富島健夫作品 読書ノート ~ふみの実験記録

富島健夫の青春小説を読み感じたことを記録していきます。

【番外編】桐野夏生『グロテスク』

2011-05-22 20:16:31 | ☆他作家の小説レビュー

※すっかりほっぽらかしになった別サイト「ふみの実験室」を再構築し、そこに移すつもりです。まずは暫定的にここにあげときます。

※『女人追憶』六部読書中です。まだ当分かかります。すみません。
 コンスタントに更新されている 荒川さんブログ 「花と戦車 光と闇」ちゃこさんブログ「こぶとり主婦」をお楽しみください。
 (荒川さん、ちゃこさん、ヘンな宣伝の仕方でごめんなさい…!)

 

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新潮文庫 上下:2006年9月初版 

 

「東電OL殺人事件」をモデルにした作品。富島健夫の美意識にあふれる文章ばかり読んでいたので、まずは読み始めから「なんと悪意に満ちた文章なのだ」と驚いた。しかしこれは作者の意図なのである。主人公である「わたし」は、悪意を身のよりどころにして生きてきたのであった。

 

登場人物たちは懸命に「何かになろう」としている。Q学園という“貧富の差”によるヒエラルキーにはじまり、頭脳、プライド、悪意、擦り切れんがばかりの努力をもって。もっともっと、上に上に。それは向上心というよりは、自己否定だ。
しかし、努力だけではどうにもならないことがある。例えば恋。和恵は学生時代恋に挫折し、一流企業に就職してもなお、新たな壁にぶち当たる。それが“男社会”だ。

その挫折感の中で和恵は壊れていくわけだが、対して主人公の「わたし」の妹 ユリコは、“美貌”という免罪符を生まれながらにもち、自分の欲望にしたがい自由奔放に生きる。しかし、ユリコもまた常に“男”を求め続けなければ生きていけない「生まれついての娼婦」であり、“女”であることを余儀なくされる存在であった。

ユリコは、肉体の欲望にしたがい男を求める。“美貌”という免罪符の効力は時とともに失われ、高級ホステスから娼婦へ身をやつしてもそう生き続けるのは、15歳で処女を失った時から自分の宿命を受け入れたからだろう。「老女」のような心はまた、貪欲に生きようとするユリコの強さでもある。

 

ユリコは和恵にこう言う。

ねえ、客が若い娼婦を買いたがるのって、肉体の魅力じゃないのよ。若いということは未来があるから、男たちは若い娼婦が持っている時間を買うんだと思うわ。あたしたちは違う。だから、普通の男たちは憂鬱になるのよ。(略)男ってきっと弱いのよ。女が醜かったり、歳を取っていて暗かったりすることにたえられないのよ。あたしたちが男の持つ弱さを露わにする。だけど、あたしたち怪物を好きな男は衰弱とか衰退とか、醜悪を好んでいる。あたしたちをもっと堕落させて、ぼろぼろにして最後は殺すの。

 

男も社会で挫折を味わうことがある。女はそんな男に夢を見せてあげることができる。それは奉仕ともいえ、男のファンタジーの犠牲ともいえる。犠牲の伴う奉仕に復讐心が芽生えてもしかたあるまい。

 

ありとあらゆる男の欲望を処理することは、男の数だけの世界を得ることだ、たとえそれが一瞬だとしても。(略)勉強でも仕事でもなく、男にあの液体を吐き出させることが世界を手に入れるたったひとつの手段だったのだ。今、あたしはそうしている。あたしは束の間の征服感に酔った。

 

“優等生”や“エリート”を目指し、擦り切れた和恵の心の突破口がセックスであったのかもしれない。会社では奇行が目立つようになり、骨と皮のようなやつれた姿に派手なメーキャップ、客の変態的な要望にも応じる。「どうだ」という心の声が聞こえそうだ。自らの破壊によるアイデンティティの確立はユリコへの対抗心でもあり、努力が報われない社会への復讐でもあり、男への復讐でもある。客を取れなくなっても和恵は壊れ続けるしかない。
和恵のセックスには快感が伴わない。オルガスムスはしばしば“小さな死”と表現されるが、和恵にとってのオルガスムスは「自己破壊」なのだ。“生と死”の極限を追求することが、「和恵」として生まれた一人の女の“生”への挑戦であったのかもしれない。

 

ユリコもまたこう言う。
体を売る女を、男は実は憎んでいるのよ。そして、体を売る女も買う男を憎んでいるの。

 

しかし、本当に和恵が求めていたものは、結局そんなことで得られるものではない。
ユリコ、和恵、「わたし」が得られず、ミツルだけが得たもの。それが“愛”だ。

 

 誰か声をかけて、あたしを誘ってください。お願いだから、あたしにやさしい言葉をかけてください。
 綺麗だって言って、可愛いって言って。
 お茶でも飲まないかって囁いて。
 今度、二人きりで会いませんかって誘って。

 

これは肉体ではなく心の叫びだ。

 

和恵は中国人のチャンに愛情めいたものを持つ。『グロテスク』は各登場人物のモノローグで進められているので、映画「羅生門」のように何がただしいのかわからない部分があるが、一番人物像がつかめなかったのがこのチャンだった。貧しい生まれで一見同情したくなるがサディストの面も見受けられ、和恵に愛や共感があったとは思いにくい。

「あんたはそれほど歳もいってないし、厚化粧だけど、それほどブスじゃない。どうしてそこまで自分を安く売るのか不思議だからだよ」

「あたしより優れた男が、劣ったあたしを可愛いと思って表す余裕」。和恵はトップを目指しながら、男に劣りたいと思っていたのだ。チャンをサディストとするならば、そんな和恵の心をチャンはうまくくすぐったのかもしれない。本文中からはファザーコンプレックスとも読み取れる。

 

「あなたは優しくされたいの、それともセックスしたいの。どっちですか」

「優しくされたい」

チャンと和恵のやり取りには、悲劇的な恋愛の持つ独特の雰囲気があって胸が痛くなる(富島健夫の世界にはない)。心の擦り切れ、女性器の擦り切れ。優しくされたいではないか。

 

ユリコと和恵はチャンに殺されたとされる。双方とも自殺なのではとも深読みできるが、実際の事件同様その真偽は推測できなかった。

 

さて、第三者的立ち位置の「わたし」に触れたい。“悪意”という盾で身を守り、人間関係を「マニア」と称して観察する「わたし」。犯罪者の祖父といるときだけ安心し、ユリコを「化け物」とののしり、和恵を馬鹿にする「わたし」は、サバイバルゲームから降りたように見えて、実は他人を“切る”ことでしか自分の存在価値を認められない存在である。自分の弱さから目をそむけ、「努力」することすらできないから、社会の役にも立てない。「中年フリーター」とは言い換えれば“中年モラトリアム”である。

和恵やミツルのような生き方と、「わたし」の生き方。どちらが幸福であろうか。わたし(ふみ)は前者と思うのだが…。

 

リアルに進められた物語は、ラストいきなりファンタジーに終わりややがっかりした。しかし、この物語自体が「わたし」のファンタジーであるととらえるならば、まあ納得いくかもしれない。(でも個人的にはあまり好きではない)

 

些末な話。話の中に「マルボロ婆さん」という老婆の娼婦が出てくるが、伝説の娼婦“メリーさん”を連想させられた。メリーさんはエレガントな娼婦だったが、厚塗りの化粧、外国、シャンソン歌手元次郎さんの存在(男娼の経験あり→百合雄)というように、作品のヒントとなったのでは、というようなキーワードがいくつか思いついた。

 

人間は存在意義を求めて、存在意義を作り出しながら生きている。家族、学校、社会…そんなちいさな世界の存在意義に頭打ちになった人間…特に女性の悲劇を描き出した作品だと思う。この悲劇は、さらには子どもにまで浸透していくことだろう。
ハーフ、似ていない親子、似ていない姉妹…生まれながらにしての存在の危うさが根底にあるのも気になった。

 

哀しいかな、和恵もユリコも、ミツルも「わたし」も、みんなわたしなのである。彼女たちの苦しみがわたしの苦しみであった。心の万華鏡をみるように、自分を見る。そこにはおそろしさとともに、不思議な安堵感もあった。

 

「東電OL殺人事件」は、いまだにネット上で話題がつきない。死んでなお、被害者は男性のファンタジーの餌食になっている。

富島作品の時代にはなかった悲劇だ。

 

(2011年5月1日読了)