いったりきたり

いつも通りの日をまじめに過ごしながらにっこりしたりきゅんと身にしみたり

ヨルダン・イスラエル・ドバイ Vol17

2015-02-11 | 海外旅行

狭いスークの中をすり抜けすり抜け・・・もう・・・情緒・・・どっかいった??

第8ステーション 聖ハランボス・ギリシア聖教会 イエスがエルサレムの娘たちに泣くなと語った場所です。
エルサレムの娘たちに「私のために泣くな、自分たち、また自分の子供たちのために泣くがよい」と語った場所です。ギリシア語で「勝利者。イエス」と刻まれています。

自分のためにこそ泣け

さて、シモンと同じように、引かれていくイエスに従ったと語られている人々、それが民衆と嘆き悲しむ婦人たちです。
民衆は、自分たちが十字架につけろと要求したイエスの最後を見届けようとしてついて来たのです。

しかしその中に、嘆き悲しむ婦人たちがいました。この婦人たちに、こう語りました。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と。

彼女らは十字架につけられるために引かれていくイエスのために嘆き悲しみ、泣いていたのです。
しかしイエスは、あなたがたが本当に嘆き悲しみ、泣かなければならないのは私の苦しみや死ではない、あなたがた自身と子孫たちのためにこそ、嘆き悲しみ、泣くべきなのだ、と。

なぜならば、人々が「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るからです。
イスラエルの女性たちにとって、子供を産み、育てることができることは神様の祝福の印でした。

逆に子供が与えられないことは嘆き悲しみの原因だったのです。だから「子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は不幸だ」というのが通常の感覚なのです。ところが、それらの人々の方が幸いだ、と言う日が来る、それは、こういうことです。

「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである」。
つまり神様の怒りによる裁きの日には大きな苦しみが襲う、その時には、子供をかかえている人の方がより大きな苦しみを負うことになる、ということです。

来るべく裁きの日を見つめての言葉です。

神様の裁きが下る時には、山や丘が自分の上に崩れてきて生き埋めにされてしまう方がまだましだと思うような苦しみが襲う、と言っているのです。
「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」という言葉はちょっと難しいですが、おそらく「生の木」とはイエスのことで、私でさえこのような十字架の苦しみを受けなければならないなら、「枯れた木」であるあなたがたにはいったいどんな災いが下るだろうか、ということを言っているのでしょう。

神様の裁きの日が来たら、罪人である私たちと私たちの子供たちはどんなに厳しい裁きを受けなければならないか、そのことを見つめ、そのためにこそ嘆き悲しみ、泣け、と言っているのです。

つまりこの婦人たちに言ったのは、あなたたちが本当になすべきことは、私の苦しみと死に同情して嘆き悲しみ涙を流すことではなくて、あなたたち自身の罪と、それに対する神様の怒り、裁きに恐れ、その罪を悔い改め、神様に赦しを求めることなのだ。ということです。

私への同情の涙ではなく、悔い改めの涙をこそ流せ、ということです。
「なんとひどい目に遭われたのか」と同情するべきものではないし、この世の権力者たちが十字架につけてこのような苦しみを与えた、憎きことだと憤ることでもなく、自分自身の罪をこそ、そこに見つめるべきものだと言っています。

ともあれ、その予言通りか、66年のユダヤ戦争によって、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿は火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落します。第二神殿が破壊され、「嘆きの壁」=「西壁」だけが残ることなり、ユダヤ人の世界への流浪が本格的に始まってしまったのです。

この場所はゴルゴダの丘に非常に近いのですが、教会に進路を塞がれているため、第9ステーションに向かうには一旦スークへ戻る必要があります。
またも、キョロキョロとスーク内です。写真で狭さ伝わってますか??
味気なさそうなお菓子が実は大好きで…食べてみたかったです! 

地上に上がって!第9ステーションめざします!