頂きましたぁ♪♪
東京のお土産 「バナナゴーフル」 パリってしてておいしいーバナナの香りがグゥゥ~ンと迫ってきますw(n_n)w
「追憶の飴」福山雅治のコンサート!前から3列目だったそうです(^^)v
横浜中華街「あい・ぱんだ」クリスマス島のお塩を使ったちょこっと豪華なアーモンドクッキー(#^.^#)
ご当地「シェルレーヌ」定番のおいしさ!(^^)!
みなさんありがとー!!
頂きましたぁ♪♪
東京のお土産 「バナナゴーフル」 パリってしてておいしいーバナナの香りがグゥゥ~ンと迫ってきますw(n_n)w
「追憶の飴」福山雅治のコンサート!前から3列目だったそうです(^^)v
横浜中華街「あい・ぱんだ」クリスマス島のお塩を使ったちょこっと豪華なアーモンドクッキー(#^.^#)
ご当地「シェルレーヌ」定番のおいしさ!(^^)!
みなさんありがとー!!
神宮バラ園がみごろということで、出かけました!
おかげ横丁も久しぶりっ。風の市で風鈴の音が軽やか。
すっごい暑さで・・・こんにゃくレモン水でやる気を注入ー シャキッとスッキリ!
伊勢なでしこは…やっぱり妙なお花です。元気なんだかしおれてるんだか??
神宮会館へ到着ぅ!
室内の展示場には各受賞作品が。
お庭にでるとー
どれも素敵なバラが咲き誇っています。
つぼみのは「しのぶれど」という日本のバラです。
「しのぶれど色にでにけりわが恋は…」からとったんでしょうか~ ナイーブな恋心をしのばす可憐なバラです(#^.^#)
今回のお菓子は「粽」です。
粽には「難をさけるという意味があるそうです」
現在は笹の葉っぱで巻くことが多いようですが、もともとは茅(ちがや)で巻いたことから「茅巻き」といったそうです。
5月5日に粽をつくる風習は中国の楚の国に起こったものとされています。
時は中国の春秋戦国時代、諸国が覇権を争う動乱の時期です。
詩人でもあり政治家でもあった屈原は、敵国の智謀者に踊らされようとする王様に助言をします。
ところが…そのことが王様の逆鱗に触れ…政界から追われ島流しに。
楚の将来に絶望した屈原は自ら河へ身を投げます…
そのことを哀れに思った村人たちは、屈原が身を投げた5月5日にその霊を慰めるために、ちまきを作って河に捧げます。
これが、始まりだといわれます。
しかし…ある村人が河で屈原の幽霊に会います。
幽霊はこう言います。
「毎年お供えを捧げてくれるのはありがたいが、残念なことに私の手元に届く前に、悪い龍に盗まれてしまう。だから、今度からは悪い龍が手出しできないよう、にセンダンの葉で巻いて五色の糸でしばってほしい」
それ以降、お供え物は無事に屈原の元に届くようになりました!
屈原の故事から生まれた節句。そして日本へ端午の節句行事とともに広がり、子供に災いが降りかからないようにとの願いから、5月5日に粽を食べる風習が生まれたそうです。
今回の浅沼先生の講座は「人類とお茶の出会い」です。
1 神農という古代(B.C.2780)の王様。はじめて農耕を教えたことがらこの名がついたとか。
また、火をあやつった(松明)ことから炎帝神農とも。
いろんな“草”を食べて漢方をつくったので医薬の祖といわれています。
100種類の草を食べたけど、その内の72種類は…おかしい…(毒!?)
そんなようなこと、草の効き目などを「食紀」というものに記しますが、その中にこういう一文があるそうです…
「お茶を久しく服すると、元気になるよ」と。
さて、当時の“お茶の服し方”は??
神農は山里を歩き草を食するとき、1本の枝をいつも持って歩いたそうです。
食べた草の内、72はおかしかったといわれますが、“おかしい??”と思った草を食べた時は、毒消しとしてこの枝を噛んだそうです。
そう、この枝こそがお茶の木だったのです。
お茶と人類のスタートは、食したことが始まり。こういう形で人とお茶は出会いました。
2 次に出てくる文献は、四川の王褒が記した、奴隷との間で交される契約文『僮約(どうやく)』の中に。(B.C.59年)
「茶を煮る道具を整頓すること」・「武陽で茶を買うこと」とあります。
これよって、当時「茶は煮るもの」「茶は商品」この二つがわかります。
すでに中国では一般的な人もお茶を飲んでいたことがうかがい知れます。
この王褒が奴隷をひとり雇ってこの契約文を記す過程が少しおもしろいんです。
ある日、王褒が旅に出ます。出先の宿で一泊しますが、夕飯にお酒がありません。
宿にはビンリョウという使用人がおり、王褒はそのビンリョウに向かってこう言います。
「酒を買ってこい」すると、ビンリョウからは思わぬ返事が…
「私は墓守としてここで雇ってもらっています。だから酒を買いに行くのは仕事ではありません。しかも私の主人はあなたではない(だからあなたのいうことなんか聞けません」
こういわれて、王褒はどう思ったのでしょうか…
想像するだけでもおもしろいです!
きっとカチンときたのでしょう。
なんと、1万5千銭(今ではいくらに該当するかわかりませんが、きっと大金)をだして、この宿屋の主人からビンリョウを譲ってもらいます。
そして、このビンリョウに朝から晩までする仕事を100(細かいっ!)書いて渡すのです。
その内の二つが、このお茶にまつわる記載でした。
3 達磨大師(5C)とお茶
インドの王子として生まれて中国に渡り、禅の開祖。
なんと9年間壁に向かって座禅修行(面壁座禅)を……「ありえへん^^; 伝説??」
・足が腐る まぁこれは良しとする(!?)
・眠くてしょうがなくなる→なぜ眠くなるのか・・・
まぶたが下に落ちるから…であれば→まぶたを取ってしまえ!(マジっ!?)
そうやって、まぶたを切り取ってしまいます。そしてその切り取ったまぶたを握りしめ~~ぶち捨てます!
すると、どうでしょうーそこから芽が出てきます。(先生は目やから芽や、と笑わせてくれてました^^;)
その芽から葉っぱが生えて、その葉を食べたら、またぱっと目が開いて目が覚めた!と。
この葉がお茶というわけ。
こんな伝説から「禅僧の人はお茶を飲んで目を覚ます」→禅とお茶の関係ができたそうです。
お茶とお湯を仏壇に供えて一緒に飲み、仏と一緒になることを願うことが始まりました。
茶湯→茶の湯→茶道。
4 「茶経」による茶の煮立て方 8C、陸羽によって書かれた書物。
「風炉に釜をかけて、よい水を選んで煮立てて、塩味を加えなさい」
当時は団茶といって、お茶を蒸して団子にしてあり、使う時に火であぶって削って粉にします。
それを釜の中に入れて煮沸する(なおかつ香辛料的なものも入れてたんですねー)
本場、中国ではこんな感じ。では、日本では??
聖武天皇が729年に100人くらいのお坊さんを呼んで行茶の儀式を行ったとう記録があります。
また、東大寺要録の中には行基が諸国を行脚するさい「茶を植えた」ということが記してあるそうです。
815年には、当時遣唐使だった永忠という僧が(おそらく自分が中国から持って帰った茶の実を育てそれを)嵯峨天皇に献茶。
(滋賀県の比叡山のふもとには天然記念物の木があるそうです)
この時嵯峨天皇は永忠の立てたお茶を最後まで飲み干さず、お茶碗を永忠に与えます。与えられた永忠はそれを袱紗で受け取ったとか。
このころから袱紗が登場するんですねー
・・・今回も興味深いお話がいっぱいであっという間の1時間半でしたぁ!!
来月も楽しみです(^^)v
三重県での雪組公演です!
プーシキンの「大尉の娘」をモチーフにした作品。
ロシア帝国、エカテリーナⅡ世の圧政の下、コサック民族が起こした反乱。
その史実を背景に、その動乱に巻き込まれた貴族の将校ニコライと大尉の娘マーシャの純愛。
そして、コサックの首領プガチョフをニコライの立場を超えた友情の物語。
役柄のせいか・・・将校のニコライよりもコサックのプガチョフの方がステキだった!
貴族の将校は…ただ動乱に巻き込まれて右往左往してるだけ…
友情っていっても、プガチョフに助けられてばっかりやんかー ムリがあるわーって思いました^^;
久しぶりの宝塚です!
三重県総合文化センターは音響悪すぎぃ~~
セリフがこもって、何!???って感じだよぉ…
言ってることがわかんない。。。
やっぱり、大劇場(宝塚)まで行かないと…なぁ…って思ったのでした。