GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

今の野球ファン層なら、共感を得られた?

2023-05-29 23:11:28 | ミックス

 当時は、まだ野球好き女子は、市民権を得てなかったですからね・・・須藤理恵(青空)氏が、急逝しました!死因は不明やけど、何があったんやろう?以前京セラで青空とヘッドライトのステージ後に、ドームの通路でただ「観てましたよ」とだけ2組に伝えましたが、それだけでなく2016年の8/21(いつの事か忘れてて、ブログを辿りまくったけど、見付けられず今朝電車を乗ってた時に、そうや!チケットの半券を辿れば判ると思い付き、半券を取ってた甲斐があったで)にもBs Stageの合間に須藤氏に"妹と下の名前が一緒である"のと"上方演芸会を聴いてますよ。"と言うたら"こないだ遠くまで収録に行って来たんですよ"と答えてくれたんで、"くそ遠かったでしょ?"と僕が答えたんは、覚えてますね。やから一応、話はした事があって、縁はあったんですよね・・・

オリックス4―4楽天 - GRの戯れ言日記2 (goo.ne.jp)

 青空は、1997年にデビュー。アイドル好きの相方の岡友美 氏と野球を熱く語ってボケあるいはたまにツッコミを入れるコンビ内で温度差のあるのが売りの漫才で、数少ない女性コンビとしてbaseよしもとを沸かせた。baseやから、?マジっすか!に出てた印象が、強いな。"色"をテーマにしたVを撮って来た時には、須藤氏がメインでインタビューを受ける男性にウインク(色目)を使って何人表情を崩させられるかをやってましたね、インタビューを受けてた人は、若干羨ましかった(爆)夏の長時間スペシャルでは、数字の話になり須藤氏が"これ、篠塚(巨人)コーチの背番号なんですよ"と発言後に話が飛躍してフジモンに「お前らそんな胸ないやろ!?」とか(今ならセクハラでアウトですよね、まぁ生放送やったからあれやけど・・・)言われたから、"言うても〇〇で○カップは、あるんで。"と言い返してましたけどね・・・ヤフコメにも書いたし、英孝ちゃんもあちこちオードリーで言うてたけど、僕の他人を観る上での"野球指標は、知識"である(だって!僕は、野球知識を取ったら何も残らんもん!!他は強いて言えば、年齢の割に見た目の若さぐらいか?・・・やから、きっちり・真面目に野球知識を入れようとしない人に怒りが込み上げて来る!まぁ、そういう人は、他に残るものがあるんでしょうけど)んで、"彼女らの野球を話題にするライブには行った事はないが、テレビやラジオで見聞きする分には、須藤氏はそう知識があるとは思えんかったけど、もしかしたらメディアでは、オンエア上カットされたかもしれませんし、裏・影では相当な野球知識の持ち主やったかも知れない。"と書いてしもたけど、確かに亡くなって直ぐのタイミングで言う事やなかった(言わんでも良かった)かも知れませんな(謝罪)!社会人野球チームの公式マネージャーを務めてましたしね!あと長野に住んでた時も衛星で"川藤幸三・渡辺俊介(右のアンダーやのに、須藤氏は左で投げるしぐさをしてたから、そこは事実誤認というのが気になった・・・)・栄村忠広・津田恒実の名を漫才中に挙げてたけど、JKなどの若年層が多いbaseの客層では、さすがに伝わらず、あんまりウケてなかったが"・・・当時に今ぐらいの野球好き女子が居ても、挙げる選手名が古い・レジェンド級やったから、はたして?・・・それでも自身達のスタイルを貫く姿勢は、立派でしたなぁ。ただオンバトでは、0勝5敗と厳しい現実を突きつけられ・・・最近はよしもと漫才劇場も卒業で仕事が減少し、仕事で悩んでた・困ってたんやろか?って憶測が、凄く飛び交ってる!今や舞台が無くても、ユーチューバーとかいくらでも生きて行ける方法は、あんのに。ほんまに勝手な憶測やけど、相方は結婚して子どももおって、生活が充実してるのにと、引け目を感じてたとか?・・・須藤氏、コントをしてたイメージは無かったけど、"野球ファンにしか解らんくだりをたくさん入れた漫才"をありがとうございました!お悔やみ申し上げます(涙)

 それと今週の週ベをこの欄をチラ見しただけで、中身はまだ読んでへん(今後も読めないかも知れない・・・)のですがダンプが触れるまで知らないOB投手でしたが、安部和春(西鉄―阪神)氏という投手も亡くなったそうです。安部氏は、1959年に高校在学中に西鉄の入団テストを受け、合格を勝ち取り野球により力を入れる為に?別の高校へ転校する。西鉄には、日曜日のみ練習に参加。ルーキーイヤーから一軍初登板を記録するも右手を故障。この故障をきっかけに「アベボール」と呼ばれる微妙に変化する変化球を開発しました。63年には中継ぎを中心に10勝。翌年は先発・中継ぎ双方をこなし、初めて規定投球回に達する。前年に続いてと2年連続で二桁勝利を挙げた。特に1963年はリーグ優勝に大きく貢献し、同年の巨人との日シリでは4試合に登板。第1戦では1回に負傷降板の先発投手を急遽リリーフするが、敗戦投手となる。しかし第4戦では4回から同じ投手を好リリーフ、自身の日本シリーズ初勝利を記録。65年は再び中継ぎ中心の登板に戻り、オフに阪神へトレード。移籍後も中継ぎを中心に登板し投手陣を支えた。1969年オフに現役を引退しました。引退後はスナック「ドンレオあべ」のマスターを務めていました。通算成績は、試225 36勝26敗 防2.75 でした。お悔やみ申し上げます・・・

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