GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

いくら述べても、自己陶酔や着飾った文章になるのは、忍びない

2023-01-25 22:00:49 | 野球

 けど、あくまで個人のブログやから自由に書けるんやけどな(汗)「不惑の大砲」や「中年の星」と言われた門田博光 氏が、亡くなられました・・・地方在住のかたは、これだけの実績のあった・名選手でも、もしかしたらご存知ないかも知れん・・・僕が、長野県で働いてた際も、同僚は「知らん」て言うてた!ほんまによくメディアやニュースで取り上げられる選手・巨人や阪神の選手やOBでない限り、知名度っていうのは令和となった今の時代でも、まだ若干埋め難い差があると思います(涙)

 僕が知ってる限りの事を書くけど、誰でも知ってそうな話は書かんかも知れん!ただ全てが真実かどうかは、疑ってかかってください(爆)門田氏は、山口生まれ奈良育ち。幼少期は、喘息持ちで身体が弱かったそう(驚)天理高校時代は、4番打者で甲子園にも出場。クラレ岡山から1969年オフに南海に入団。その前年に阪急からドラフト12位で指名を受けるも、クラレの方針により拒否・・・クラレ時代は、食堂のおばちゃんからも左利きを嫌悪の目で見られてたそうやね(そういう時代やなぁ)・・・社会人時代・プロ入り当初は、身長170cmしかない身体であるし、スリムな体型の為、長距離打者とは無縁の選手であった。監督兼選手のノムさんからも中距離打者と見られていた。この頃、門田氏に限らずノムさんと選手は、良い意味でも悪い意味でもバチバチの関係でしたな(汗)ノムさんが「わしが右と言ったら、全員左を向く3選手」と言ってはばからず「南海の三悪人」と呼ばれていたんが、江本孟紀・江夏豊・門田氏であった。良く言えば、反骨精神が強く、信念や自身を貫ける選手達でもあった訳で。門田氏はノムさんを、"あのおっさん"や引退後の著書でも"19番"と呼んでいた。ノムさんも門田氏に対して"お前は、ホームランなんか打たんでええ。3番打者で出塁して、走者を溜めて俺に打点が付けさせぇ!そういう役目なんや。それが、チームプレーや!"とのたまった事に、対して門田氏も"何を言うとんねん、おっさん!自分が打点を稼いで、年俸を上げたいだけやろ!何がチームプレーや!!"と反感を持ってたみたいで。ある年のオープン戦かオールスターの試合前やったか、ノムさんが王貞治を呼び出して、門田氏と顔を合わせた際にノムさんがワンちゃんに「ワンちゃん、ホームランて狙ってホームランを打ってるの?」と訊いた所「ホームランは、狙って打てるもんじゃありませんよ、狙って打った事は一度も無い」と返事をし、ノムさんが「そら見ろ。王もホームランは狙って打ってないと言ってるやないか」と言った所、門田氏は「監督は、ヒドイ人や。僕がここに来る前に王さんとそう言うように口裏を合わせてたんでしょ。僕にホームランを諦めさせる為に」と言ってまるっきり信用せず、そっぽを向いてしまったし、ますます門田氏の心に火を着けるきっかけとなった!もっともそうは言いながらも、門田氏は当時参考になる左打者も居なくて、打者としてはノムさんの打撃フォーム(スイング)を参考にしていた。当然ノムさんは右打者であるが、試行錯誤し迷ってた時期にふと球場にある鏡を見ると、「何と鏡に映る左打者の野村克也が居るではないか!?」とこれは参考になると食い入るように見つめ、打撃向上に役立ったという!ここには登場せんけど、一応この時代の事は書いてあるんで・・・

南海ホークス回顧(1978年~球団身売り) - GRの戯れ言日記 (hatenablog.com)

 1979年には、春のキャンプでジャンプして飛び上がった際(多分着地した時やないと思う)に右アキレス腱断裂で戦線離脱(涙)キャンプ地・呉には、担架が無くトタン屋根で運ばれる(パ・リーグ党芸人座談会参照、苦笑)。医者には"野球は、まともに続けられない"という宣告を受け"走らずに野球を続けるには、歩いてホームに帰って来れるホームランを打つしかないですね。"という助言を受け、ますますホームランを追い求める姿勢を決意する!!家族には"お父ちゃんは、ほんまに野球選手なんか?"と聞かれる事があったんは、当時のパ・リーグのテレビ中継の惨状を物語ってた(困)それを証明する為に"オールスターならテレビ中継もあるし、注目度が大きいからここでのMVP獲得に燃えた事も"あり、それを実現させた(1983年第1戦)事もあった!!背番号もよく変わった、本人の意思や球団の方針で。44番を付けてた時代もあり、ホークスの後輩のギータが入団後何年間は同じ背番号という事もあり、同じフルスイングを信条としていたのもあって、よく目をかけていたのは、そういう経緯やった!低迷する晩年の南海の看板選手であった!1987年に僕は、カルビープロ野球チップスを初めて買った時に当たった選手カードが、何を隠そう門田博光だったのである!ただ当時はパ・リーグというリーグがある事も知らず、南海というチームも知らず"何や?太ったおっちゃんやな"としか思わんかったのは、大変失礼な話で・・・しかもこのカード、今でも持ってる訳でもないし・・・当時や翌年の何個か集めたら貰えた「東京ドーム開場記念、ビッグエッグ写真のカード封入アルバム」も2枚持ってたけど、それらを含めた当時のカードは、みんな捨ててるなぁ(号泣)物に執着心が無いとはいえ、あまりにも無感情ですなぁ・・・なお門田氏の写真は二塁打っぽく見えた出塁した際の笑顔でビジターユニでのNHを重ねたデザインの南海のヘルメットやったなぁ。南海最終年の1988年には、不惑(40歳)でホームラン(44本)・打点(125点)の2冠を獲得(拍手)!!中年の星と注目を浴びた!ただ南海は、惜しまれながらも身売り・・・門田氏自身は、子どもの進学先が変わる(転校させられる)のは、申し訳ないし嫌や「九州は遠い」との理由で、ダイエーに残留を拒否して、同じ関西のオリックスへのトレード移籍となる。→当時のホークスに年頃の子どもが居るのは、何も門田氏だけやないしワガママな気もするけど、門田氏クラスの実績の選手やから、許されたんやろな・・・この辺の事も以前書いてます。

南海ホークス回顧(身売り後と補足) - GRの戯れ言日記 (hatenablog.com)

 オリックス時代は、年間の半分近くをレフトの守備位置に就いた。=南海時代は、殆どDHでの起用やった(本人曰くいつでも守備に就こうと思えば就けたし、準備も試合前のノックの練習もしていた)。同じく膝に爆弾を抱えてた同じような処遇の石嶺和彦が、居た為。その石嶺、門田、ブーマー(グレゴリー)・ウェルズ、藤井康雄でブルーサンダー打線の一角を担う。特に移籍初年度の1989年は好調で、ある試合でホームランを打った後、ブーマーとハイタッチをした際に肩を脱臼して登録抹消されてましたが、何かあれはブーマーの怪力でああなったと思ってる人が多いけど、ブーマーはどう見ても、全然力強くタッチしてないですよね。あれは門田氏の自己責任で、"脱臼癖があるから、人とハイタッチをする際は、肩に力を入れとくか肩より低い位置でハイタッチしなきゃイケなかったのに、それらを忘れてて、無防備な状態でついやってしまったから、起きてしまった事"なんですよね~。この不注意のケガが無ければ、この年オリックスは優勝してたかも知れんのに・・・当時近鉄ファンやった僕としては、助かりましたが。それでも本人は引退する際に"悔いは、一切無い"と言ってましたから、僕やったら"このケガが無ければ、もっとええ成績を残せたのになぁ"と考えてしまいますが(汗)なお南海晩年から糖尿病にも悩まされており、ゆで卵ダイエットにも挑戦してたなぁ(帰ってきた野球狂のネタ~藤井寺球場編~=野球狂のネタ3 での大喜利での岡田圭右の発言によると)。村田兆治とは、丁々発止というかいつも個人対決の真剣勝負。練習では、落合氏とは正反対の速いボールや重いボールや重いバットでの練習で鍛えていた(どっちが正解というものでもなく、自身にあった練習法を実践してたんでしょう)。ホークスに復帰での1992年ダイエーでの平和台球場での引退試合では、DHスタメンでの1打席勝負で、野茂英雄と全球ストレートでの真っ向勝負で、3球三振(1球ファール)で潔く引退。奇しくも平和台球場での最後のプロ野球の試合となった!翌年の福岡ドームでプレーする前に球界を去った、それでも44歳までプレーしたんは、立派の一言!!!DHについての意見は、"DHは守備に就かんからと言って、決して楽なポジションではない。リズムが取りにくいし、試合に気持ちや姿勢も中々入って行き辛い。だから次打席に回って来るまでに投手の投球をよく見たり、裏で素振りをしたり、ランニングをしたりするとか結構大変。心も体もボール・インプレーにしておかなければ絶対に打てない。「これはDHをやっていたから残せた数字だ」などという評論家のかたも居ますが、そんなのはDHを経験してないから言える事でね。数字を残そうと思ったら、楽な仕事なんてありませんよ。ただまあ、DH制が無かったらこの年齢までプレーする事は、出来なかったかも知れませんけどね"という事をインタビューで語っていますね(週ベ、2001年9.10号より抜粋・引用)。

 引退後は、解説者。ただ2005年までで。2006年には、殿堂入り。前年から体調も悪く、殿堂入りの記者会見に出た際には風邪を引いていた事もあり涙ぐみ"人生の終着駅にこんな良い賞をもらって"と感慨にふけってましたが、何とか体調も気力も取り戻し、精力的に動くようになる。同年には、堺東の天牛書店で著書本の出版記念&サイン会を実施。僕は仕事で行けんかったけど、母親に行ってもらいましたし、握手もしてもらったそうです。片足を引きずってたし、ほんまにちっちゃかったと(汗)したがって、氏のサインを僕は持ってます!自らを「ごんたくれ」と称し、2009年には高石市をフランチャイズとする大阪ホークスドリームスという社会人チームの総監督を務めた。南海の帽子を被って、熱心に打撃指導をしていたのが、朝日新聞に掲載されていた。"ごんたくれでも一生懸命練習に取り組めば、立派な選手になれる!"のような信念を言ってた気がする。それとやはりファンの胸の内・自身が最も愛着があったのが、南海やったんでしょう、チーム名もホークスが入ってるし。ただ好きな球場は、大阪球場よりも阪急・オリックスの本拠地やった西宮球場やったらしいで。前者は高く上がる打球ほど、上空で風が舞う(旋回する)から意外と球場が狭くても、ホームランを打ちにくい球場やったと。対して西宮は、ホームランの打ち易い球場やったと。やからオリへの移籍は、そういう好条件もあったんかも知れんな!なお全盛時、阪神の掛布雅之との「御堂筋トレード」が、実現しかけた事もあったようやわ(驚)!ただ門田氏本人は、阪神やとやいやいと色々言われ、放任して欲しいと思うタイプの私は、恐らく阪神は合わなかった(向いてなかった)でしょうと述懐している。2年後の2011年も、当時の監督の不祥事により6月~9月に監督を務めた。2014年には、日本新薬の臨時コーチも務めた。が、プロ野球でのコーチや監督就任は、一度も実現しませんでしたな(涙)ノムさんは"あんな融通の利かん頑固者が、指導者になんかなれる訳がない"と言ってた時期もあったが、門田氏と対面した際"お前が指導者になる所を見てみたかったな"と言われた事もあり、"今さら何を言うとんねや、このおっさんは(笑)"と思ったらしく、お互い歳をとって丸くなったんかな(笑)通算成績は、試2571率.289 567本1678点 安2566 でした!ホームラン数は、ワンちゃん・ノムさんに次ぐ、プロ野球歴代3位です!3位ですよ、3位!!門田氏、パ・リーグを盛り上げてくれて身体が小さくても活躍出来る(身体が小さいなんて、2000年代中盤ぐらいまで知らんかったですけどね)という事を見せてくれて、本当にありがとうございました!!!!お悔やみ申し上げます(号泣)

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