7kmの道のりに3~4時間を要する平坦ではない山道だということでしょうか?

                                       

 私が《山岳地域の通学》の記事を読んで考えたことは、

 「子供たちはみんな自転車を引っ張っているけれど、こんなヌカルミの山道なら、自転車で走るよりも徒歩で歩いたほうが安全なのじゃないか。それとも、こんなヌカルミは行程の一部だけかしらん…。」

ということでした。ベトナム中部山岳地帯の山道をまだ具体的に見たことがない私には、ちょっと想像しにくい状況でした。それでもはっきり分かったことは、自転車に乗ったり引っ張ったりしながら片道3,4時間の道のりを毎日往復するということは、その時間的ロスもさることながら、子供たちにとっては大変な体力を要する重労働であるに違いない…ということでした。帰宅しても、一息ついてから食事をして少し家の仕事を手伝うのがたぶん精一杯で、日本の子供たちのように宿題をやったり教科書を広げて予習をしたりする余裕は、時間的にも体力的にも精神的にも、まず望めないでしょうね…。


長谷川さんを囲む会

2012-04-26 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ベトナム中部高原の生活困難な地域に中学校の寄宿舎を寄付された長谷川義春さんが、5月に一時帰国されます。
 長谷川さんは、サイゴン解放前後の1975年から77年にかけて当時の南ベトナム・サイゴンに留学し、その後1991年からベトナムに在住しています。
 長谷川さんから「一民間人の目に映った」ベトナムの様子をうかがい、あれこれ懇談したいと思い、「長谷川さんを囲む会」を下記のように企画しました。

 長谷川さんは、1991年にベトナム・ホーチミン市内の東遊日本語学校に日本語教師として赴任し、1994年に同校を退職したあと、数人のベトナム人とともに“日越言語文化研究会”を発足させ、日越辞典の編集に当たりました。
 以降、現在まで、日越辞典の編集のかたわら、日本の各劇団のベトナム公演に際しての台本のベトナム語訳、トヨタ財団から出版助成を受けて日本の童話・昔話・短編小説の翻訳出版、財政的事情などで正規の学校に通えない子供たちのボランティア教室に対する教科書・文具の寄贈などの“文化交流事業”を行なってきています。
 
 FUJI教育基金の会員の皆さま、会員でなくてもベトナムのことやベトナムの教育のことに関心のある方、ぜひご参加ください。

           
 2012年5月12日(土) 14:30~17:00
 阿佐谷会議室 洋室2 (長谷川さんを囲む会)
  東京都杉並区阿佐谷北2丁目18番17号
  http://www.mapion.co.jp/c/here?S=all&F=mapi0219053120422213129
 JR中央線阿佐ヶ谷駅北口から徒歩3,4分。
 土曜日は中央線快速電車は阿佐ヶ谷駅に停まりません。都心からですと中野駅、立川方面からですと三鷹駅で各駅停車にお乗換えください。
 定員20名(先着順)。会費無料。
 参加を希望される方は、5月10日までに、info@fuji-qhb.org 宛にご連絡ください。

 [会の内容]
 *1975年に留学した当時のベトナムの様子
 *1991年に再度行かれたベトナムの様子と、その後の変化
 *ベトナムの子供たちの状況
 *南部高原地帯に寄宿舎を寄付した経緯、現地の状況
 *これからの活動
といったことを中心に、長谷川さんから、質疑応答を随時はさみながらお話をうかがいます(一方的に話されるのは苦手なので、雑談のような形でお話ししたいとのことです)。


ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(8)

2012-04-19 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。



《ゴクテーム中学校宿舎建設が終わってから》

 私は、宿舎建設が終わった後もゴクテーム中学校とは関わりを持ち続けるつもりでいます。
 どのような方法で関わるか、今私が考えていることは、以下の3点です。

 (1) 山の上で気温が低い現地の学校の生徒たち(約830名)全員に、毎年、防寒用の服とズボンを贈る。
   服とズボンは3年間同じ物を着てもらい、4年目に新しい物を贈る。
   (防寒用の服とズボンといっても、ホーチミン市で手に入るものは、厚手の生地で作ったスポーツウェアーにスキー帽をくっつけたようなものです。)

 (2)  200余名の寄宿生たちがオカズのない食事をしているので、食事に少し彩りを添えるための食品を送る。
   コントゥム省の奥地まで郵送すると最低でも1週間はかかるため、保存の利く乾物に限る。
   (乾燥昆布、煮干、ゴマ(ごま塩)、乾燥大豆、ヌクマム、食用油、砂糖…)

 (3) ゴクテーム村には高校がないため、中学を卒業して進学する場合は、山を下りて町の寄宿舎に寝泊りしなければならない。
   必然的に学費・生活費の負担費用は高くなり、高校・大学へと進学できる生徒数は限られてくると思われる。
   学業を終えたあと、村に帰って、農業技師、教員、看護士(師)など、村の発展に尽力する人材の育成を目指して、毎年、中学卒業生の中から原則1名ずつに奨学金を発給するのは効果的かどうか、慎重に検討する。

 このことに関しては、また別の機会に報告できたらと考えています。 (終わり)

 (2012年2月・長谷川義春・記)

 

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ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(7)

2012-04-19 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。



《ゴクテーム中学校の見学旅行》-2

 ゴクテーム中学校訪問旅行で、特に印象に残ったこと-2

 翌日の午前中、山を下りるときに私は同行してくれた記者に

 「ゴクテーム村の中心地に連れて行ってください。」

と頼みました。
 学校を出発してジープで5分も山を下りると、

 「ここが中心地ですよ。」

と言って、ジープから降ろされました。
 ジープを降りた時私の目に飛び込んできたのはこれまでと同じデコボコの山道だけだったので、驚いて

 「中心地と言っても、何もないじゃないですか!」

と言ったら、

 「あそこに、村役場があります。」

と言って記者が指差した方向、少し離れて高くなった所に、なるほどコンクリート建ての建物が見え、そしてほかにも2軒ほど民家が建っていました。

 「こちらには、店がありますよ。」

と言われて道の反対側を見ると、すぐそばに民家が1軒ありました。
 家の中をのぞき込むと、たたみ1畳半ほどの面積にヌクマムと食用油が数瓶ずつ、砂糖・塩・化学調味料などの袋少々、日本でも普通に使われている透明のプラスチックの薄い容器に詰めた卵2ケース(つまり20個)、ばら売りのインスタントラーメン数袋……など、ごく簡単な乾物品が並べてありました。

 私は、「商品はめったに売れないので、長い期間売れる乾物に限って売っているのだろう…」と想像しました。
 記者が説明してくれたところによると、この店の商品の値段は、ふもとの町のほぼ2倍だそうです。
 村の中心地と言ってもそれだけで、それ以外には、本当に何もなかったのです。
 私が、

 「例えば、服を買うときはどうするんですか?」

と試しに聞いてみると、記者は、

 「服なんて……、それは大変ですよ……。」

と答えただけでした。
 たぶん彼も、村人が服を買いたいときにはどうするのか、具体的には知らないのでしょう。

            ………………………………………………………………

 ゴクテーム中学校に寄宿舎を作ることに決める

 私はこの訪問旅行を終えたあと、トゥオイチェ新聞が紹介してくれたゴクテーム中学校に寄宿舎を作ることに決め、新聞社にその旨の連絡を取りました。
 新聞社が地元コンプロン郡の教育委員会と折衝を行い、若干の紆余曲折があって,話が最終的に本決まりになったのは 2011年10月のことです。
 寄宿舎建設の総工費は、4億9千4百万ドン(“歴史的な円高水準”にある現在のレートで換算すると、約183万円)です。

 翌月には、現地で寄宿舎建設の竣工式が行われたとの連絡が入りました。
 工事は順調に進んでいるかと思っていたら、行われたのは竣工式だけ。
 麓の町から現地(山の上のゴクテーム中学校)までの道が大雨で寸断されて、建築資材が現地まで運び込めない、実際に着工されるのは、雨が止み道が乾いて固くなる2月下旬になるだろうとのことです。
 自分がゴクテーム中学校を訪ねたときの道のりを思い出し、「さもありなん…」と思ったことでした。

                …………………………… 

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ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(6)

2012-04-19 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。



《ゴクテーム中学校の見学旅行》-1

 トゥオイチェ新聞社の2人の記者(連載(3), (4), (5)の2010年9月8日付の記事を書いたドアン トゥ ズイ、タイ バー ズンの両記者)と連絡を取り、2010年10月28日から30日まで2泊3日の予定で、宿舎建設を予定しているゴクテーム中学校の見学旅行に出発しました。
 ホーチミン市から北北東約380キロメートルの地点にあるジャライ省プレイクまで飛行機で飛んで、タイグエン地方一帯のニュースを担当する両記者と合流しました。
 さらに、コントゥム省コンプロン郡まで約140キロメートルの距離をタクシーで走破。
 コンプロン郡で出迎えてくれたゴクテーム中学校校長先生の案内で、コンプロン郡教育委員会が手配したジープに乗り換えました。
 ゴクテーム中学校まで約35キロメートルの山道は急坂で悪路のため、普通の乗用車では登れないとのことです。

 ジープでの行路は、“聞きしにまさる”大変な道のりでした。
 途中まで、アスファルトで舗装された道が続いている間は、日本の山道と同じく、右に左に大きくカーブを切って揺られながら登って行くだけでしたが(それでも日本の道路と違って、山道の片側に転落防止のガードレールがない!)、途中で舗装が切れてからは、大変でした。
 一帯が赤土で覆われていて、山の斜面を削って作られた道は、雨季で小雨が降る中、ぬかるんですっかり軟らかくなっています。
 車がタイヤを乗せる道の中央部分は、タイヤで削られて大きくくぼんでいます。

 くぼみの深さが数十センチにも達すると、四輪駆動のジープでも走行できなくなります。
 すると運転手はハンドルを切って、まだタイヤで削られていない道の片側に登って走行を続けます。
 もちろん道の端はきわめて狭く、ジープの左右の両輪が載るだけの幅しかありませんから、ハンドルを切りそこねたら道の中央のくぼみに落ちるか、反対に山の斜面を滑り落ちるか……という羽目になりかねません。

 場所によっては、ジープの両輪を載せるだけの広さもない所があります。
 すると運転手は、乗っている私たち(二人の記者と校長先生と僕の四人)に降りて先に行くように促し、ジープに積んであったシャベルを取り出して、近くの土や大石をかき集めて山の斜面の側に盛り土をして臨時的に道幅を広げ、両輪が載るだけのスペースを作って通り抜けるのです。
 つまり、
 「山にジープの通れる道がついている」のではなく、
 「道のとぎれている所は、道を作って通る」のです。

 橋の架かっていない川は、直接ジープで川の流れを渡るのです。


 こちらの川岸から向こうの川岸まで一直線上に、川の流れにも流されないような大きな石を川底に置き並べます。
 水流は、置き並べた石の上とその隙間から流れます。
 そうすると、車がタイヤを石の上に載せれば、水深が浅くなって渡れるのです。

 しかし、水の流れはかなり速く、濁っていて川底は見えません。
 「川底に深みがあって、もし車輪が穴に落ちたら…」などと考えると、ヒヤヒヤします。

 そうかと思うと、山道を走行中のジープが突然大きく上下左右にガタガタと激しく揺れ、しっかり摑まっていなければ座席から放り上げられて、天井や窓ガラスに頭をぶつけそうになります。
 山道は一面に、雨水でドロドロに溶けた厚い赤土の層に覆われてその下は見えませんが、たぶん、鍋や釜ぐらいもある大きな石が赤土の下にゴロゴロと転がっていて、その上を走行するジープを激しく揺するのでしょう。
 そして、山道にガードレールはないのですから、「ハンドルを切り損ねて車輪が山道の固い部分を踏みはずしたら…」などと想像すると、正直、《怖い!》です。

 途中で行き交う人や車は、ほとんどありません。
 特に、山が深くなり、赤土の泥に埋まった道が延々と続くようになってからは、旅行の復路でたった1台のバイクを見かけただけです。
 (聞いてみたら、ゴクテーム中学の先生が所用で山を下りているのだそうです。) 
 そのバイクも、街なかで見かけるように楽々とは走れません。
 タイヤが十数センチほども赤土の泥の中に埋まったバイクに、両足を左右に開いて乗り、泥の下に隠れている鍋ほどもある大石に翻弄されてバイクがバランスを失い倒れかけたら、すぐさま倒れかけたほうの足で泥(地面・大石)を蹴ってバランスを戻しながら、ゆっくりと走るのです。
 「それにしても、エンジンのタフなバイクだなあ…」と感心してしまいました。

 山道の途中で、“泥の海の中にポツンと取り残された”無人のバイク1台と、小型のトラック1台を見ました。
 バイクは、おそらく途中でエンジンがストップし、どうにも掛からなくなってやむを得ず乗り捨てて歩いて行ったのでしょう。
 私の住んでいるホーチミン市内であれば、乗り捨てて行ったりすればすぐさま誰かに持って行かれてしまうに違いありませんが、こんな深い山の中、泥の海のような山の坂道では、エンジンがかからなくなったバイクなんか、誰も手をくだせないだろうな……と思いました。

 トラックのほうは、道のカーブを切りそこねて、山の斜面を滑り落ちかけたものでしょう。
 急斜面の一歩手前でかろうじて停止できたものの、もう斜面をバックで登る余力はなかった……。
 私が乗ったジープの運転手は、

 「こりゃあ、トラックの運転手は真っ青だな!!
 もう1メートルもズリ落ちていたら、山の斜面を下まで転げ落ちるよ!」

と、大声をあげました。
 本当に“間一髪!!”の怖い雰囲気でした!

 そんなこんなで、ジープに乗っている間の行路は、日本で生まれ育った私には、

 「よくこんな道を通行させるなあ…。
 日本でなら、こんな道は、絶対すぐに《危険! 通行禁止》だろうなあ。
 もし《通行禁止!》にしないで犠牲者が出たら、即、地元警察の責任問題になるだろうなあ……。」

としか思えない過酷なものでした。

 片道数時間以上に及んだジープでの行路(往路と復路では取った道が違い、要した時間も大幅に違った)が私に教えてくれたことは、自分が訪ねたゴクテーム村がいかに町社会から隔絶された深い山の奥地にあるかということでした。
 私の場合は破格の値段でジープを雇い、トゥオイチェ新聞と地元の学校・教育委員会が連携して準備してくれたからこそ行けたけれど、さもなければ無理だったでしょう。
 私がジープを雇うのに支払った経費は450万ドン。当時としては、ハノイ⇔ホーチミン市を往復する飛行機代よりも高かったのです!
 もちろん私が、中学校に寄宿舎建設費を寄付してくれるかもしれない“VIP”であったからこそ、各方面が協力してくれたのです!

 地元民は、特に必要な人以外、バイクも車も持っているはずがありませんから、乾季で道の赤土が乾いている時期はともかく、雨季で泥深い道がグシャグシャにぬかるみ、水かさが増えた橋のない川を徒歩渡(かちわた)って3, 40キロメートルにも及ぶ山の坂道を歩き通すなどということは、よほどの理由がない限りできない相談だろうと思います。
 ということは、ゴクテーム村が町の消費生活からほとんど切り離されて“自給自足生活”を余儀なくされた村であることを意味していると思います。
 平野部の土壌豊かな農村での“自給自足”ならともかく、山の斜面にへばりついた村の、これといった産業を持たない住民の“自給自足”ということは…。

 ゴクテーム中学校訪問旅行で、特に印象に残ったこと-1

 ゴクテーム中学校訪問旅行で、特に印象に残ったことを2つ書き加えておきます。
 私たちがゴクテーム中学校に到着したのは、2010年10月29日午後5時前でした。
 学校に着いてひと息ついてから、「寄宿舎の生徒たちが食事をしているから見学に行こう」と同行した記者に誘われ、彼について行きました。
 その日はちょうど土曜日で、土日の連休を利用してほとんどの寄宿生は家に帰っていましたが、自宅が遠すぎて2日間の連休では寄宿舎と自宅とを十分に往復できない子供たちが残っていたのです。

 すでに日が暮れかけた時間に、野外から食堂と称する木造の建物(ごく最近、篤志家が“食堂”を寄贈してくれたそうです)の中に突然入ると、蛍光灯のない食堂の中は薄暗くボンヤリとしか見えません。
 ゴクテーム中学校には、まだ電気が通じていないのです!
 その薄暗がりの中で、十数名の子供たちがまばらに座ってボソボソと食事を取っていました。
 彼らの“食卓”を見た時のショックを、私はまだ覚えています。

 私は小学生の頃から、「人体の健全な生命維持には たんぱく質、脂肪、炭水化物、各種ビタミン、カルシウム、ミネラル…といった栄養素が不可欠で、特に成長期にある子供たちには栄養のバランスの取れた食事が必要…」と習い覚えて、それを信じてきました。
 しかし、私がそのとき実際に目の当たりにした“食卓”には、透明のプラスチックの容器に入った白米のご飯と汁、そしてヌクマムと思われる小瓶に入った黒い液体があるだけでした。
 ご飯とは別のプラスチックの容器に入った汁は薄い醤油色をしていましたが、薄暗がりの中で見た私の目には、汁の中に“具”がまったく見えませんでした。

 トゥオイチェ新聞の記者が前もって私に送ってくれた写真、この《寄宿生たちの食事風景》の写真そのままの光景が、私の目の前にあったのです。

 あの写真には、ご飯と汁のほかに空になったプラスチックの大皿が写っていました。
 日本で生まれ育った私は深く考えることもせず、「ベトナムの貧しい人たちがそうであるように、非常にしょっぱいオカズを大皿に盛ってみんなに割り当てた。でももう彼らは食べてしまったので皿はカラなのだろう…」程度にしか考えませんでした。

 でも実際は、私が大皿と思ったものは皿ではなくて、ご飯を入れた容器のフタにすぎず、オカズなんて最初から何もなかったのです。

 ――内戦に明け暮れる国にいるのではなく、戦火を避けて逃げまどう避難民でもない、彼らの日常の食事がこうだとすれば、自分が今まで日本で受けてきた《教育》とは、いったいなんだったのだろう……。――

 私に同行した記者は、私と寄宿生たちを懇談させたかったようですが、私は、なかば呆然とする思いで彼らの食卓を見つめたきり言葉が出ずに、その場を引き揚げてしまいました。……

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ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(5)

2012-04-18 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh 

Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。
 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。



《トゥオイ チェ新聞の記事》-3

 記事のなかに、大きな写真が載っています。

 「ゴクテーム中学デクノットB分校で生徒たちに授業する先生」と、説明書きがあります。


 錆付いたトタン屋根、天井を支えるだけの太さしかない丸木の柱、木の葉を1枚ずつ張り付けただけの壁、明かりを取り入れるだけの何もない窓……。
 この写真を見れば、この分校の校舎(?)がどんな造りになっているかよく分かりますね。

  塩でご飯を食べる

 給食の時間になると、生徒は何十人かのグループに分かれて、あるグループは校庭に出て座って食べ、またあるグル-プは扉の陰でヌクマム(※訳注18)を1滴ずつ取り合いながら食べる。

 どのグループにも、プラスチックの容器に入れたご飯と食塩があるだけだ。
 スープがあったとしても、具の野菜は少ないのに食べる人は多いから、スープを入れた容器の底が容易に見えるスープだ。
 ごく稀に、 干し魚を甘辛く煮たオカズがつく日もある。
 それでも、子供たちは皆おいしそうに食べる。
 グエン ダン リン校長先生は、「178人の寄宿生は、毎日130~150キログラムの米を食べる」 と教えてくれた。

※訳注18:ベトナム人にとって、日本の醤油のような物。
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《義務教育について》

 チュウンソン山脈の奥深い森の中の学校で新しい学年を迎えることは、先生にとっても生徒にとっても、新しい試練の1年を迎えることである。
 連綿と続く深い山並みの中の学校で教える者と学ぶ者との物語は、きわめて大きな困難と、しかし深い人間愛とに満ちている。

 この記事は、日本の現在の社会状況とは大きく異なるベトナムの奥地、山上の過疎地における学校教育の困難さをよく伝えていると思います。
 一般的に、ベトナムは日本のはるか南にあって赤道にも近く、「年中暑い熱帯気候」と思われがちです。
 しかし、そこに住んでみればそう単純な気候ではありません。
 時期によっては、半袖シャツ1枚でデスクワークをしていると、寒くて過ごせない日々も何日間かは存在します。
 ベトナム南部、平地のホーチミン市においてさえそうですから、中部地方の山上ともなれば、その寒さはずっと厳しくなります。
 その地域で、基本的な衣類や食糧にも事欠く貧しい人々、しかもベトナム語とは異種の民族語で生活していて、学校教育を受ける上では大きなハンディを負った子供たちを対象に
学校教育を進めるのですから、大きな困難を伴うのは当然と言えるかもしれません。

 日本もその昔、明治時代に《義務教育》が制度化されて推進された当時、子供たちを学校で勉強させるよう親たちを説得に出向いた先生が、親たちから、

 「うちのような貧乏人の子倅(こせがれ)が勉強などして、何の役に立つのか!
 野良仕事も手伝わせずに遊ばせて、どうやって飯(めし)を食わせろと言うのか!!」

と怒鳴られて追い返されることも珍しくはなかった……という話を聞いた記憶があります。
 現在のベトナム奥地の学校で先生たちは、日本の明治時代に《義務教育》の理念に燃えて奮闘した先生方と同種の、あるいはそれ以上の困難に直面しながら、毎日を奮闘して
いるのでしょう。

 今から40年以上も昔、まだ“ベトナム戦争”が激しく続いていた当時、ベトナム南部から日本に留学してきたベトナム人学生の1人が語ってくれた言葉を思い出します。

 「私が日本に留学して受けたカルチャーショックの中で、いちばん大きなものの1つは、《義務教育》という言葉ですよ。
 教育が、それを受けられる条件を持った者の《権利》ではなく、すべての個人、1人1人の《義務》だということ、その考え方、その概念ですよ……。」

 あれから40年以上がたちましたが、私がベトナムの友人に聞いてまわったところでは、ベトナム語には、まだ《義務教育》に該当する言葉はないようです。
 もちろん、政府は学校教育の普及に力を入れてはいますが、まだまだ、その最先端にたって犠牲的に奮闘してくれる先生たちの存在なくしては、このような奥地の学校教育は進まないのが実状のようです…。

               ………………………………………………… 

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ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(4)

2012-04-17 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。



《トゥオイ チェ新聞の記事》-2

 チュウンソン山脈の奥深い森の中の学校で新しい学年を迎えることは、先生にとっても生徒にとっても、新しい試練の一年を迎えることである。連綿と続く深い山並みの中の学校で教える者と学ぶ者との物語は、きわめて大きな困難と、しかし深い人間愛とに満ちた物語である。

 魚を捕り野菜を摘む先生

 ゴクテーム中学校で教えているたくさんの先生の中で、フア ティ トイ キェウ先生(女性)と同業のご主人は同じ学校に配属されて、多くの同僚から“幸運の持ち主”と誉めそやされ ている。
 それでも、キェウ先生夫妻をいちばん寂しくさせていることは、自分たちの息子が生まれて6ヶ月になったときからコントゥム省ダクハー郡に住む父方の祖母に預けなければならなかったことだ。
 この1年近くの間が、夫妻にとっていちばん辛い時期で、何回も連続して子供に会いに行かなければならないこともあった。

 学校において、若い先生たちの“心の支柱”と慕われているグエン ダン リン先生ではあるが、しかし、自分の家族について話すときは、やはり寂しさは隠せない。

 「私も父親ではあるけれど、子供がまだ小さいときから学校の現場に入って仕事をしていたので、家庭の中の仕事は全部妻が1人で担わなければなりませんでした。
 道がこんなに遠くて、子供に会いに帰りたいと思っても簡単ではありません。
 妻子が思い出されてならない時は、村の役場のすぐ脇にある高台にまで行って、その天辺(てっぺん)に立って、家族にかける携帯電話の電波が届くかどうか試してみます(*訳注10)。」

 携帯電話の電波が届かない、新聞や雑誌もない…。
 物質的な欠乏は、ここでは先生たちが毎日遭遇しなければならない日常茶飯事である。
 この学校に赴任したばかりの2人の若い先生、ホアン スアン フン先生とホアン ディン スアン先生は、第2集落にある分校で教えることになったが、しかし第二部落第2集落には、先生の起居する部屋さえなかった。
 ほとんどの物がまったく何もなく、2人の若い先生は、まず、木材で建てた集落の公共の建物に仮泊させてくれるよう交渉しなければならなかった。
 それから、鍋と火を借りに行き、米を分けてもらってご飯を炊いた。
 ここでは、売っている物すべての値段が恐ろしく高く、平地での2倍、3倍もする。
 例えば、空芯菜1束が5,000~6,000ドン(*訳注11)といった類だ。
 だから、生活費を切り詰めるために、2人の先生は授業が終わった後で渓流に下りて魚を捕り、食用になる菜を摘んで帰って、食事の足しにする。

 コンプロン郡教育委員会副会長のダン レ チョン先生は、

 「チュウンソン山脈独特の地形と気候条件によって、ここでの学校教育は非常に多くの困難に直面しなければならず、教育に携わる過程で教員が深い森の中で犠牲になるケースも少なくない…。 」

と、語ってくれた。
 マンブット第1小学校教員チャン ティ ミー フーン先生(女性)は、マンブット村ロンルアのサーゲ渓谷を生徒と一緒に渡っていたときに、乗っていた丸木舟がひっくり返った。
 没後、フーン先生の故郷ハーティン省ドゥクトー(*訳注12)まで、同僚の先生たちが特別の搬送車を借りてフーン先生の遺体を運んだ。
 2006年には、ダクネン村の中学校教員ティン先生(女性)も、集落を通って食べ物を買いに出た途上で、突然渓流から溢れ出た水に襲われて犠牲となった。 

 グエン ダン リン先生に語ってもらったところでは、2007年、リン先生が赴任していたゴクテーム中学校教員グエン ティ トー先生(女性)も、登校途中で洪水に巻き込まれて犠牲になった。
 そのときトー先生は、週末には同業の恋人を連れて故郷のクァンガイ省(*訳注13)に戻り、家族に紹介する予定になっていた。
 しかし、その日をわずか数日後に控えて、先生は皆に永遠の別れを告げたのだった。

(『トゥオイ チェ新聞』記者ドアン トゥ ズイ‐タイ バー ズン記)

 松明を焚いて学童を探しに

 9月になって、チュウンソン山脈の東の一角に位置するコントゥム省コンプロン郡内の6,000を超える生徒たちも、新しい2010- 2011学年度(*訳注14)に入った。
 ダクロン小学校では、すでに時計は夜の8時を指していた。
 チュウン ティ ミー リン先生(女性)は、すっかり冷めてしまった夕食の膳のそばで、ご主人(ヒェウ村の中学校教員グエン ヴァン ホアン先生)の帰りを待ちわびていた。
 リン先生の話によると、ホアン先生は直接校区(学区)内の各集落に入り、子供たちが学校に来て勉強するようにがんばって運動を続けている。
 毎週3, 4日間は、各家庭を1軒ずつ訪問して回り、説得するのだ。
 そうして、生徒の誰かが学校を休めば、ただちにその子の家に行って学校に連れて来る。
 さもないと、子供たちは学校へは来ないで、父母に連れられて野良仕事に出てしまうからだ。

 ダクロン村のコンレン分校は、夜の闇に沈んでいた。
 教室では、ファム ティ ヒェプ先生とチャン キェウ ロアン先生(ともに女性)が教え、教室の後ろではアー エトさん(男性)が先生を補佐していた(*訳注15)
 ヒェプ先生が話してくれたところによると、この教室は午前も午後も授業を行う(*訳注16)
 夜になると、生徒に宿題をやらせる代わりに、先生たちがまた勉強を教える。
 子供たちの自覚に任せておけば、ほとんど勉強できないからだ。
 夜、教室に空いた席を見つけると、松明(*訳注17)を焚いて休んだ子の家まで探しに行き、何としてでも連れてくるのだ。 

(『トゥオイ チェ新聞』記者チャン タオ ニー記)

*訳注10:日本では、全国的にすっかり固定電話が定着して何年もしてから携帯電話が発明され急速に普及しましたが、ベトナムの場合は違います。
 固定電話を敷設するには1本1本電柱を立て電話線を延ばしていかなければならないため、固定電話が普及したのは大都市の一部だけ。
 その後、携帯電話が輸入され、大都市を中心にして全国に急速に広がっていきました。
 特に学校など公共機関は外部との連絡手段が必要なため、どんな辺鄙な田舎の機関であっても、その責任者は常備しているようです。
 携帯電話の電波は全国に広がったとは言っても、山の上まではなかなか届かない。
 だから、この場合のように、《周りに電波を遮断するものがない場所・気象条件などを選んで電話をかければ、かかることもある》地域もあるようです。
 たぶん、まったく無理な地域もあると思います。

*訳注11:空芯菜といえば、日本では比較的最近輸入されて定着した野菜ではないかと思いますが、こちらベトナムでは、少なくともホーチミン市では、最も安価で手軽に買える野菜の代表です。
 私の妻にホーチミン市での値段を確認してみたら、「束の大きさにもよるが、1束2,000~3,000ドン(2011年3月のレートでは8~12円程度)が相場」とのことです。

*訳注12:ハーティン省はベトナム中北部の省で、コントゥム省コンプロン郡からハーティン省ドゥクトーまでの直線距離を地図で測って割り出してみると、大ざっぱに520キロメートル。
 実際の道路は、山を巻いて走っていたりするので、それよりはるかに長いはずです。
 その距離を、車に遺体を積んで運んだとすると少なくとも2, 3日以上はかかったはずで、付き添った同僚の先生たちも大変であっただろうと思います。

*訳注13:コントゥム省の東に隣接した省。

*訳注14:ベトナムでは、毎年9月に新しい学年が始まるので、2010 - 2011学年度とは、2010年9月から始まる学年のこと。

*訳注15:二人の先生はキン族(ベトナムの多数民族)出身で地域の民族語を十分には解せず、民族語で育った生徒たちは先生の話す標準語(ベトナム語)を十分には理解できず、補佐する男性が間に立って両者の意思疎通を助けているのだと思います。
 記事を読めば、1つの教室で、同時に2人の先生が複式授業を行い、それを補佐する補佐役は1人です。
 日本では、とうてい考えられない複雑さ・難しさだと思います。

*訳注16:ベトナムの小学校は、原則として、授業は午前中だけです。
 この記事から私が推測できることは、この分校は教室が1つしかなく、午前の部だけではすべての生徒に教えることができず、午前と午後の2部制をとっているのだということです。
 さらに、夜まで生徒を集めて教えているとなると、2人の先生の努力は、非常なものであろうと思います。

*訳注17:《懐中電灯》という高価なものは使用できない奥地の学校では、日本でも昔懐かしい歴史物語などで登場する《松明》が現役で活躍しているようです。
 私はとりあえず《松明》と訳してみましたが、ベトナムの友人に聞いたところでは、この《松明》は松脂を使うというよりも、枯れ木でも竹でも、場合によったらボロ切れでも、燃えるものは何でも使って作るのだそうです。
 しかし、天候が荒れて雨が降ったり風が吹いたりしたときには、そうして寄せ集めて作った《松明》が使い物になるのかどうか…。 

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2012-04-16 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。


 私(長谷川義春さん)が、この報告書にあるゴクテーム中学校と関わるつもりでトゥオイ チェ新聞社と折衝しているうちに、その中学校がトゥオイ チェ新聞の記事になりました。 

『トゥオイ チェ新聞』2010年9月8日付「米と漬物持参で分校へ 」(Mang gạo và dưa muối đến trường)
以下は、その記事を私(長谷川義春さん)が翻訳したものです。

………………………………………………………………………………………………

《トゥオイ チェ新聞の記事》-1

 「米と漬物持参で分校へ 」(Mang gạo và dưa muối đến trường)

 チュウンソン山脈(*訳注1)の奥深い森の中の学校で新しい学年を迎えることは、先生にとっても生徒にとっても、新しい試練の1年を迎えることである。連綿と続く深い山並みの中の学校で教える者と学ぶ者との物語は、きわめて大きな困難と、しかし深い人間愛とに満ちた物語である。


ゴクテーム中学デクノットB分校で生徒たちに授業する先生

 小学校・幼稚園(*訳注2)を併設するゴクテーム中学校は、コントゥム省コンプロン郡ゴクテーム村(*訳注3)にある。
 その第9集落にある分校で教鞭をとるリー ゴク ビン先生は、夜明けが始まってまだ薄暗い頃に、もう分校を目指して山を登る準備を始めた(*訳注4)
 例年と同じように、大きな鉄製の行李(こうり)の中に野菜や魚を収め、その上にきちんと畳まれた新年度の教案を置き、さらには米1袋と少々の漬物を入れれば、分校の生徒たちに会うための旅装は整う。

 「私が教えている所はとても辺鄙(へんぴ)な所で、食べ物なども売っていないから、前もって自分で準備しなければならないのですよ。
 毎回こんなふうに持って行くと、向こうで教えている何週間かの間の、生活の足しと経費の節約になるんです。」

と、ビン先生は言った。

 道路が開通する日を夢見て
 本校のある地点から分校の村までの道のりだけを測ればそれほど遠くはないが、しかし峠を越えていく山道は、ほとんど全行程が泥深い山道である。
 泥で埋まっていない所は、何千という鍋釜のような大きさの石がゴロゴロと積み重なって、バイクの行く手を阻んでいる。
 峠の上で、雲に覆い隠された村々を眼下に見下ろしながら、ビン先生は、しばらく休憩を取った。ところが、さあ出発しようとしたビン先生は、いつの間にか自分のバイクの排気筒に泥が詰まってエンジンがかからなくなっているのに気がついた。
 しばらく泥をかき出した後で、ビン先生は、バイクが長い下り坂を滑り落ちる勢いを利用して、かからなくなったエンジンをかけようと、バイクにまたがりハンドルを握って坂道を下り始めた。
 しかし、しばらく行くと、泥道にハンドルをとられ、突然、バイクごと前につんのめってひっくり返った。
 服やズボンだけでなく顔中泥だらけになった先生は、ただ、もう苦笑するしかなかった。

 「これじゃ、今朝は、子供たちを休ませるしかないな。
 荷物も服もこんなじゃあ、洗ってきれいにするだけでも、日が暮れてしまいそうだ。」

 ビン先生が教えている分校は、デクノット集落の中でも、いちばん高い所にあった。
 しかし、建物が小さくて目立たない。
 屋根のトタン板は古くなってボロボロで、雨風に打たれて紙のように薄くなっている。
 壁は編んだ木の葉を取り付けただけ。
 2人掛けの机とイスが8脚ずつあるほかに、これといった物は何もない。

 私たちには、それが学校だとは、すぐには判らなかった。
 先生が到着したのを見つけ、薄黒く日焼けした貧しげな子供たちが教室から飛び出して来た。
 彼らは、朝から先生が来るのを待ち受けていたのだ。

 そして、ある子は先生の本やノート・食料品を詰め込んだ行李を教室に運び込み、またある子は先生の靴を洗い…。

 「生徒は皆、勤勉ですよ…。」

と、ビン先生は自慢した。
 1年生と4年生を1クラスにまとめた、生徒数わずか11人のその教室に対して、ゴクテーム中学本校が支給したのは、2人掛けの机とイスを8脚ずつと、屋根に葺(ふ)いたトタン板22枚・黒板1枚・何本かのチョーク。
 ビン先生はこう言った。

 「とにかく、ここでそれだけあれば十分ですよ。
 もっと大変なところも、たくさんあります。」

 さらに、ビン先生はこんな打ち明け話もしてくれた。

 「米と漬物を持って分校に来て教え、2, 3週間したら一度“下山”します。
 私の寝る所とご飯を作る所は、教室とは別に黒板で仕切られています。
 夜、寂しいときは集落に下り、知り合いの「同胞」(*訳注5) を訪ねてから、帰って寝ます。
 妻子を思い出すときは、……まあ、どう言ったらいいかなあ……。
 いつか、ちゃんとした道ができて、バイクでも通れるようになったら、きっと私は妻に、子供を連れて私を訪ねて来るように言いますよ。」

 ゴクテーム中学本校の先生たちは、学校に寝泊りしている生徒が全部カゾン族(*訳注6)とフレ族(*訳注7)の子供たちであることを教えてくれた。
 グエン ダン リン校長先生は言った。

 「家が貧しいという点では、ここでは、どの生徒もみんな同じようなものですよ。
 学校には、寄宿している生徒が178人いて、この学校は“村民負担寄宿舎付設学校(*訳注8)”ということになっていますが、子供たちの親も生活が苦しいため、結局、先生が全部面倒を見ているのです。」 

 学校と自宅との道のりが遠すぎて通うことができず、子供たちは学校から2つの教室を割り当てられ、臨時措置としてそこに寝泊りしている。

 「それに、学校に寝泊りして勉強していれば確実に毎日三食食べられるけれど、家に帰れば、食べられるかどうか分かりませんしね。」

 ――これまで学校は、村の役場やほかの団体に救援米の放出などを依頼したりして子供たちにひもじい思いをさせないようにすることが精一杯で、子供たちに十分な栄養を取らせることを考えられる段階には至っていない――と、リン先生は打ち明けてくれた。

 食べる物や着る物が非常に不足しているということのほかに、ここの宿舎に寝泊りしている子供たちは、非常に厳しい条件の中で自宅から学校までの遠い道のりを歩き通さなければならないという問題を抱えている。
 最も遠い集落から森を抜けて学校に辿りつくには、ほとんど1日かかる。
 だから、土曜日の朝、家に帰るために学校を出発すると、日曜日の朝には、もう学校に戻るために家を出なければならないのだ(*訳注9)


*訳注1:地図で見ると日本にも少し似た形をしているベトナム全土の、細長い中部地方を南北に走る山脈。
 最高峰はコントゥム省内にあるゴクリン山で、海抜2,598メートル。

*訳注2:学校教育がまだ遅れているベトナム奥地の学校に“幼稚園”が付設されているとは…と、いぶかしく思われる向きも多いかと思います。
 ベトナムの、特に少数民族の居住地域に“幼稚園”は必須なのです。
 というのは、各少数民族は彼ら独自の言語を持っていますが、小学校では全国一律に原則ベトナム語ですべての教科を学ばなければなりません。
 少数民族の子供たちは、当然、父母から民族語を学んで成長しますから、小学校入学前にベトナム語にも慣れ親しんでおかなければ、勉強できません。
 幼稚園では、先生はもちろん民族語で子供たちに接しますが、歌や遊戯の時間に少しずつベトナム語を取り入れて教える努力をするのです。
 私が見たメコンデルタ地方の幼稚園は、1つの教室の中に、黒板と高さ20~30センチメートルぐらいのプラスチック製のイスが積み重ねてあるだけで、遊戯道具などはいっさい見当たらない“素朴な”(素朴すぎる) 幼稚園でした。

*訳注3:「ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(1)」の“訳注1”を参照してください。

*訳注4:この記事を最後までよく読んでいただければ理解していただけるとは思いますが、キン族(ベトナムの多数民族)出身のビン先生は、妻子を山のふもとの町に居住させ、自身は単身で山上の分校に赴任しているのです。
 分校のある山上の人里(ひとざと)には生活物資を売る店などもないので、妻子のあるビン先生は、家庭生活を営むことができません。
 それで、学年末や夏休み正月休みなどには山のふもとの家庭に帰り、その休みが明けるときには、このように準備を整えて“山に登る”のです。
 このような奥地で教える先生が、日々、どんな努力を強いられるか、その一端を想像していただけるかと思います。

*訳注5:ベトナムの多数民族であるキン族から少数民族の人を呼ぶときの呼称。
 この場合、この呼び方から分かることは、ビン先生はキン族出身で、山頂の分校は少数民族の居住地内にあるということです。

*訳注6:私の持っている資料《ベトナム:その国土と人々》によれば、ベトナムに存在する54の民族のうち16番目に人口の多い民族(12万7,148人――1999年現在)で、主にザライ、コントゥム、クアンナム省などのベトナム中部山岳地域に住んでいます。

*訳注7:《ベトナム:その国土と人々》によれば、18番目に人口の多い民族 (11万3,111人――1999年現在)で、主にクァンガイ、ビンディン省などの中部山岳地域に住んでいます。

*訳注8:“建設費と維持経費(ほとんどが食費)を村民が負担する寄宿舎を付設している中学校”の意味。

*訳注9:この場合の“1日”とは、“一昼夜24時間”の意味ではなく、“夜明けから日暮れまで”の意味。
 ベトナムの中学校は週5日制で土曜・日曜が連休になるため、家が遠くてふだんは家に帰れない寄宿生たちも、その大半は土日の連休を利用して家庭に帰ります。
 しかし、自宅があまりに遠すぎると、土曜日の朝、家に帰るために学校を出発しても、疲れ果てて自宅にたどりつくのは午後になってしまい、家族と一緒に過ごせるのは土曜日の夜一晩だけ。翌日曜日の午前中にはもう家を出て、何としてでも日暮れまでには宿舎にたどりつかなければ月曜日の授業には間に合いません。
 けれども、日が暮れた真っ暗な森の中の夜道を子供が1人でさまよったり、足元もおぼつかない薄暗がりの中で川を徒歩渡(かちわた)らなければならないことにでもなれば、命の危険を冒すことにさえなりかねません。
 したがって、大半の寄宿生は土日の連休に自宅に戻りますが、一部の寄宿生は、なお寮に居残ることを余儀なくされます。

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ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(2)

2012-04-15 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。


《タイ バー ズン記者から届いた写真》

 次に、記者が送ってきた5枚の写真を、私(長谷川義春さん)の分かる範囲で説明します。

[写真A]


 「放課後の自習(中学1年生)」という、写真を撮ったタイ バー ズン記者の説明がついています。
 中学1年生といっても、ベトナムは小学5年・中学4年制ですから、日本の小学校6年生と同年齢です。
 後日、私がこの学校を訪問して分かったことですが、写真の場所は、教室として建てられた部屋(8メートル四方)に生徒用の2段ベッドをぎっしりと詰め込んだ“臨時宿舎”の中です。
 宿舎と言っても、生徒個人に割り当てられたプライベートな場所は、それぞれに割り当てられたベッドの上だけです。
 寝たり、個人的に勉強したり、くつろいだり……は、ベッドの上でします。
 個人的に使用できる机・イス・たんすなどは、一切ありません。

  

[写真B]


 このような深い泥の坂道が延々と何キロも続いています。
 道の真ん中は車のタイヤにえぐられていて走りにくいので、バイクはなるべく泥の浅い道の端を探して走ります。
 写真を見ても分かるように、あまり道の端によると、(泥の下の大石などに)ハンドルをとられてひっくり返った場合、そのまま山の斜面を転がり落ちることにもなりかねません。

 

[写真C]


 説明はありませんが、おそらくトゥオイ チェ新聞が紹介した学校(ゴクテーム中学校)の校区内にある一集落を撮ったものでしょう。
 画面を上下に二分する形で、左から右に川が流れています。
 山の斜面を掘り下げて曲がりくねった道が上下に走っています。

 川と道が交差する点を、詳細に見てください。
 川に橋は架かっていません。
 その代わり、川底には橋状に大きな石が敷き詰められていて、そこだけ人工的に川が浅くなっています。
 この浅くなった部分の上を、車は渡るのです。
 もちろん、川の水流はいつも一定ではありません。
 大雨が降れば水位が上がり、流れも急流となって、「車で渡るのは極めて危険」といった状況にもなります。
 また、大石も急流に押し流されて“水中の石橋”は崩れます。
 事実、写真では、大石は“石橋”の上流(左側)にはまったく見えませんが、下流(右側)には流れの中にゴロゴロと転がっていて、危険な“石橋”であることが見て取れます。

 車の渡る“石橋”の右側に、人が渡る橋が見えます。
 民家の大きさなどと見比べて、この川はかなり川幅があり、橋もかなり長く横幅もあるようですが、テスリも橋脚(きょうきゃく)もありません。
 この橋はたぶん木材でできていて、詳細に見ると、橋の裏側(下面)には等間隔にたくさんの横木が取り付けられ、何本もの木材をしっかりと繋いで一本にされた橋であることが分かります。
 材木を繋いで作った橋ですから、この橋を人が渡れば、重みで上下に大きく揺れます。
 写真からは、この橋は、かなり高さがあるように見えますが、万一にも落下したら怪我をせずにはすまないでしょう。
 これがいわゆる“サルの橋”と呼ばれているものです。
 この集落の学童たちも、この橋を渡って学校に通うのでしょうか? 

  この写真の中には、畑らしきものがほとんど見当たりませんね。
 画面から推察されるように、このあたりは赤土で、たぶん土壌が痩せていて、畑作には向かないのでしょう。
 村人たちは、何を生業(なりわい)にしているのでしょうか…。

 

[写真D]


 寄宿生たちの食事風景です。
 食堂がないので、寄宿生たちはいくつかのグループに分かれ、思い思いの場所で、このように食事します。
 後日、私がこの学校を訪問したときにも、寄宿生たちのこの食事風景にぶつかりました。

  

[写真E]


 2本の材木の上に掲げた青い看板には、「ゴクテーム中学校 ディエクロ分校」と書いてあります。
 たぶん、記者が先生に頼んで生徒全員を校門の前に集め、記念写真を撮ったのでしょう。
 生徒の数を数えてみると20名以上、半数近くが裸足ですね。
 生徒は小学生と中学生のように見受けられますが、これだけの子供たちを全部、この女の先生1人で教えているのかな?
 まさかねえ…。

                    ………………………………………………

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ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(1)

2012-04-15 | ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校

 ルーンさん(FUJI教育基金代表)たちの友人で、長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、最近、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。

 その「報告書」と新聞記事(日本語訳)が届きましたので、8回に分けて紹介します。
 オリジナルは、
   http://www.erct.com/1-TinTuc/Sinhhoat/NgocTem/Report-4.htm :長谷川義春 (2012年2月)
で見られます。


  私(長谷川義春さん)は、ベトナムの子どもたちの勉学環境をなんとかしたいと思い、メコンデルタ河口付近の寒村(チャビン省チャクー郡)での竹と木の葉で出来た校舎を建て替えようと、準備をすすめていました。

 しかし2010年7月、この計画を止めて、メコンデルタ河口付近よりももっと貧しいベトナム中部山岳地方の学校に寄宿舎を作るという方向へ、方針を転換しました。
 「トゥオイ チェ」新聞にその旨の連絡を取ると、早速、新聞社から
  「候補地として、この学校はどうか?」
という返事とともに、5枚の写真と、同紙記者が調査した《寄宿舎建設候補地調査報告書》が送られてきました。

 まず、その《報告書》を以下に要約します。

         ………………………………
《寄宿舎建設候補地調査報告書》

 私(記者タイ バー ズン)が調査に当たったのは、コントゥム省内でも最も生活困難な地域であるコンプロン郡ゴクテーム村(*訳注1)の中学校。
 高い山の上という地理的条件によって、この地域の気候条件は非常に厳しい。
 この学校は、コンプロン郡内で最も中心地から遠い地域にあって、生活や勉学条件が困難な2校のうちの1校とされている。

 ゴクテーム中学校は、コンプロン郡の中心地から35キロメートル離れたところにあり、そこに行くための道路は、山の斜面を削って作られた非常に通行が困難な道である。
 学校の生徒は100%少数民族の子供たちで、生活は非常に困窮している。
 起伏に富んだ地形で通学が極めて困難なため、ゴクテーム中学校はそれぞれ離れた村落に、分校を10校持っている。
 本校の近辺に住んで毎日通学できる中学生の数は数十名。
 残りはすべて本校から何十キロも離れた村落の出身者で、いちばん遠い村落から学校まで歩くと、片道半日(*訳注2)以上かかる。
 学校に至る明確な道すらない村落もある。
 そういった村落の出身者178名が、本校の仮設宿舎に入って勉強している。

 慢性的な食糧不足のほかに、ここの生徒にとって緊急に必要なものは、“衣服”と“宿舎” である。……

 *訳注1:コントゥム省は、ベトナム中部を南北に伸びるチュウンソン山脈南端の省。
 面積の約70%を森林(すなわち山地)が占め、農地は14%しかない、国内有数の貧しい省。
 コントゥム省の人口密度(1平方キロメートル当たり)は、ベトナム全体の平均の257人に対し40人(2006年調査)で、ベトナム北西部のライチャウ省とともに、国内で最も低い。
 チュウンソン山脈最高峰のゴクリン山(標高2,598メートル)は、コントゥム省内にある。
 コンプロン郡ゴクテーム村の中学校は、省内東端の山上に位置し、渓流を挟んで東がクアンガイ省となる。
 コンプロン郡の人口密度は12人(2004年調査)で、コントゥム省内でもかなり低い。
 資料はないが、そのコンプロン郡内においても最も生活困難な遠隔地ゴクテーム村となれば、人口密度はおそらく1平方キロメートル当たり数人以下の、全国でも有数の極端な過疎地であるだろう。
 過疎地の学校は、必然的に学区(子供たちが割り当てられた学校に通学すると定められた区域)が極端に広くなり、通学路も延びるので、事実上、通学不能の生徒数も多くなり、それだけ寄宿舎の必要度も高まる。

 *訳注2:この場合は、昼間の半分、すなわち約6時間を意味する。

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