ベトナムの子どもたちに奨学金を――FUJI教育基金

ベトナム南部・北部の中学・高校生、大学生に奨学金を贈って勉学の支援をしています。

ベトナム、中部高原のゾウ祭り(ダクラック省ブオンドン地区)‐2

2008-04-27 | ベトナム

 [2008年3月25日] 2日目の10時ごろには、各地からゾウたちが、歩いて集まってきた。ゾウの足には何もつけられていない。1頭のゾウには、2、3人のゾウ使いが乗っている。全部で13頭いた。

 ゾウの初めの出番は、3頭ずつで行うかけっこレースだ。3頭のなかで1着で勝ったゾウが、後のレースに残るというルールだった。ゾウは走ると非常に速く、カメラが追い付かないくらいだった。聞けば、だいたい時速36 kmくらいで走るそうである。


 ゾウのレースの合間には、綱引きや勝ち抜き相撲などもあった。
 レース終了後、ゾウたちはそれぞれどこかへ帰っていった。

 

 私たちも、森の中を流れる川にかかった吊り橋を渡り、広い板の間のレストランでござを敷いて食事をし、昼寝をした。

 午後遅く、ゾウの
川渡りレースがあった。広場ではなく、川辺が会場だ。出場するゾウたちは、それぞれ川に入ってまず水浴びをした。こんども3頭ずつの組み合わせで、対岸の赤い旗をとって来るというレースだった。

 合図とともに水へ入るのだが、別の方向へいってしまうゾウや、水の中で遊んで(?)しまうゾウもいて、なかなかレースにならない。どうやら、<自分たちはレースをしている>ということがわかっているゾウと、全然わかっていないゾウがいて、その差が大きいようだった。
 レースが終わると、ゾウたちは再び帰っていった。

 ベトナム西部高原地帯にあるヨックドン国立公園は広大で、カンボジアに隣接している。私たちが宿泊したダクラック省の省都ブン・マ・トートは、ヨックドン国立公園から車で1時間のところにある。このあたりは、コーヒーと胡椒の畑がたくさんあり、水田もある静かな農村地帯で、ヤシやジャックフルーツやカポックの高い木に、実がたわわになっている。畑の規模は、大きなものではない。

 近くのドン村には9頭ほどのゾウが飼われて(?)いて、観光客を乗せたりしていた。このゾウたちは、夜は森に帰って生活をしているが、必要に応じてゾウ使いが連れに行き、昼間仕事をする。ほかに野性ゾウが70頭くらいいるらしい。
 ベトナムでは10年前から、ゾウは捕獲禁止になっている。ベトナム戦争で使われた枯葉剤で森がなくなり、ゾウはカンボジアやラオスへ逃げてしまった。戻ってきても、もと生活していた森がなくなったゾウは、村へ迷い込んで人を襲い、殺されたりしたそうである。以前、ゾウ使いは森にいる子供のゾウを捕まえて調教し、売ったり仕事をさせたりして生活していた。
 ゾウ使いの長老マ・コンさんは現在91歳で、これまで298頭のゾウを捕まえたそうである。それほどたくさんのゾウを捕まえたマ・コンさんでも、家は高床式の質素な建物で、自分の持物はその家と自転車が1台あるだけだ、と言っていた。
 マ・コンさんはムオン族で、標準ベトナム語ではなく、ラオスの言葉を話す。通訳が2人必要である。
 名前が面白い。マ・コンさんはコンさんのお父さん、という意味で、みな、そのようにしてよぶ。また、ブン・マ・トート(ブンメトート)は、トートさんのお父さんの村(ブオン)という意味だ。人々はとてもやさしかった。ベトナムの人は、みなやさしい。

  [2008年3月26日] 3日目、ブン・マ・トートから、ヨックドン国立公園とは反対側の方角にある、美しい湖 Lak Lake へ行った。観光客を乗せたゾウが、湖を渡っている。岸辺には昔の王様(Emperor Bao Dai)の別荘があって、
今はホテルになっている。
 ここで会った村の人たちも素敵だった。大きな高床式の家に、お父さん、長女一家、妹、弟、が住んでいる。家の中で、ござの上に座って話していると、私たちの横をイヌが2匹とことこ通っていった。時間はゆっくりと過ぎていったが、ゾウはいつまでたっても帰って来なかった。


ベトナム、中部高原のゾウ祭り(ダクラック省ブオンドン地区)‐1

2008-04-27 | ベトナム

 ゾウ祭りは2年に1回開かれるが、日にちが決まっているわけではない。何か記念の日にあわせて行われる。
 今回、見学したのは「BUON DON(ブオンドン)地区の民族伝統文化祭」で、その中にゾウ祭りが含まれていた。

[2008年3月23日] 祭りの前日から、ヨックドン国立公園の近くにあるドン村の会場広場には、各地からの参加団体のキャンプが作られていた。
 キャンプは旗と装飾電灯で飾られ、祭り気分を盛り上げている。広場の中央には、布で飾られた高い柱が建てられ、大きな丸太を組んで火祭りの準備もされ、メインステージもできていた。

 [2008年3月24日] 祭りの初日。夕方、広場中央の高い柱には大きな水牛が1頭つながれ、神妙にしていた。生け贄である。
 午後5時ごろ、民族衣装の人々を先頭に、祭りの参加者たちが並び始めた。その中には、5頭のゾウも来ていた。

 松明を先頭に、その人たちはいったん退場。
 その間に、大きなマイクで紹介された招待者たちが、盛大な拍手で迎えられながら、次々とメインテーブルに着席した。人々は、この会場に向かうのに、1 kmほど行進してくるらしかった。
 松明と旗を持った人々が拍手で迎えられて再び会場に入り、いつの間にか用意されていた聖火台に火がともり、次々に長い祝辞が述べられる。
 このころには、会場はたくさんの観客でいっぱいになり、式がはじまったときには最前列にいた私たちも、後ろになってしまい、何も見えなくなってしまった。後方に並んだトラクターの座席によじ登って、かろうじて観ることができる始末だった。
 でも村の人たちは、知らない人にも、「ここにおいでよ」と親切だった。村人たちは、肩車したり、木に登ったりして観ていた。
 祭りは、民族楽器の演奏、歌、踊りと進んだ。槍や刀、盾を持った勇ましい踊り、農具と笊を持った男女のやさしい踊りなどが続いた。
 そして、歓声があがるなか、中央の大きな焚火に火がつけられると、上半身は裸で、民族服をまとい、槍を持った男たちが、円陣を組んで踊りはじめた。焚火の火がだんだん消え、踊りの輪が小さくなったころ、生け贄の水牛が殺されたらしかった。私たちには、(幸い)見えなかった。
 こうして1日目は終わった。