GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

最近自身の中で知ってるか知らんか

2022-06-02 23:06:31 | ミックス

 ばっかりの尺度で人を図ってるし、そこばっかりに捉われて生きてるな・・・野球にしてもお笑いにしても、もはや病気やな!それは、先頭の「拙ブログ閲覧にあたっての諸注意」で既に物語ってるか(笑)?

 アンタウォッチマンは、何と全国ネットで「ベイブルース特集」でした!!!彼らのファンでなくても、ある程度知識のあるかたやったら、殆ど誰でも知ってる内容になると思ってた通りで、半分ぐらい知ってる内容やったな。 ベイブルースさんは、関西・名古屋では売れっ子やったけど、「東京の仕事」は、これから徐々に入って来てたという状況のブレイク寸前で河本さんがああなってしまったから、全国区やなかったんやけど(大汗)奇しくもこの非業の死が、今でもたまに高山さんがどちらかというと本業以外で全国ネットの番組で取り上げられる契機にもなってる訳やが・・・それに1994年当時、一応ワイドショーの日テレの『ザ・ワイド(THE ワイド)』で大きく取り上げられたりもしたんやけどな。

 ガッツリした正統派漫才のベイブルースに対して変わった(シュールな)コントをする1期後輩の千原兄弟。あるいは平場でもふざけまくる千原兄弟に対してコンビの中で絶対的な権限を持つ河本さんは、途中からMC役の高山さんに「ツッコむな」という指示を出してまでしてたらしい(オイシイ所を持って行かれるから)。この事は、意外やったな(吉本って団体芸のイメージやから)・・・それだけ当時の心斎橋筋2丁目劇場のベイと千原兄弟は、ライバル関係でピリピリしてたって事やし、桂三度(当時:ジャリズム)もそう証言してたな(大汗)さらにホトちゃんは、どうやら「河本は高山に同期と遊ぶなと言うてた」って言ってたけど、多分NSC卒業後の話やな。高山さんの著書によるとNSC時代は、同期でよう遊んでたけど(笑)宮迫が大ケガをして、病院からカラオケボックスに戻って来た時も大ケガする原因を作った河本さんが反省もせず「宮迫―、こっちでチャゲアス、デュエットしようぜ!」って言うてたぐらい遊んでたから。他にも河本さんは、せいじ(靖史)と吞みに行ってた経緯は、"ジュニアがどうやってネタを作ってるのかをさぐる為"にと、とあるお笑い作家の別の著書で述べられたんやが。その辺のしたたかな計算は、さすがに頭が良かったですね!ライバルやから、直接ジュニアに聞く訳にもイカンから(聞いても教える訳ないし)な。逆に高山さんは、ジュニアと吞みに行ってたらしいで。あとベイブルースさんって、"台本が無かった"っていうのも知らんかったわ!!"あれだけの漫才を台本無しにやるなんて"・・・きっと とんでもない練習量やったんやろな!今やったら千原のコントもシュールと称賛されてるし、むしろレッドカーペット開始直前ぐらいからシュールなタイプの芸人の方が増えて来たというか、多くを占めてるのは、やはりダウンタウンの影響を受けて育ってるからやろうな。ベイの力が圧倒的やったから、千原達がふざけまくりや変化球に走るのは、必然で致し方が無かったと思う!お笑い好きの客は、正統派とシュール「どっちも受け入れる・好き」やろうから、結局どっち(ベイも千原)もウケるんやけど、河本さんは納得が行ってなかったみたい(=千原兄弟達も、正統派で正々堂々とベイブルースに勝負して来んかい!!と思ってたんやろうな)・・・やや話を戻すと、増田(ますだおかだ)氏も"自身達がまだ新人というか1990年代中盤から後半の頃の芸人同士はピリピリしてて、「他の芸人のネタ・ボケで笑うな」って時代(風潮)やったから、第七世代の"みんなでお笑い界を盛り上げて行こう"という風潮とでは、時代の隔世の感が、あるよなぁ(汗)あとアンタウォッチマンで高山さんが、"後悔してるのは、河本くんとの仲がギクシャクしたまま終わった"って言うてたけど、高山さんの著書には"徐々には、良い関係、仲良くなりつつあった"って書いてあったけどなぁ(汗)

 ちょっと話がズレるけど、こないだベイがあそびのWA!!やヤンタンをやってた頃のディレクターで今、時々ネット上でコメンテーターとして顔を出してる同志社女子大学教授の影山貴彦が上梓した『華 メディア・エンターテインメントの世界』(世界草思社、2003年)をネット通販で買って読んだんやけど、そこにベイブルースさんの事が、書いてあるっていうのは、昔から知ってたけど、そこだけを読みたいが為にやっと買いました(爆)高山さんが書く著書よりそこには、詳細が書かれてるけど、影山さんには亡くなった当日の放送は、ショックが大きすぎてどんなディレクション(番組の指示)をしたのかさえ、覚えてない(大汗)感情さえも・・・しかし高山はその日、どんな時よりも素晴らしい芸を見せてくれた事だけは、覚えている。私たちはみな、彼の展開するトークに笑い、盛り立てようとしていた。それだけは確かだと!この件もネットでよく見る話やけど、やっと著書で確認出来ました!!あまり関係無いけど、高山さんにしても影山さんにしても、決してこの番組を『ヤンタン あそびのWA!!』とは言わず"『ヤンタン』(『ヤングタウン』)"って言うなぁ(汗)それだけ番組名にしても、ソウルや想いがヤンタンなんでしょうな!ただ「結び」の前の最後の文章の"大阪城ホールでの当時の全曜日のレギュラー出演者全員が、1万人の観客の声援に応えたライブイベント(『ヤンタンフェスティバル IN 大阪城ホール』)が、2000年3月23日に行われた"と書いてますが、"1998年の間違い"ですよ・・・そもそも2000年には、ヤンタンは土・日だけになってますし、このライブの宣伝とかこのイベントの為だけに、種浦マサオが作ったオリジナルソングが事前に作られるなどの凄く気合いの入ったイベントやったんやから、それに当時のCM(シャンプーハットが、出演→当時シャンプーはレギュラー出演者やなかったが、別番組の『ヤンタンネクストフェイス』という番組のレギュラーでは、あった[ちなみに同番組のもう一枠は、事務所は違えど同期のアメリカザリガニ])の音源をまだ持ってますし、1998年で間違いないです。この年(僕が高3で、一番ヤンタンが面白いと思ってた時)のヤンタンのレギュラーメンバー全員、今でもそらで言えますもん!この事は、また書く機会があれば、書きます。

 色々書きたかったり、何て書いて良いか分からんかったりで、"まとまりの無い文章・何を伝えたいか分からん文章"になって、すいませんでした(汗) 

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