いったりきたり

いつも通りの日をまじめに過ごしながらにっこりしたりきゅんと身にしみたり

ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol17

2015-02-11 | 海外旅行

狭いスークの中をすり抜けすり抜け・・・もう・・・情緒・・・どっかいった??

第8ステーション 聖ハランボス・ギリシア聖教会 イエスがエルサレムの娘たちに泣くなと語った場所です。
エルサレムの娘たちに「私のために泣くな、自分たち、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語った場所です。ギリシア語で「勝利者。イエス」と刻まれています。

自分のためにこそ泣け

さて、シモンと同じように、引かれていくイエスに従ったと語られている人々、それが民衆と嘆き悲しむ婦人たちです。
民衆は、自分たちが十字架につけろと要求したイエスの最後を見届けようとしてついて来たのです。

しかしその中に、嘆き悲しむ婦人たちがいました。この婦人たちに、こう語りました。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と。

彼女らは十字架につけられるために引かれていくイエスのために嘆き悲しみ、泣いていたのです。
しかしイエスは、あなたがたが本当に嘆き悲しみ、泣かなければならないのは私の苦しみや死ではない、あなたがた自身と子孫たちのためにこそ、嘆き悲しみ、泣くべきなのだ、と。

なぜならば、人々が「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るからです。
イスラエルの女性たちにとって、子供を産み、育てることができることは神様の祝福の印でした。

逆に子供が与えられないことは嘆き悲しみの原因だったのです。だから「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は不幸だ」というのが通常の感覚なのです。ところが、それらの人々の方が幸いだ、と言う日が来る、それは、こういうことです。

「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである」。
つまり神様の怒りによる裁きの日には大きな苦しみが襲う、その時には、子供をかかえている人の方がより大きな苦しみを負うことになる、ということです。

来るべく裁きの日を見つめての言葉です。

神様の裁きが下る時には、山や丘が自分の上に崩れてきて生き埋めにされてしまう方がまだましだと思うような苦しみが襲う、と言っているのです。
「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」という言葉はちょっと難しいですが、おそらく「生の木」とはイエスのことで、私でさえこのような十字架の苦しみを受けなければならないなら、「枯れた木」であるあなたがたにはいったいどんな災いが下るだろうか、ということを言っているのでしょう。

神様の裁きの日が来たら、罪人である私たちと私たちの子供たちはどんなに厳しい裁きを受けなければならないか、そのことを見つめ、そのためにこそ嘆き悲しみ、泣け、と言っているのです。

つまりこの婦人たちに言ったのは、あなたたちが本当になすべきことは、私の苦しみと死に同情して嘆き悲しみ涙を流すことではなくて、あなたたち自身の罪と、それに対する神様の怒り、裁きに恐れ、その罪を悔い改め、神様に赦しを求めることなのだ。ということです。

私への同情の涙ではなく、悔い改めの涙をこそ流せ、ということです。
「なんとひどい目に遭われたのか」と同情するべきものではないし、この世の権力者たちが十字架につけてこのような苦しみを与えた、憎きことだと憤ることでもなく、自分自身の罪をこそ、そこに見つめるべきものだと言っています。

ともあれ、その予言通りか、66年のユダヤ戦争によって、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿は火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落します。第二神殿が破壊され、「嘆きの壁」=「西壁」だけが残ることなり、ユダヤ人の世界への流浪が本格的に始まってしまったのです。

この場所はゴルゴダの丘に非常に近いのですが、教会に進路を塞がれているため、第9ステーションに向かうには一旦スークへ戻る必要があります。
またも、キョロキョロとスーク内です。写真で狭さ伝わってますか??
味気なさそうなお菓子が実は大好きで…食べてみたかったです! 

地上に上がって!第9ステーションめざします!


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol16

2015-02-10 | 海外旅行

次々 ステーションを進んでいきます!

第5ステーション シモンがイエスの代わりに十字架を背負った場所

この人は「田舎から出て来た」とありますから、もともとエルサレムに住んでいた人ではありません。
何のためにエルサレムに出て来ていたのか分かりませんが、この時期行われているユダヤ人の最大の祭り、過越祭を祝うために巡礼に来ていたのかもしれません。


そしてせっかく来たエルサレムの町をあちこち見て回っているうちに、イエスが引かれていくところに出くわしたのかもしれません。
とにかくたまたまそこにいた彼は、ローマの兵士たちによって人々の中から選び出されて、イエスが担いでいた十字架を背負わされたのです。
イエスには、もう十字架を担う力が残っていなかったのです。
死刑囚の代わりに十字架を担いで歩くことなど誰もしたいとは思いません。シモンは、兵士たちによって無理やり引っ張り出されて、お前がこの男の十字架を担いでいけと命令されたのです。

それは彼にとってとんでもない災難でした。なぜ自分がこんなことをしなければならないのか、と思ったでしょう。しかしローマの兵隊に逆らうと何をされるか分かりません。彼はいやいやながら、イエスの十字架を担いで、イエスの後ろを歩いていったのです。

シモンはイエスの弟子だったわけではありません。おそらくイエスと会ったこともなかっただろうと思います。
たまたまそこに居合わせたのです。
イエスがもう十字架を背負う力がない、と兵士たちが判断したその時に、たまたま近くにいたために、彼が選ばれたのです。兵士たちにすれば、十字架を担いでゴルゴタまで歩くことができさえすれば誰でもよかったのです。

そのようにして彼は、負いたくもない十字架を無理矢理背負わされました。
なぜ自分がこんなことをしなければならないのか、とんだ貧乏くじを引かされた、と思ったに違いありません。

さて、イエスの教えでは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」といっています。それが弟子たる者の、つまり信仰者のあり方だと繰り返し語っています。
そして、皮肉にもその弟子としてのあり方を文字通り具体的に実行したのがこのキレネ人シモンだったのです。

彼は自分から進んで主イエスの十字架を背負ったわけではありません。自分の意志によってではなく、無理矢理背負わされてしまったのです。

しかしまさにそこにこそ、彼の姿に信仰者のあり方を見るといえます。
キリスト信者においては、十字架を背負ってイエスに従うことが信仰ですが、「よしこれから十字架を背負ってイエスに従っていこう」と最初に決心して信仰者となった、という人は少ないのではないでしょうか。
シモンにもそういうことが起ったのだと・・・

「キレネ人シモン」という名前がこうして残されていますが、それは、シモンが後にキリスト信者となり、教会の一員となったことを示しています。
シモンは、イエスの十字架を無理矢理に背負わされ、イエスの後を歩んだ、その体験がきっかけとなり、信仰者となったのです。
そして、最後には本当の意味で、十字架を背負ってイエスに従う者となったのです。
そのように彼の人生を変える出会いがここで与えられたのです。


私たちはいろいろな縁やきっかけがあります。迎え入れたかった縁やきっかけ、反対に避けたかった縁やきっかけ、偶然のものら。
それらは本意や不本意の枠を超えて、それらに従っていく生き方の中で、自分を作っていく(変えていく)ことになりえるんだということを感じました。
嘘から出た真みたいな。最初の入口からはとても想像できなかった飛躍や心の境涯が。
そうなると、今の例えば「負わされてる感」「こんなはずじゃなかった」ものだって、まんざら捨てたものじゃないのかもって思いますよね。
真実の○○なんて、最初から、強い強い何かではなく、誰もがそのようにして心細さを伴いながら、迷いながらも少しずつ何かに気づかされコツコツ積み上げていくものなのかもって思いました。

今はまだ、なんだか弱々しいもの(目標に対する気持ちとか、恋人との関係とか、その他いろいろ!)、あるいは、何らかの”兆し”くらいにしか感じられないもの…でも、大事に育てていくことで本物になっていくんだってこと。
今まで、逆に思っていたから(最初から強い強い気持ちがなきゃ、ウソってくらいに!)モノの考え方が大きく変わった気がします。
すぐにNO!っていうような排他的な感情から、とっても受容的に…少し自分も楽になれる、そんな気がしています。
 

教会が建築されるまでは壁面に据え付けられていた石が第5留のシンボルとなっていました。キリスト教の伝承では、この石にあるくぼみはゴルゴダの丘へと向かうイエスが触れたことによってできたものだといいます。

 

第6ステーション ベロニカの教会

今にも倒れそうにゴルゴタの丘に向かって登って行くイエスの姿を一目見ようと、多くの群衆達がひしめきあっていたに違いありません。
それらの群衆の一人にこのベロニカという女性がいたのでしょうか。(聖書の福音書にはベロニカなる女性の記事はないそうですが)
茨の冠を被らされ血と汗を滴らせるイエスの苦しむ姿に同情を禁じ得なかったのでしょう。この場所で、ベロニカは絹の布でイエスの顔を拭ったという逸話が伝承されます。
するとこのハンカチにキリストの顔が浮き上がったと・・・

このハンカチはイタリアのサン・ピエトロ寺院に保存されていると云われていますが。
現在はベロニカ教会になっています。

 

第7ステーション イエスが2度目に倒れた場所
ビアドロローサ通りとハーン・アル=ザイト通りとの交差点にあり、スークの真ん中に位置しています。
「裁きの門」が記念されています。
ゴルゴダの丘へとつながる門で、ここで死刑囚に対する罪状が読み上げられていました。もちろん、イエスの場合も同様に行われたといわれいます。

アラブ人のスークの狭~い路地をひたすら歩いていきます。
もう・・・苦難の道って感じは一筋もありません””`s(・'・;)... 魅力的なお土産とかありますが、ツアーゆえ立ち止まって買い物する余裕はありません!!


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol15

2015-02-09 | 海外旅行

第3ステーション イエスが最初につまずいた場所

ポーランドのカトリック騎士団が小聖堂を建て、現在はアルメニア・カトリック教会に所属しているとのこと。
入口および内部には、イエスがつまづいた様子が大理石で彫られています。

さて…アルメニア教会とは??

エルサレムはイエスの殉教の地として、少数のキリスト教徒がいます。
ユダヤ人はイエスを「キリスト=メシア」とは認めないのでキリスト教徒はおらず、アラブ人がキリスト教徒です。
さらに、キリスト教の中でも、カトリック(西方教会)やギリシャ正教(東方教会)という大宗派に属さない、アルメニア正教、コプト教会、エチオピア教会などの信者が少数います。イスラエルは全世界のキリスト教の見本市のようです。
アルメニア人は、紀元前1世紀に、カスピ海から地中海までを領域とする大アルメニア国を作っていましたが、紀元前95年にはエルサレム近郊に来たことがわかっています。
その後、キリスト教が伝道され、王族が信仰したため、紀元301年に世界最初のキリスト教を国教とした国となりました。
そしてエルサレムまでの巡礼がさかんに行われ、また313年にローマ帝国がキリスト教を認めたミラノ勅令もあり、アルメニア人はエルサレムに教会や住居を建設していったのです。
アルメニア教会は、イエスの人性を否定して、神性のみを主張する単性論をとったため、5世紀以来、他のギリシャ正教、カトリックとなどとは一線を画す独自の宗派となり、エルサレムでも独自の地域を守りました。
イスラム勢力がエルサレムを支配したときは、アルメニア正教がビザンチンのギリシャ正教と対立していたため、また母国のアルメニアが多額の援助を送って税を支払ったために、一定の地位を確保してきて、現在のエルサレムの4つの地区の一つを構成してきました。
現在3000人がエルサレムで暮らしているということです。 

第4ステーション マリアの教会
ここでマリアが十字架を背負ったイエスを見たとされます。アルメニア人による苦悩の母のマリアの教会になっており、教会のドアにはその様子が描かれている。 
以前は20メートルほど先だと思われていましたが、ここの教会地下にあるモザイクにサンダルが発見され、マリアのサンダルと考えポイントを移したようです。実はその以前の場所は・・・さっきのあの派手な下着売り場になってるんです!! 

十字架にかけられ疲労したイエスに駆け寄る苦痛の表情のマリア。悲しみのどん底にあるマリアを抱きかかえんとするようにみえます。

この教会の地下からはビザンツ時代のモザイクも見つかり、モザイクにはマリアのサンダルも描かれています。 

 ひっそりと祭壇が祀られています。

マリアの教会の前でザクロジュース飲みま~す!
ガイドの信夫さん・・・渋いっ! 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol14

2015-02-08 | 海外旅行

ビアドロローサとは、イエスが死刑の判決を受け、茨の冠をかぶせられ、自ら十字架を背負って歩いた道のことです。旧市街イスラム教徒地区からキリスト教徒地区へと続くおよそ1キロほどの道です。14留(14ステーション)があります。
出発点はローマ総督ピラトの官邸、終着点はゴルゴダの丘です。イエスはゴルゴダの丘で磔刑されるのです。
ゴルゴダの丘とされる場所には、現在、聖墳墓教会があります。

ビアドロローサの14ステーション

1 イエス、死刑判決を受ける
2 イエス、十字架を背負わされる
3 イエス、十字架の重みで倒れる
4 母マリアが十字架を背負ったイエスに出会う
5 シモンがイエスに替わって十字架を背負わされる
6 女性べロニカがイエスの顔を拭く 
7 イエス、2度目に倒れる
8 イエス、悲しむ女性たちを慰める
9 イエス、3度目に倒れる
10 イエス、衣を脱がされる
11 イエス、十字架に付けられる 
12 イエス、十字架上で息を引き取る
13 アリマタヤのヨセフ、イエスの遺体を引き取る
14 イエス、埋葬される
(10から14までは聖墳墓教会のなかにあります)

第2ステーション 鞭打ちの教会 有罪に定められローマ兵に鞭で打たれたところです。

ゲッセマネで逮捕されたイエスは、エルサレムの大祭司の官邸に連行されます。
そこでは、正式な裁判が始まる前に、祭司たちは有利な証言を引き出すことを目論んでいました。
彼らは、イエスが神を冒涜した容疑を立証しようとして証拠を求めていました。
イエスが神殿を壊して、三日で立て直すということを二人の人が証言した。しかし、この件について証言は一致せず、有罪は立証できませんでした。
イエスに「神の子キリスト」であるかどうかという質問をします。
イエスはそれに対して、自らが権威をもって人間を裁くために天から地上に戻ってくる神であること意味する答えをします。
それを、聞いた祭司は自分の衣を引き裂いて、イエスが神を冒涜したことを宣言。
そして、議員は一致して、死刑に相当すると答えました。
その後、神殿警察がイエスの権威を失墜させるために、イエスを取り囲んでつばきをかけたり、こぶしで殴りつけたりしました。
すでに、夜明け前にイエスの死刑を決定していました。しかし、死刑の決定は昼間しか下せなかったので、夜が明けてから、刑を確認して、再協議を始めます。
議員は、ローマのパレスチナ行政官の総督ピラトから死刑の判決を引き出す方法を協議して、危険人物であることを印象付けるために、イエスを捕縛して、イエスの身柄をピラトに明け渡します。ユダヤ人には死刑を決定して執行する権限がなかったからです。
イエスはピラトの前にたったが、ユダヤ人たちは異邦人の家に入って穢れることを避けるために官邸には入りません。ピラト自らユダヤ人にもとにやってきて、イエスの告発の理由を尋ねます。
ピラトはユダヤの律法によって裁くことを勧めたが、ユダヤ人たちは、イエスが反逆者で死刑に相当する罪を犯していることを訴えます。
ピラトはイエスに、ユダヤ人の王であるかと尋ねます。
イエスはその通りであると答えます。
その後、ピラトは官邸でイエスにユダヤ人がイエスを告発した本当の理由を尋ねました。イエスは自らが真理をあかしするためにこの世に来た王であることを告げました。
官邸でイエスを尋問した総督ピラトは、イエスに死刑に相当する罪を見出せませんでした。しかし、祭司長や群集は納得しません。
そして、イエスがガリラヤ領民であることを知って、ガリラヤの国主ヘロデがエルサレム滞在中なので、ピラトはイエスを、ヘロデに裁いてもらうために送ります。
ヘロデは、以前からイエスに会いたいと思っていたので大変喜びました。ヘロデはイエスを質問攻めにしましたが、何も答えません。そこで、ヘロデはイエスを嘲弄して、派手なきものを着せて総督ピラトに送り返します。
再び、総督官邸に戻ってきたイエスをピラトは釈放しようと考えていました。ピラトの妻もイエスについて悪夢を見たので釈放するようにお願いしていました。そこで、過越祭の恩赦によってイエスを釈放しようと考えます。
そして、群集の前で、イエスか強盗犯のバラバのどちらかを釈放したらよいかと問います。ピラトの予想に反して、群集はバラバを釈放するように叫びました。
それでも、ピラトは懲らしめて釈放すると告げ、そこで、イエスに鞭を打った後に、いばらの冠をかぶらせ、手に葦の棒を持たせ、緋色の着物を着せて、イエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様万歳」と叫んでからかったのでした。
それでも、群集はイエスを十字架につけろと叫びます。
暴動になりそうなので、ピラトはイエスを外に引き出し、皆の見ているところで手を洗って、「この人の血については私には責任がない。」と宣言し、バラバを釈放して、イエスを十字架につけるように兵士に引き渡します。

ローマ兵に担ぎ出されイエスにユダヤの群衆が騒ぎたつ様子と潔白を主張して手を水に浸すピラト

ピラトは手を洗って自分に責任がないことを示そうとしました。しかし、彼は無罪を知りながら、人々を満足させるために不当な死刑判決を認めたので『最も愚かなジェスチャー』と揶揄されています。群集の要求に応えてやむをえずイエスの処刑に踏み切ったとありますが、ピラトの動機には自分の政治生命を守ることで、ローマにユダヤの情勢が伝わらないようにしたいという願いがあったとされています。

しかし、こうしてイエスを殺したのはユダヤ人であるという事実は、後に、ヨーロッパ・キリスト教社会において、ユダヤ人差別へとつながっていったのかもしれません。

バラバの赦免
過越し祭のたびの慣例となっていた罪人の恩赦にあたって、総督ピラトはイエスの放免を期して、バラバかイエスかの選択を民衆に問います。しかし、そそのかされた群集はバラバの赦免とイエスの処刑を要求。
ピラトは不本意ながらこれに従ったため、バラバが釈放されました。

ピラトがイエスを指さして言った「エッケ・ホモ」(この者を見よ)アーチ


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol13

2015-02-07 | 海外旅行

嘆きの壁を後にいよいよ、ビアドドローサへ

イエスが死刑を言い渡されてから、ゴルゴタの丘に向かい十字架を背負って歩いた道。
総督ピラトの官邸、鞭打ち教会、エッケホモ教会、ベロニカ教会を通り、イエスが処刑されたというゴルゴタの丘にある、現聖墳墓教会までの道のり、苦難の道。なのですが・・・現在、道中があまりにも世俗化してしまって・・・なんというか・・・その、趣きがね・・・なさすぎ。

ところで、「人間」として活動していたイエスが如何にして「神の子、救世主キリスト」と見なされていったのでしょうか・・・
イエスはユダヤ教の世界に出現した人であり、歴史的に言えば「ユダヤ教の改革運動家」ということになります。そのころは、「一人のユダヤ教の教師」です。

ユダヤ教というのは元々「流浪の砂漠の民」のもので、砂漠という貧しく過酷な中で苦しい生活をおくらなければならなかったヘブライの人たちが、自分たちの悲惨と苦労しなければならないことに意味を与え、さらに「幸い」を未来において得られるとする「希望」を語ることで自分たちが生きることの支えとするような性格をもった宗教だったようです。

現在の悲惨と苦難の原因として、自分達の祖先が
「神に背いて」悲惨なこの地上に「追放」されたと・・・
こうして自分達の悲惨さ苦難はやむを得ないこととして説明し、その
「神に従う」ことによってやがて「神に救済され」「約束の地」を得て幸せとなれる、という希望を語ることでした。

これを物語るのが
「エデンの園」の物語で、人類の祖?「アダムとイブ」が神の命令を破ってエデンの園にある禁断の木の実を食べてしまい地上に追放されたという話しとなります。
ですから、この地上は
「追放の地、窮乏の地」と捉え、過酷な労働を強いられるのだ、と理解されていたのです。

しかしそれだけではやっていられませんから「やがて幸せが到来する」という希望を持たなくてはなりませんでした。その希望はイスラエル(ユダヤ)人の祖とされる「アブラハム」に与えられた神の契約で、そこでは、神への絶対的な服従を誓えば「乳流れ、蜜流れる地」「カナンの地(現在のパレスチナ地方)」を授けてくれるという約束でした。

こうして「絶対なる神、ヤハウエに服従」しなければならないとされました。「神のいいつけを守らなかったら」どうなるか。
希望は「剥奪」されます。こうなっては大変です。ここから
「服従と罰」の考えが出てきます。こうしてユダヤ教では「神の言いつけ、つまり戒律を守る」ということが絶対の教えとされていったようです。

イエスは、こういう「服従と罰」「見張って罰を与える」「戒律主義」をいう神を批判して、真実の神はそういう神ではない、と言って「愛の神」を言い出したのでした。イエス理解の上で、ここが最大のポイントに・・・

イエスはやたらにユダヤ教の神官・学者たちによって「いちゃもん」を付けられますが、その大半は「戒律」に絡んだものです。
ユダヤ教の教えというのはこの「モーゼ」によって提唱された思想となります。 
そうあの「十戒」 中でも3つユダヤとキリストの特色があります。

1・自分以外に神があってはならない
ユダヤ=「他の神を捨てて自分だけ敬ったら恵みを与えるが、そうでなければ子々孫々にまで禍を与える 」(怖い)
キリスト=「慈悲深い神」

2・偶像を作ってはならない=神は地上的な形を超越しているものだから
ユダヤ=神殿
キリスト=ギリシャ(目で見る民族)に伝えられ絵(イコン)として残ります

3・安息日を守りなさい
ユダヤ=超厳格
キリスト=「文字面の戒律にこだわってはならない」
この戒律は具体的には、ペンを持ったり針を持ったり、畑を見回ることもできず、要するに「礼拝と食事以外」はボケーとしている以外何もできないとなります。これは当時のその日暮らしの下層階級の庶民には守れるものではありませんでした。
一部特権階級の人しか守れないものだったのです。そうした事情からイエスは、「形」にこだわることの無意味さを指摘してその「精神の成就」を主張したのでした。
イエスにあっては、「神への信さえあれば」形など問われずそれが戒律の遵守であり、「愛や気持ちがなければ」どんなに形は立派でも戒律の遵守とはならない、ということなのです。 

安息日には救助活動も病人の看護もできないわけで、こうしたユダヤ教の「教条主義」に怒って反抗していったのがイエスだったのです。 しかしユダヤ教の立場に立てば、律法は厳格に守られて始めて「律法」となりうるのであって例外を認めていったらキリがなくなり「律法」の意味がなくなるということになるわけでした。

ですから、ユダヤ教からみれば、安息日に「癒しや教えを説く」その姿は、もう重罪以外の何でもなかったのでしょう。

イエスはこれら思想を新しく解釈し直した「ユダヤ教の一人の教師」でしかありませんが、その解釈の斬新さが後にイエスを特殊化させるものだったのでしょう。

「戒律の遵守による救済」から「神の愛による救済」 人類史上はじめてといっていい思想の提唱です。
イエスが「神の子、救世主キリスト」と見なされていったその要因を見ることができます。


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol12

2015-02-06 | 海外旅行

いよいよ「嘆きの壁」です。
こんな光景が見えるようになったのは歴史的に見ればごく最近のこと。
というのも、1967年の第三次中東戦争でイスラエルは旧市街を含む東エルサレムをヨルダンから奪ったのです。
70年にローマ軍によって神殿が破壊されて以来、実に1900年ぶりに、ここで自由にユダヤ教徒の礼拝ができるようになったのですから。

手を清めます!
嘆きの壁は男女別に仕切られています。向かって左が男性用の嘆きの壁、右が女性用の壁となっています。壁は柵で仕切られています。
嘆きの壁の上は、ユダヤ人にとっても、イスラム教徒にとっても「神殿の丘」、どちらも、宗教存続の根幹にかかわる聖地です。
それゆえに、この仕切りの柵ひとつでも、大騒動になるんです・・・
1928年9月、男性と女性の祈祷者を分ける習慣のあるユダヤ教徒が、男女の境についたてを置きました。
そうすると・・・これをイスラム教徒はオスマン帝国時代に定められた嘆きの壁区域における「建設」禁止の項に反すると抗議。
また、抗議を受けイギリス当局はこれを撤去するよう命じますが、ユダヤ人側もまた聖なる日を汚されたと憤慨・・・
う~ん・・・イスラム教徒の抗議の根拠になる定めが・・・オスマン帝国時代の決まりってとこもすごいけどね。。。 

写真は自由に撮ってもいいんで(意外に寛容??)
私もお祈りしておきました。(仏教的なお祈りの仕方ですが)
ホントに世界平和です!やっぱり切実に感じます。
世界中の人たちが、理不尽な理由で命を落とすことの無いように、飢餓や疫病、暴力や殺戮そういった類のない世界にならないとって思いました。  

ユダヤ教、キリスト教、イスラームの関係ですがこの三つは「姉妹宗教」と呼ばれていて、その「神は同一」です。
ユダヤ教ではこの神の名前を「ヤハウエ、ヤーヴェ」といった発音で呼ぶとされますが、戒律に「神の名前をみだりに呼ぶなかれ」というものがあるため信者はこの名前を口にしません。

イスラームでの「アッラー」というのは神の名前ではなく、日本語的に言えばただ普通名詞で「神」というだけのことです。もちろん戒律通りに神の名前を口にしないからです。

「神は同一」なのにどうして三つになってしまったのかということですが、元々はこの「ヤハウエ」はヘブライ民族(イスラエル民族、ユダヤ民族といっても同じ)の民間の信仰の神の名前です。
このヘブライの民間の信仰が後に組織的な宗教となって「ユダヤ教」と呼ばれるようになって、この「ユダヤ教」から「キリスト教」が出てきて、さらにまたこのキリスト教から「イスラム」が出てくるのです。
ですから「キリスト教」も「イスラム」も「ユダヤ教」も「神は同一」ということになるのでした。

そのユダヤ教以前の「ヤハウエ」を神とするヘブライの民間の宗教というのは紀元前の1000年以上前からのもので、そこからユダヤ教が成立する経緯は・・・
ヘブライ人が紀元前1000年頃「サウル、ダビデ、ソロモン王」によって始めて独立した国を持つことができました。
しかし、その後まもなく内部分裂を起こして、「北のイスラエル」と「南のユダ」のそれぞれの王国に分裂してしまいます。
それがさらに外敵に攻められて北のイスラエルは早々と、やがて南のユダ王国も程なく滅亡してしまいます。
そしてユダ王国にあったヘブライ人の多くが征服者であった「バビロンに連行」されてしまいます。
その後ペルシャによって解放されて元の国のあったパレスチナ地方に戻ります。(紀元前500)
そして「神殿」を再建して、これまでの民間信仰を「宗教」として組織化したのでした。この、バビロン捕囚以降にパレスチナに戻ってきて形成した「組織的なヘブライ人の宗教」を「ユダヤ教」と呼んでいるのです。

そしてさらに500年経った頃つまり紀元0年頃ということですが、この「ユダヤ教」の中に「イエス」が生まれて「ユダヤ教の刷新」を起こします。しかし彼はユダヤ教徒に憎まれて「十字架刑」によって殺されてしまいます。紀元後30年くらいです。
しかし、残された弟子達がイエスの教えを伝えるようになり、そうした宗教運動がギリシャ人に伝えられてここで「キリスと教」と呼ばれるようになったのです。
こうして「キリスト教」はユダヤ人のもとから「ギリシャ・ローマの人々」、そしてやがて「西欧に入ってきたゲルマン民族(現在の西欧人)」に伝えられていったのでした。

さらにまた600年くらい経った頃、アラビア半島で「ムハンマド」がキリスト教の大天使「ガブリエル」から啓示を受けて、新たに宗教運動を起こします。それはヨーロッパ化してしまったキリスト教を再び中東の性格にもどしたような性格を持ち、それを「イスラム」と呼んでいるわけでした。イスラムとは「平安であれ」とか「絶対的に神に服する」という意味らしいです。

イスラルの人口は720万人。そのうちユダヤ人は3/4を占めます。
ユダヤ人は4つに分かれていて

①超正統派(黒い服を着て、ハットを被ってる人たち)
②宗教派(普通の服装だけど、律法を守りユダヤ教を信じる人々)
③伝統派(宗教ではなく民族の伝統として律法を守る人々)
④世俗派(宗教にも律法にも興味の無い人々) ※この4つの分類は明確なものではないらしいです。

自分が嘆きの壁でよく見た黒い服を着て、黒い帽子を被り、もみあげを伸ばしている人たちは超正統派と呼ばれている聖書の律法を厳格に守ろうとする人たち。 

この超正統派の人たちは、国からほとんどの税金が免除。
兵役も免除(拒否)。

生活は政府の援助によってまかなわれ、仕事をもたず、祈りに明け暮れる・・・・・・

そして金曜日
ユダヤ教では金曜日(金曜日の日没〜土曜日の日没)は「安息日」とされていて

・食事のための煮炊きをしない
・電話に出ない
・車を運転しない
・テレビをみない
・エレベーターに乗らない
・一切の労働をしないなど
・気器具は使用しない(スイッチを触ってはいけない)
・お金を使わない
・ペンも持たない
等々、してはいけないことがたくさん。

そして、食事規定「コーシェル」ユダヤ教には食べてはいけないものと食べていいものに分かれていて

食べていい物の例としては
・ひづめが完全に2つに割れていて反芻する動物。
(牛や羊といった動物はOKだけど、豚、猪、ウサギ、ラクダなどはダメ)

・魚は、ヒレとウロコのある魚だけOK。その稚魚や卵も食べれる。
(なので魚類以外のエビ、タコ、牡蠣、貝類、イカなどは食べれない)

 あと、「子山羊を、その母の乳で煮てはならない」と聖書にあり、お肉と乳製品は一緒に口にしません。
ホテルでも朝食にはチーズ、夜ごはんはお肉、お肉がでるとチーズやコーヒーに入れたいミルクも出ません。 

これも肉と乳を一緒にしないという掟から、2種類の食物用に台所用具から食器まで区別しているそうです。
洗い場だけでなく、お皿まで区別していて・・・ここまでしないと本当のコーシェル・キッチンになりません。と。なんと徹底していることでしょうか。

男性の最低限度の服装としては常に頭に「キッパ」という小さな帽子を被る(載せる)ことがあります。
キッパを被ることで、頭上に神がいることを意識し、神に崇敬の念をもつためであるとか。
もみあげは??
頭は、豊かに種をまき作物が育ち収穫する大地(畑)と見立てて、もみあげはその落穂。
「落穂拾い」にも象徴されるように、落穂とは富めるものから貧しいものへの施しの意味があって、そういう精神を大切にするっていう意味があると聞きました。 

額の箱は??

祈りの場合、額と左腕にテフィリン(経箱)を付けます。箱の中にはユダヤ人が忘れてはならない4つの大切な祈り(汝、全心、全霊、全力尽くして汝の神、主を愛すべし)が書かれた紙が入っていているそうです。額は知的、左腕は心を意味していて心も知性も神と通じるというような意味合いらしいです。

 

今日は月曜日。
毎週月曜日と木曜日には、嘆きの壁で男子の成人式(バル・ミツバ)が行われます。
13歳になった少年は、公衆の前でトーラー(モーゼ5書)を朗読する。(大変!準備が必要ですね!)
この日も家族親族あげて、世界中のユダヤ教の人たちが集まってきていた様子で、お金持ちそうな家族がステキにドレスアップして集まってきていました。

ユダヤ教はヘブライ人の民間の宗教を元にしています。
やはり「ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための宗教」という性格を持っています。
これらはその民族に特有のもので、「その民族に繁栄をもたらす」ということが中心となっていて、したがって世界的には「自然崇拝」が多いのですが、ユダヤ教の場合は回りの自然は砂漠で貧しいといった状況であったため逆に「神が豊かな地を授ける」という形の宗教になってきます。
この「約束の地」とは「パレスチナ地方」としたため現在にまで尾を引きパレスチナ戦争の大きな要因になっているのでした。
また、その神の「約束」が果たされるためには「神に絶対服従する」という約束をすることになり、こうした両者の関係を「契約」と呼んでいます。そしてまた「約束の厳守」とは「戒律を守る」という形になりしたがってユダヤ教は厳しい「戒律主義」となったようです。

私もいつになく神妙な面持ちです!


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol11

2015-02-05 | 海外旅行

イスラエルの日の出です!当たり前だけど太陽ってすごいね。いつも伊勢で見る太陽とおんなじ太陽でしょ??
不思議な感覚です♪♪ 
どこの世界にいても、太陽が昇って太陽が沈むこれを一日ってゆうんだよね。 

朝食です!クリームチーズ大大大好き。。。
でも・・・あ”~~もうデーツないんだ・・・しこたましこたまデーツ食べた日々は・・・もう・・・
帰国して自分用のデーツ食べ終わったらどーしたらいいんだ??

 

 岩のドーム入場ゲートです!会場前に並ばないとすっごく並ぶそうです。
検査も厳重です。聖書とか十字架のアクセサリーとかNGで、そういうものは持ち込んだりしないことと外していくマナーが必要らしいです。 

木製の渡り廊下を進んでいきます!2階から嘆きの壁をみることができます。
はてはて??嘆きの壁とは??

紀元前20年、ヘロデ大王によって大拡張された神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分。
地上7段目まではヘロデ大王の時代のもの。
神殿の丘にあたる場所は元は自然の高台で、紀元前10世紀頃からすでにこの上に神殿(エルサレム神殿)が建てられていました。これが紀元前19年頃になってヘロデ大王によって大幅に拡張されます。これが現在の神殿の丘で、その西側の壁が現在の嘆きの壁。
70年にユダヤ戦争があり、ローマ軍により鎮圧され、この際、エルサレムは炎上し、神殿は破壊され西壁のみが残ります。


地上8-11段目の4段は、ウマイヤ朝によって7世紀に追加。638年にエルサレムを支配下に置いたウマイヤ朝は、さらに691年に神殿の丘に岩のドームを建設しています。
地上12–25段目の14段はオスマン帝国時代の1866年にイギリスの実業家によって追加。
地上26–28段目の3段はエルサレムのムフティー(イスラムの宗教指導者の役職名よ)によって1967年に追加。

2000年前から継ぎ足し継ぎ足し・・・そして現役ってスゴイな。 

政府の警察 何か騒動があったら駆けつけてくれるんでしょうね。 

「岩のドーム」
カーバ(サウジアラビア:メッカ)、預言者のモスク(サウジアラビア:メディナ)に次ぐイスラム教の第3の聖地であり、「神殿の丘」と呼ばれる聖域となっています。
現在はイスラム教徒の管理下にありますが、南西の壁の外側の一部だけは「嘆きの壁」としてユダヤ教徒の管理下にあります。
 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な関わりを持つ聖なる岩を祀っています。建設に際して刻まれた総延長240mに及ぶ碑文では、イエスの神性を否定はするものの、預言者であることを認めています。

ユダヤ教において「聖なる岩」は、アブラハムが息子のイサクを神のために捧げようとした台。
アブラハムとは??
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じるいわゆる聖典の民の始祖。ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者。「信仰の父」とも呼ばれます。
年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるという試練。
アブラハムは盲目的に神の言葉に従い・・・イサクの上に刃物を振り上げた瞬間、天から神の御使いが現れてその行為を止めます。アブラハムが周囲を見回したところ、茂みに角を絡ませた雄羊がいたので、彼はそれをイサクの代わりに神に捧げたとのこと。
この試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒によって今日でも讃えられています。

イスラム教においてこの岩が神聖とされるのは、預言者ムハンマドが一夜のうちに昇天する旅を体験した場所とされること。
メディナの預言者のモスクに住していた時代のムハンマドが、神の意志により「聖なるモスク」すなわちメッカのカアバ神殿から一夜のうちに翼をもつ天馬に乗り「遠隔の礼拝堂」すはなわちエルサレム神殿までの旅をしたと語っています。このときムハンマドは大天使ガブリエルに伴われエルサレムの神殿上の岩から昇天し、神アッラーの御前に至ったのだと。これは、コーランに表れるムハンマドの数少ない奇跡の一つです。

平面は2つの正方形を45度ずらして形成された八角形。外壁面は、窓の下は大理石の幾何学的文様で装飾。その上は青を基調としたタイルで装飾されています。美しきイスラムの世界・・・

次はイランの幾何学の世界を堪能してみたい。。。(もう次の旅行ですか??)って! 

オリーブの丘がみえます! 

小さいドームは「鎖のドーム」と呼ばれるもので、岩のドームと同時期に建てられたものといいます。伝承によると、ダビデ王がここで裁きを行ったそうで、その際に天井から鎖が吊り下げられ、裁きを受ける者が真実を述べているか否かによって、鎖に触れる可否が決められたといわれます。

最近は女性が集まり、コーランのお勉強会をしているそうですよ♪♪

岩のドーム内は現在はイスラム教徒だけしか入れません。2000年までは10ドルで誰でも入れたそうですが・・・
2000年9月28日に、イスラエルのシャロン(その後15代首相)が1000人以上の武装護衛を引き連れて岩のドームを訪問。
そこで、「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言。この訪問はあからさまにパレスチナ人を挑発する行為で・・・
これまでもイスラエルの過激派によるモスクの放火事件や、爆破未遂事件などが起こっており、イスラムの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張していたという経緯があるため、パレスチナ側は警戒心を強めていたのにです。
翌29日に2万人のイスラム教徒が抗議行動を開始し、「嘆きの壁」に祈祷に来ていたユダヤ教徒に投石。パレスチナ人はイスラエル警察と衝突。

このインティファーダ以降入場を禁止したそうです。それでも状況は良くなっていて、2004年あたりまで神殿の丘の敷地にさえ入場が禁止されていたそうですから。

ただ、政治資金的な流れを正す制裁の意味もあると聞きました。
ドームに入場する10ドル×世界の観光者(入場者)。この莫大になる資金が“何”に使われているか・・・
不正に使われていないのか、またはテロに流れていないのか・・・
それが明らかにならないまでは、この10ドルをとどめ置く。
そんな政治的な側面も・・・と

そんな複雑な思いを胸に。。。岩のドームを後にして次は「嘆きの壁」へ

これはイスラム教徒のお家で、玄関に聖地巡礼「メッカに行ったよ」「立派でしょ!」っていうサイン。
メッカ行くにはとてもお金持ちじゃないと大変。このお家はカーバのシンボル3つ書いてあるから、3回も行ったんかな? 

イスラム成立当時は、砂漠の広がるサウジアラビア一帯を踏破するのは片道だけでも大変な苦行だったでしょう。

ちなみに・・・
日本の宗教聖地としては、仏教の「比叡山(天台宗)」「高野山(真言宗)」、神道の「伊勢神宮」。
比叡山まだ行ったことないんだよなー 行ってみたいな! 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol10

2015-02-04 | 海外旅行

ヨルダンを出国です!

駆け足でヨルダンでした。。。ずっと妄想していたペトラを現実にして、絶対浮かんでやるってずっと思っていた死海で遊べて本当に満足です(^.^)

いよいよ、イスラエルに。。。ところでイスラエルって建国 浅っ??
第二次世界大戦後の1948年、 ユダヤ教を信じているユダヤ人たちが作りました。
でも、そもそもは・・・? それは3000年前も昔のお話から・・・

イスラエルについて語るにはまずユダヤ教の興りから語らなくてはなりません。
ユダヤ教は紀元前1280年頃出エジプトの際に預言者モーゼが授かった神の言葉により興ります。
旧約聖書にこの時のエピソードが語られています。
エジプトのヘブライ人奴隷たちを率いてモーゼが向かったのは「約束の地」と呼ばれる今のイスラエルです。

その頃、現在のイスラエル地域はイスラエル王国というのがあってユダヤ人がこの地を治めていました。ダビデとかソロモン王とか有名です。 しかし、問題なのがこの地域がとても重要な場所に位置していたという点。

アジア、ヨーロッパ、北アフリカを結ぶ重要な場所なんです。
だから、み~んな欲しくて、ですから、この地域は色々な国や民族に支配が移り変わることになります。
試練を乗り越え、約束の地へたどり着いたヘブライ人たちはそこでしばしの定住生活を送ることになります。
しかし、紀元前1020年頃にできたヘブライ王国を経て、イスラエル王国とユダ王国に分裂したヘブライ人たちは、紀元前587年のバビロン捕囚によりユダ王国が滅ぼされ、再び隷属の民となってしまします。

この時の経験がたとえ一つの国に集うことが無くても同じ神を崇拝するユダヤの民という強い同朋意識を持つきっかけとなり、今のユダヤ教の在り方にまで受け継がれています。

紀元前586年には新バビロニアによって、その後、ローマ帝国によって征服。

もともと住んでいたユダヤ教のユダヤ人たちはここに住んでいられなくなってくるんです。ですから、世界各地にユダヤ人たちは散らばっていくようになっていきます。そのかわりキリスト教がこの地で生まれますね。←これは超有名! 

そして614年にはペルシャによる侵攻。636年にはイスラム帝国が占拠します。この7世紀ごろからはアラブ人もこの地に入ってくるようになり彼らはイスラム教徒になっていきます。

このようにして、この地はいろいろな国、民族、宗教が移り変り…ですから、この地域のエルサレムという場所はユダヤ教、キリスト教、イスラム教と3宗教の聖地ともなっています。これがイスラエル、パレスチナ問題の出発点。

キリスト教徒は11世紀の後半から十字軍を遠征させ聖地奪還を目指しますがこれに失敗。

そして、16世紀にはイスラム教のオスマン帝国という強い国がこの地域を支配することによって長い戦いの歴史にも終止符が打たれることになります。このオスマン帝国の時代がどれくらい続くか?なんと400年あまりです。そしてオスマン帝国では、この地域をパレスチナと呼ぶようになります。

そんな中、第一次世界大戦が始まります。オスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアと対立します。そして、この時にイギリスがとんでもない約束をしてしまう!

まず、アラブ人に対して「イギリス軍に協力するなら君たちの国家をつくるのに強力するよ」と持ちかけます。一方ではユダヤ人に「お金だしてくれるならユダヤ人の国家を作るのに協力しますよ」と明らかに矛盾した約束をしてしまう。

イギリスは、ユダヤ人、アラブ人両方に独立国家をつくるという約束をしてしまったんですね。これが、現在に至るまでユダヤ人とアラブ人との関係がこじれてしまう原因です。

結局、イギリスはどちらも裏切り、パレスチナを委任統治領とします。ただ、ユダヤ人を優遇はしていたので1920年代には少しづつユダヤ人が増えていくことになります。しかし、1930年代になると、そのユダヤ人の移住が急増します。年間20万人というものすごい数!なぜか?そう、ドイツのナチスが力をつけユダヤ人を迫害したことなどが原因ですね。

ところでパレスチナという土地ですが、ここはすっごく狭い!日本の四国と同じくらいの大きさ。そこにユダヤ人がどんどん入ってくる。アラブ人は「なんじゃ、こいつら!」と怒り対立が深まっていくことになります。

1947年。第二次世界大戦後にはイギリスがパレスチナにおける治安維持能力を失い撤退するとこの地を国連の決定に委ねることにします。 もう、ユダヤ人とアラブ人の対立が激化しすぎちゃってイギリスも嫌になっちゃうんですね。丸投げ・・・もう、国連に任しちゃえ!!ってことになったんです。

そして、イギリスに丸投げされた国連が出した決断とは?やっぱり、イギリスと同じ「パレスチナ分割案」。しかし、この国連の分割案にはユダヤ人にかなり有利な分割案となりました。水利が整っている地域はユダヤ人に荒地はアラブ人に・・・これにはアメリカの強い後押があったといわれています。

こうして、この国連分割案にそって1948年にはイスラエル国が独立宣言されることになります。ですけど、そんなのアラブ人が黙っているわけもありません。アラブ諸国に力を借りイスラエルへと乗り込みます。これが第一次中東戦争です。この時にエジプトが攻め込んだのが今の「ガザ地区」。そして、ヨルダンが攻め込んだのが「ヨルダン西岸地区」です。現在のパレスチナ自治区とされている場所です。

この戦争はアメリカの支援もありイスラエルが勝利することになります。
第一次中東戦争によってパレスチナの大部分はイスラエルが獲得しますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラムの聖地とみなされているエルサレムの旧市街を含めた東エルサレムはヨルダンが支配していたため、エルサレム旧市街における嘆きの壁においてユダヤ教の祈りを捧げることが不可能であったため、正統派ユダヤ教徒を中心に不満が高まっていきました。
では、もともとパレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)はどうなったか?国連の分割案ではパレスチナ人の領土となるはずだった場所もイスラエルが領土拡大で持っていき。ガザ地区はエジプトがちゃっかり支配。ヨルダン川西岸地区はヨルダンが占領することとなります。踏んだり蹴ったりです。

しかし、このガザ地区、ヨルダン川西岸地区も1967年の戦闘(第三次中東戦争)によりイスラエルに占領されることになります。ヨルダンは聖地東エルサレムを奪われ、国家の威信が揺らぎます。

このイスラエル占領から20年後の1987年。ガザ地区、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人の青年たちが立ち上がる出来事が起きました。彼らは武装したイスラエル軍に対してなんと石を投げて戦ったんです。「そんなの勝てるわけないじゃん!」って普通は思いますよね。しかし、そうでもありませんでした。彼らの映像が世界中に流れ同情が集まることになるんです。そして、1993年にパレスチナ暫定自治協定というのが結ばれます。

ガザ地区、ヨルダン川西岸地区からイスラエル軍は出て行きなさい!という命令です。しかし、ユダヤ人からは当然のように反発の声も上がり調印したイスラエル首相ラビンは暗殺されてしまいます。

その後、イスラエル軍とユダヤ人の多くははガザ地区からは出て行くことになりますが、ヨルダン川西岸地区では、現在でもユダヤ人の人口は増えている傾向にあります。

以上がイスラエル建国の大まかな流れになります。

イスラエルはユダヤ教徒にとっては常に「約束の地」であり続け、数千年の時を経てようやく建国することができた国家でもあるんです。
ともあれ、ユダヤ民族は不思議な民族です。紀元前1020年イスラエル王国を建国し、王国分裂後の紀元前586年に国を失い、1948年に2600年ぶりにイスラエル国として、イスラエル王国と同じ場所に忽然と復活させた。その強さは・・・探ってみたいものです。 

 

 

入国審査。。。

悪夢のような・・・混雑ですく(""0"")>なんてこった!! 
また、人のキョーイクがなってない?? 割り込み割り込 ヒドイヒドイ 
きっと私たちはルールの節度のないとこでは、ずっと後回し(泣)
結局、ひとりの人のスーツケースがずっと出てこなくて(すごく不安になるよー)この国境を越えるだけで3時間かかりました・・・ 

入国できたのはすっかり、夜!
もう少し早く入れたら、チラホラ市内見学できたけどもうすぐホテルに入って夜ごはん食べて。。。おやすみぃー
(夜もしっかり食べちゃう・・・) 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol9

2015-02-03 | 海外旅行

最後の??のグラビア?? リゾートなんでねー 少々寒くても負けません(サムっ)

死海リゾートは・・・旅の初日に設定してほしいです。。。
日本出発する前は、もうちょっとスッキリしてたんですよ・・・4日目で・・・たいぶ・・・もったりしてしまいましたぁ`s(・'・;) ...
わかってたんですけどね。。。
目の前にあるご馳走がね・・・ 食べちゃったんです!

ところで、ビーチ!人あんまりいません。この時期、海も荒れて荒れて。。。
すんごい白波たってますやん。

添乗員さんに---「とりあえず・・・リゾートっぽい感じで撮っておきます」ってゆってわざとらしくしました(;^◇^;)ゝ  

泡・泡ですわー 初死海 感激の・・・

後は・・・荒波に負けずつっぱしる。。。思い切っていかないと・・・すぐ打ち寄せられるんで2回目のトライです。

打ち寄せる波の高さ。。。わかります??(泣) もがきながらも・・・
『浮いたっ!』 ホントに浮くんだ!!! 不思議な感覚で・・・
でも、束の間
どんどんどんどん、流されて---(助けてぇ・・)心の叫び。。。

救出!! 屈強なお兄さんが救ってくれます。 少々もがきまして(泣)
海水が目に入って。。。しみます(泣)おまけに我に返り・・・寒い!!(ブルブル) 

急いで持ってきてたペットボトルの水で目を洗い。。。気持ちを立て直して次のミッション!

浮いた次は、泥遊びでしょ?? ヌルヌルヌルヌル(^O^)

背中とかも塗りっこして。。。まっくろ! 私非常に顔中攻めた塗り方をしまして・・・
キャピキャピ(死語?)キャピキャピ めっちゃ楽しかったぁ♪♪♪ 
しばらくおいて、浸透させると良いらしいんですが・・・なんせ サムっ!
記念撮影だけして、満喫ムードを楽しんで。。。再び海へ 落とします。

仲良く、落としあいっこしてキレイキレイ。。。

2つのミッションが終わると、完全に我に返り・・・あとはもう、、、濡れた体が寒いだけ。暖かいシャワールームへ一目散。
今日の日記は「死海で浮いた。ドロ塗った」です。ハイ。

お昼はホテルのレストランでね。
もうグラビア撮影!?も終わったんで、よりいっぱい食べちゃうもんね♪♪ モリモリ
スィーツ・・・すんごいよー パンナコッタって書いてあったけど、スプーンが刺さらない強度””(^_^;)
日本のスィーツの会社が進出したら革命が起こるね!! 


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol8

2015-02-02 | 海外旅行

おはよ!って朝ごはんです。。。もう食べたいものが決定的に決まっていて(^▽^;)
デーツです!デーツ・・・しこたま食べたい!! クリームチーズとの相性すごいおいし~
冬眠前のクマのように食べてます・・・

デーツが食べられない 生活に。。。戻りたくないo(TヘTo)  くらいの・・・
そんでもって、今朝から死海へ! 

ヨルダンとイスラエルにまたがる塩湖。6つの川が入っていますが出口がなく、蒸発によって濃度が33%にも。エステティックの聖地でもあります!

バスで移動中のトイレ休憩のお土産屋さんです。魅力的な民芸品がたくさん。何一つ買いませんが(・・。)ゞ テヘ

一体化していますか??ウフ! マネキンっぽく在らぬ方を向いて半ワライ。。。
ふざけてるけど・・・ツアーの人、「いいなーやっとこ」って3人マネしてやってましたよ------(みんな悪ノリしたいんやん(^.^)

マネキンしておもしろがってたら、お店のスタッフも・・・おもしろい子いるなーって感じで・・・
「ハイ! 帽子だよ!帽子だよ かぶってごらん」って(だいたいこんな感じ) 
そ??ってかぶってみて。
そしたら・・・「違うよ!違うよ!これはポットカバーだよ」(笑)

そしたら次は・・・違うスタッフが
「巻いてやるよー巻いてやるよー」って!
次は・・・
「着せてやるよー着せてやるよー」って!
休憩の制限時間いっぱい、お店の人に遊んでもらいましたぁ❤❤ 楽しい時間でした!

ところで・・・連日の食べ過ぎで、顔パンパンになってるね(泣)

海抜がどんどん下がって気圧の変化でペットボトルがペコってなりましたー
耳もジ~ンってしています。

海抜ゼロ地点の確認図 世界で最も低い場所!だから、冬でもそこそこ暖かくて紫外線も届きにくいんだって!

 

記念写真撮るポイント!グヂグヂやんなー 世界でココだけの大看板やのに・・・

墓標みたいやなー

みんなの撮影タイム長かったんで、ドライバーさんとガイドさんと撮っとこっと♪

死海を楽しめるホテルにやってきましたー もうワクワクドキドキなんです。。。なんせ、絶対海に入るぞーって気合ですから。
今日の気温は25℃ ギリギリ入れるよね??

こちらの方では1月18日がXmasみたいで!サンタ健在。

さぁ~~タオル借りて--------いよいよビーチへ!!!


ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol7

2015-02-01 | 海外旅行

ペトラ、エルハズネ―エド・ディエルってみて、もう完璧! 下ってゆきま~す♪♪ 

 山登りんときもこんなのよくみかけます! 私も一石置きましたぁ~

 ツアーのみんなが、ワタシのポーズがおもしろいって❤
次々マネしてくれて・・・写真撮ってましたウフ!(でも、なんか違う!違うって、何度もやりなおしっこしてましたが(^▽^;) 

 

 

 こ~やって見上げてみると・・・すっごい岩肌! 写真でみるよりきちんと道になってるけどね。

 ウン??これはきりとったん??

 ワンコとロバの感じがよいな~って思って!
ところで、ふとこのワンコをみて思ったんですが、「まるめとる」と「まるまっとる」同じような形容をするけど、ニュアンスは全然違いますよね。背中をまるめる。はなんか物悲しい時だし、まるまっとるはなんだか、ヌクヌクしてる時とかしたい時。

王家の墓群 左から・・・

宮殿の墓 3層からなるファサードがローマの宮殿に似ているところから、この名前がつけられました。高さ46m以上、幅49m、紀元70年~106年に建造。

コリンシアンの墓 正面を飾る柱がコリント様式に削られていることから、この名前がつけられました。高さ28m、幅27.5m、紀元40年~70年?に建造されました。この墓、よく見ると形がエル・ハズネに似ています。
私のお墓がギリシャ風オーダーなら・・・ドーリス式?=重厚(図書館のイメージ) イオニア式?=軽妙(銭湯のイメージ…なぜか…渦巻きが)
やっぱコリント式?=華麗
コリントのアカンサスの葉はギリシアの国花でコリントの乙女のお墓に置かれた籠の下から生えだしたアカンサスをみて考案されたとかです。幾重にも織りなす葉っぱのモチーフがとっても優美ですよね!


シルクの墓 正面を飾る波打つ模様が特徴です。

アーンの墓 上部に壺(アーン)のような飾りがあることから、この名前がつけられました。ローマ時代には、アル・マハカマ(正義の法廷:裁判所)とも呼ばれていました。その後、ビザンチン時代には教会として使用されていたようです。高さ26m、幅16.5m、紀元前9年~紀元40年に建造。

数ある遺跡の中でも発想が逆なのがおもしろいですよね!石を積み上げてじゃなくて、岩をくりぬいてって!それを地下じゃくて地上でだよ!逆転の発想ってことだよね。
こんな柔軟な考え方してそれをホンキでつくって2000年後の後輩(現代人)をも驚かせるって!!
さよなら・・・ペトラ ありがと♪♪ 

 ペトラは1985年 ユネスコ世界遺産に登録されました!また2007年、「新・世界七不思議」にも輝く 世界の宝です。

 しっかり歩いて、夜ごはん。。。
ひよこ豆のフムスにはまってます!

おやすみぃ~