神社の世紀

 神社空間のブログ

伊吹山の神は誰ですか(5)

2014年06月30日 21時19分08秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(4)」のつづき


現地の看板

 ところで、米原市が立てた看板には、白清水は「古くから、白清水または玉の井と呼ばれています。」とある。白清水が「玉の井」とも呼ばれていたというのは、おそらく『近江輿地志略』の記事に基づいて言っているのだろう。しかし、この有名な地誌が白清水のことを「玉井」という見出しで取り上げているのは確かだが、そこには「土俗専ら白清水といふ。」とあり、土地の人はもっぱら白清水と呼んでいたことが述べられている。 つまり、もともとそんな別名はなかったのだ


『近江輿地志略』の玉井の見出し
「野瀬野ケ原にあり。土俗専ら白清水といふ。然れども…」

 ではどうして『近江輿地志略』は白清水のことを「玉井」の見出しで記載したかというと、そこには「土地の人はもっぱら白清水と呼んでいるが、『類字名寄』には〝玉井〟とあり、これを裏書きする歌も多いので〝玉井〟の名を出す。」というようなことが書いてある。『類字名寄』は『大名寄』の異名もある『類字名所和歌集』のことだと思うので、白清水の別名が「玉井」であるというのはどうやら古歌による考証に基づいているらしい。ところが不思議なことに、白清水を詠んだ古歌などいくら捜しても見当たらないのである。近江で古歌に歌われた「玉井」といえば、『近江国注進風土記』にあげられた栗太郡の「玉井」ぐらいなので、おそらくそれとの混同らしい。 

 『近江国注進風土記』は、『山槐記』の元暦元年(1184)九月十五日条に所収されている文献で、近江国の国司が同国の名勝を朝廷に注進したものである。取り上げられている場所は、野洲郡の「三上山」、浅井郡の「朝日里」、甲賀郡の「蔵部山」などのように、古歌に歌われている場所が多い。栗太郡の「玉井」の場合も、天仁元年(1108)11月21日の鳥羽院大嘗会悠紀方和歌に「むすぶ手も涼しかりけり月かげに底さへ見ゆる玉の井の水」がある(江帥集)。 

 それはともかく白清水がある坂田郡は湖北地方で、玉井がある栗太郡は湖南地方である。普通では考えられないこんな混同が、どうして定評ある『近江輿地志略』でおきたのか?、── この疑いは一考の価値がある。 

 まず考えられるのは、次のようなことではないか。
 白清水には小栗判官照手姫のそれだけではなく、伊吹山の神に害されたヤマトタケル尊が、その水によって正気にもどったという「居醒めの清水」伝説も伝えられていた(このことはすでに述べた。)。ところで『古事記』には、居醒めの清水がもともと「玉倉部の清水」と呼ばれていたが、ヤマトタケル尊がこの泉の水で正気にもどったため、「居醒めの清水」と呼ばれるようになったというようなことが書いてある。したがって、白清水が本当に「居醒めの清水」であったか、あるいはそうでなくてともそれに附会されたかした場合は、過去に「玉倉部の清水」と呼ばれた時期があったかもしれない。ここから、「玉」という語を介した連想により、玉井と白清水が混同された可能性が考えられよう。 

 しかしそれだけでは(もし今の憶測が当たっていたとしても)動機としてまだ弱い感じがする。
 そこで栗太郡の玉井にも、白清水のような「生命の水」の信仰があったのではないか、と考えてみた。もしそうだとすれば、玉井にも小栗判官照手姫と似たような再生譚が残っていておかしくないため、両者の混同が生じやすくなるからである。そこでこの泉にそのような「生命の水」の信仰の名残と見なせる伝承なり神社なりがないか検討してみる。 

 まず玉井のあった場所だが、角川のほうの地名辞書は不明としているものの、平凡社の『日本歴史地名大系』のほうは、草津市を流れる十禅寺川近くの小池のことと言われている、と述べている。 

 十禅寺川は立命館大学のびわこ・くさつキャンパスの裏にある牟礼山付近に発し、西流して草津市野路町などを流れながら矢橋で琵琶湖に注ぐ小河川である。その延長はせいぜい5~6km程度だが、やはり『日本歴史地名大系』によれば、「千載集」に載る源俊頼の「あすもこむ野ぢの玉川はぎこえて色なる浪に月やどりけり」をはじめ、平安時代以来、多くの歌に詠まれた「野路の玉川」は十禅寺川のことで、萩の名所として「萩の玉川」とも称されたという。その優美な風情から「日本六玉川」の一つに数えられたこともあったが、現在では流域に新幹線、JR東海道本線、名神高速、国道1号線のような幹線交通が集中し、往事の面影は完全に消え失せている。


東海道ふきんを流れる十禅寺川
かつて「日本六玉川」の一っに挙げられていた


「日本六玉川」の紹介がある看板

 さて、かつて十禅寺川と旧・東海道の交点ふきんには、この川の伏流水が湧き出してできた小池があり、『近江輿地志略』などではこの小池のことが「玉水」と呼ばれていた(現在でもふきんに「玉水」の字が残るという。)。この池は往還の名所として東海道を行く旅人たちによく知られていたものの、今では消滅したようだ。しかし、現地を訪れると箱庭のようなこの池が復元してある。


復元された「玉井」?
旧東海道と十禅寺川の交点近くにある
Mapion

 なお、そこで見かけた看板や角川のほうの地名辞書では、「野路の玉川」とは十禅寺川ではなくこの池のほうであるとしており、『日本歴史地名大系』の記述と異なっている。


現地の看板
「野路の玉川」はこの池のことであるとしている


現地の石標
古そうな石標にも「玉川」とあるが  …

 しかし、「玉川」と言うからには池ではなく川だろう。また今、言ったように享保八年(1723)の『近江輿地志略』ではこの池のことが「玉水」として紹介され、「玉川」にはなっていない。そこでここでは、『日本歴史地名大系』にしたがい「玉川」とは十禅寺川のことであるとして話を進める。

 そのいっぽう、さっき『日本歴史地名大系』で「玉井と言われている」として紹介した「十禅寺川近くの小池」というのはおそらくこの池を指していると思う。その場合、近世まで「玉水」と呼ばれていたことや、かつては景勝地として有名だったことなどを勘案し、この池を『近江国注進風土記』の言う栗太郡の「玉井」とする比定は穏当だとおもう。ということで今後はこの池を「玉井」として話をすすめる

 

伊吹山の神は誰ですか(6)」につづく

 

 

 


伊吹山の神は誰ですか(4)

2014年05月25日 14時33分40秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神はだれですか(3)」のつづき

  米原市柏原にある白清水もまた、かつてはそのような息長氏出身の巫女たちにより、穀霊を蘇生させる祭儀の行われる場であったかもしれない。 

 この泉は旧・中山道の宿場町であった柏原の集落近くにあり、現在ではだいぶ水量が減っている感じだが、石など組んで整備されている。伊吹山麓の名水の例にもれず、ここにも伊吹山の神に害されたヤマトタケル尊が、この泉の水で正気に戻ったという「居醒めの清水」伝承があるが、より注意をひくのは小栗判官照手姫の説話もここに伝えられていることのほうである。


白清水
Mapion


同上
 


解説
 


野瀬山
画像中央の山麓あたりに白清水がある

 伝説によれば業病にかかった小栗判官を紀伊熊野本宮で湯治させるため、小栗の車をひいた照手姫がこの地に立ち寄ったといい、彼女が化粧の白粉を谷の水に流したので白清水と名付けられ、白清水のある谷は狂女谷と呼ばれたという(照手姫は狂女となって車を引いていた。)。また、近くには照手笠地蔵を本尊とする蘇生寺笠地蔵があり、寺院のほうは廃寺となったが石地蔵のほうは現在も残っている。この地蔵は照手姫が笠を脱ぎかけて小栗の病気平癒を祈願し、霊験を得たと伝えられるもので、その時、照手姫は「住みはてぬ浮世は牛の小車に野瀬野の清水いかに濁らむ」と詠んだという。


照手笠地蔵

 それにしてもどうして小栗判官と照手姫の伝承がこの地に残っているのだろうか。いちおう照手姫は美濃の大垣青墓の宿で小栗判官と再会してから、小栗の車を引いて大津まで行くので、その時に中山道の宿場町である柏原を通過する。したがって彼らの伝承がここに伝わっていることじたいはおかしくない(当地に限らず、小栗判官・照手姫の伝承は、説話の中で彼らの通過した街道沿いに残っていることが多い。)。しかし柏原いったいには、白清水のほかにも狂女谷や照手笠地蔵を本尊とする蘇生寺など、照手姫にちなんだ地名や寺院、なかんずく彼女が詠んだとされる歌さえも伝承されており、照手姫と白清水の結びつきのかなり強いことを感じさせる。しかもこれらの伝承群では、照手姫の事跡ばかりが伝わるいっぽう、小栗判官の存在感がきわめて薄い。なぜだろう(業病で死にかけていた小栗判官の影が薄いのは当然と言えば当然だが)。 

 手っ取り早く結論を言うと、古代の白清水は生の更新をもたらす「生命の水」として信仰を受けおり、秋になって伊吹山の神に殺害された穀霊神を、田植えの時期に蘇生させる祭儀がこの水で行われていたのだと思う。ちなみに、この水が「生命の水」とされたのは、白濁していることが母乳を連想させたからではなかったか。『古事記』でも八十神の迫害によって命を落したオオオクニヌシ神を、キサガイ姫とウムギ姫が「母の乳汁」による治療で蘇生させている。いずれにせよ、そのような再生儀礼を執り行っていたのは、この地域に居住した古代豪族、息長氏出身の巫女たちであった。


白清水の水
私が訪れたときは確認できなかったが
照手姫が化粧の白粉を落としたという伝承からいって
かつては白濁していたと思われる

 こうした水の呪能をもつ息長氏出身の霊能力者の女性たちはとても神秘的で強烈な存在だった。このため、こうした祭祀が途絶えてからもその記憶は土地に残り続け、中世期になって照手姫の物語と習合した。これは「水と女性を介した再生」という祭祀の構造が、そのまま小栗判官照手姫のストーリーと一致したからで(この説話は地獄から地上界に戻されたとき業病を得た小栗判官が、照手姫の先導で紀伊熊野本宮の湯=「生命の水」で湯治して全快するという筋書きだ。)、それが呼び水となり両者は通底をおこした。 

 記紀にあるヤマトタケル尊を正気に戻させた「居醒めの清水」伝承からは、こうした息長氏の巫女たちのことが伝わってこない。たぶん、この英雄伝説のストーリーには彼女らのことを習合させる余地がないためだろう。尊はミヤズ姫を尾張に置いて伊吹山に来たが、仮に姫を連れてきたという設定になっていれば、あるいはミヤズ姫の形姿の中にこうした巫女たちの記憶が投影されていたかもしれない(例えば、伊吹山の神に害されたヤマトタケル尊が山麓にたどり着くと、ミヤズ姫が居寝の清水の水を汲み、それを浴びた尊はやっと正気にかえった等々。)。それはともかく、白清水の場合はたまたま中山道の宿場町に近い場所にあったため、小栗判官照手姫の説話が彼女らの記憶と習合し、照手姫のイメージのなかにそれが救われたと考える


中山道沿いの柏原の集落
今でも宿場町だったかつての趣が町並みに残っている

 

伊吹山の神は誰ですか(5)」につづく

 

 

 


かむとけの木から(6)【船材伐るトブサ立て】

2013年05月07日 21時00分00秒 | 船木氏

★「かむとけの木から(5)」のつづき 

 伊勢の船木直には、小子部連の始祖伝承と似たようなそれ(雷神との神婚で生まれた英雄が、やがてその一族の始祖となるといった伝承)があったとして話をすすめる。

 小子部連の場合、そのような伝承は、雷神(=おそらく三輪山の神)の後裔であることによって、彼らの一族に雷神を制御する呪能があることを説明するものでもあった。とすれば、伊勢の船木直も同じような呪能をもつとされていたのではないか。

 しかし、船材を出す杣山の管理を職掌していた彼らに、どうして雷神を制御する呪能が必要だったのだろう。

 古代人は樹木に精霊がやどるというアニミズムの信仰をもっていた。「木魂=コダマ」信仰である。ところでコダマは必ずしも木が伐り倒された時点で死滅するとはかぎらなかった。キチンとした作法にしたがって伐られた樹木のコダマは、材木になってからもその中にやどりつづけ、それをつかって建てられた家や船を守護するものとされたからである。たとえば船材になった樹木のコダマは、船玉となって航海の安全を守護するとされた。こうした信仰の痕跡は各地のフォークロアに多く残っている。

 いっぽう、宮殿や神殿のような建物につかう大黒柱や忌柱、あるいは外洋航海を行うような大型船の帆柱の場合、それをとる樹木はたんに物理的に大きくて丈夫であるだけでは不じゅうぶんであった。そのような重要な建築物等の材として使用される木には、しばしば信仰の対象になるような神聖な樹木が選ばれたのである。そのような樹木のコダマは霊威が強いので、材木になってから建物や船を守る力もそれだけ強いと考えられたのだ。『類従国史』天長四年条にみられる、東寺の塔を造るために稲荷山の神木を伐って出した記事などはその一例であろう。

 しかしそのいっぽうで、神聖な樹木を伐ることにはたいへんなリスクがあった。そのような樹木にやどる精霊は非常に恐ろしい存在とされていたため、不用意にそれを伐り倒すと人間たちを祟ってもうれつな害をなすと考えられていたからである。杣人の間には現在でもこういう信仰が生きている。とある山間部を車で走っていた時、道のド真ん中に年ふりた、どことなく威厳のある巨木が立っていて、その木を島に、車線が両サイドを行き交うようになっているのに出くわしたことがある。近隣の人に理由を聞くと、あれは「天狗様の木」で、伐ると祟りがあるからどこの伐採業者に頼んでも手を出したがらない、仕方がないので道路も線形を犠牲にしてあんな格好になってしまった、とのことだった。こういう話はわりとどこにでもあり、さほど珍しいものではない。

 それはともかく、こうしたことから樹木を切り倒そうとする時、人間を祟らせないようにコダマを慰撫し、かつ、その強度が損なわれないままにその霊威を材木に固着し、その材で建造した家や船をつかって人間が行う活動を守護するようにする儀礼が重要となってくる。『万葉集』には次のような大伴家持の歌があるが、

 とぶさ立て 船材伐るといふ 能登の島山 今日みれば 木立繁しも 幾代神びぞ

ここに見られる「とぶさ立て」は杣人たちの間で行われたそうした儀礼であったらしい。

 船材をとる杣山の管理をまかされていた船木氏も、こうした儀礼にひいでていただろう。伊勢の船木直が、小子部連と同じく雷神を制御する呪能をもつとした先ほどの仮定はここに関係してくる。船木氏が管理したような杣山の木は普通の船ではなく、外洋航海に使用されるような比較的大型なそれに使われたらしい。それで建造された船は遠く半島まで航海するもので、外交や交易、そして海戦に使用されたろう。『住吉大社神代記』の船木氏等本記にも、神宮皇后が熊襲と新羅を討つとき、船木氏の遠祖、大田田命とその子の神田田命が杣山から木を伐って船を三艘、建造した記事がある。彼らが社人を務めていた住吉大社も新羅遠征と関係ぶかい由緒をもっており、こうした伝承から船木氏の杣山から出された木材は、しばしば軍船の建造に使用されたことがうかがえる。

 さて、そういう時、軍船に使用される木材をとる木として雷神がやどる木、つまり「霹靂の木」が選ばれたのではないか。つまり、そういう船材で建造された船は、船玉として雷のもうれつな破壊力がやどるので、海戦でつかうと一撃で敵軍を破れるという一種の類感呪術があったと考えるのである。

 海戦で使用される兵器の破壊力を雷にたとえた日本語の例は少なくない。例えば「魚雷」をつかって攻撃することを「雷撃」というし、駆逐艦などから水中の潜水艦に投下する爆薬は「爆雷」で、敵艦の通過しそうなところに敷設するのは「機雷」である。もちろん、「地雷」というのもあるが、そうじて「雷」のつく兵器は明らかに海戦でつかわれるケースのほうが多い。

 また、戦前の海軍が開発した戦闘機にも「雷電」「天雷」のように「雷」のつくものがある。やはり海軍の開発した「紫電」「轟電」「震電」といった戦闘機につく「電」も稲妻のことだろう。こうしたネーミングには、上で言ったような古代人の類感呪術の残響が聞き取れるのではないか(もっとも「雷」や「電」のつく戦闘機は艦載機ではなく、大戦末期に本土に襲来したB29等を迎撃するための、局地戦闘機として開発されたらしいが。)。


アメリカの博物館で保存されている旧日本海軍機の雷電
風防下の機体に塗装された稲妻が印象的だ
ウィキ様からのいただきもの

 そうして、伊勢の船木直が船材となる杣山の管理を職掌するようになったのも、彼ら一族が小子部連のように雷神の子孫とされ、この神を制御する呪能があるとおもわれていたからではないのか。つまり、軍船建造のための船材として雷神がやどる神聖な「霹靂の木」を伐り出す際の「とぶさ立て」に、彼らのこの呪能が必要とされたのだ。

 

「かむとけの木から(7)」へつづく

 

 


かむとけの木から(5)【伊勢の船木直】

2013年05月06日 09時00分00秒 | 船木氏

★「かむとけの木から(4)」のつづき

 ここであらためて、前回、何度か触れた『古事記』神武記の、神八井耳命を祖とする氏族のリストを引用する。

 「神八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥の石城国造、常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等之祖也」

 意富臣(=多氏)や小子部氏をはじめとした多くの氏族名が並んでいる。その中に「伊勢の船木直」という名前もみえる。伊勢にいた船木氏の一派だろうが、記紀や『新撰姓氏録』などには名前のみえない氏族だ。

 ただしちょっと寄り道すると、『住吉大社神代記』の「船木等本記」には、船木氏の遠祖、「大田田命」の子、「神田田命」の、そのまた子である「神背都比古命」が「富止比女乃命」を娶って「伊瀬川比古乃命(いせつひこのみこと)」を生んだとあり、この神が「伊西イセの船木に坐す」とある。これにしたがうと伊勢にいた船木氏の祖神はこの伊瀬川比古乃命だったことになりそうだ。

 してみると伊勢にいた船木氏には『古事記』神武記にある神八井耳命を祖とするものと、『住吉大社神代記』にある伊瀬川比古乃命を祖とするそれの、2つの系譜があったことになる。これについては伊勢に2系統の船木氏がいたとも、あるいは系図の混乱等により1系統の氏族に2つの系譜が伝えられるようになったとも解釈できるが、じっさいのところはよくわからない。しかし、より尊重されなければならないのはあくまで『古事記』神武記にあるほうの系譜だろう。『住吉大社神代記』よりも『古事記』のほうが上代古典としてはるかに権威があるし、しかも『古事記』は多氏出身の太安万侶が編纂しているのだから、この記事の信憑性はさらに高まる。

 その上、看過できないのが、伊勢国朝明郡に登載ある式内社の耳常神社と太神社である。この2つの神社は祭神として神八井耳命を祀っているが、近世まで船木直の子孫が社人として奉仕していた。こうしたことからも、神武記の記事には何らかの史実が反映していると感じざろうえない。


石部神社(三重県四日市市朝明町大字中里)
伊勢国朝明郡に登載ある式内社、太(おほ)神社が合祀されている
合祀前の太神社の祭神は神八井耳命だったが、
明治まで船木直の子孫が代々、社人として仕えていたという


耳常神社(三重県四日市市下之宮町)
伊勢国朝明郡に登載ある同名式内社の有力な論社
祭神は神八井耳命。太神社と同じく、
明治まで伊勢の船木直の子孫が代々、社人として仕えていた


祭神は神八井耳命


耳常神社々殿


同上
本殿の手前に生えた楠木が良い感じだ

楠は船材(ふなき)として古代に多用された樹木


同上

 さて、そうなると『日本書紀』推古天皇二十六年条の「河辺臣と霹靂の木」の記事と『日本霊異記』の「雷を捉へし縁」の説話が似ているのも、霹靂の木を切り倒そうとした河辺臣をいさめた人物が、伊勢の船木直の者であったとすれば説明がつくのではないか。
 伊勢の船木直は神八井耳命の子孫で小子部連と同族である。いっぽう、『日本霊異記』の作者、景戒はこの小子部連の末裔と言われ、「雷を捉へし縁」をはじめとした説話も、もともとこの古代氏族の間に伝わっていた始祖伝承に基づいているらしいことはすでにみた。その場合、同族であっただけに、伊勢の船木直の間にもその類話が伝わっていたと考えることができるのではないか。それが当時、国内で強まっていたナショナリズムの圧力を受けて伝承が改変されたと考える。

 しかし、そうなると広島にたんなる船木氏ではなく、伊勢の船木直がいたことになる。伊勢と広島ではかなり距離が離れているので、ちょっと不自然な気もする。しかし、理由はともあれ菅霹靂神社が鎮座する安芸国沼田群船木郷に伊勢とのつながりがあったことは確かなのだ。

 菅霹靂神社から南西に800mほどしか離れていない場所に霹靂神社という神社がある。この神社はかつて香具山太神宮と称していたが、明治45年に当時は霹靂神社という名前だった現在の菅霹靂神社が合祀され、社名を霹靂神社にあらためた。その後、この合祀されたほうの霹靂神社は復祀した。ところが復祀したほうの神社がほんらいの「霹靂神社」であったにもかかわらず、この際、旧名・香具山太神宮である霹靂神社と区別するために、小字名の「菅」をつけて菅霹靂神社という名前になったというやや込み入った経緯がある。

 それはともかく、この現・霹靂神社(旧名・香具山太神宮)は『安芸国神名帳』沼田郡の登載ある「伊勢香山神社 三位」に比定されるのだ。『安芸国神名帳』は平安後期の成立とされ、諸国の国内神名帳のなかでも古いほうの部類にはいる。そこに登載されているとなれば、なかなかの古社だろう。


霹靂神社
広島県三原市本郷町船木字中之谷2177に鎮座、「へきれき神社」
Mapion

『安芸国神名帳』沼田郡の登載ある「伊勢香山神社 三位」に比定される
祭神は火之迦具土神、天之水分神、久久能智神、河辺臣、
豊宇気毘売神、天照大神、天手力男命、須佐之男命
社伝によれば信亀二年(725)創建、正安三年(1301)に
土肥(小早川)氏が再建し、三十二石を付したという


二の鳥居前のスペース
社頭からの奥行きは深く、周囲にたっぷりスペースをとった参道がつづく
ただし古木は少なく、なんとなくガランとしている


霹靂神社々拝殿


霹靂神社々殿


霹靂神社本殿

 香具山(香山)といえば普通、大和三山の一である大和の天香具山のことを指す。ところが、伊勢香山神社の場合は社名に「伊勢」がついている。矛盾するようだが、さにあらず。『延喜式』神名帳の伊勢国多気郡に天香具山神社という神社の登載があって、霹靂神社は伊勢からこの神社を勧請したらしい。わざわざ社名に「伊勢」をつけたのも、大和の香具山と区別するためだったのだ。いずれにせよ、当社の存在は古代の船木郷に伊勢とのつながりがあったことを証言する。


天香具山神社
三重県松阪市市保津町817に鎮座、「あめ(orあま)のかぐやま神社」
Mapion
伊勢国多気郡の式内社、「天香山神社」の論社
かつて「耕作の宮」とか「高崎コウサキの宮」呼ばれていたが、
「耕作(こうさく)」は「香山(こうさむ)」の音転だとして
式内社に比定された経緯がある
祭神は八柱神、高嵜姫命、須佐之男命、伊邪那岐命


天香山神社拝殿


天香山神社々殿


八柱神社
三重県多気郡明和町上村地内に鎮座、「やはしら神社」
Mapion
御巫清直は「耕作の宮(=現・天香山神社)」を「式内・天香山神社」
とする上の考証を牽強附会と片付け、独自の調査の結果、
現在の明和町上村に「カゴ山」と称する小山があるのをみつけた
そしてふきんにあった八王子祠を式内・天香山神社に比定した
当社は上村の産土であったという
八王子祠は明治二年に八柱神社と改称したが、
その後、明和町斎宮にある竹神社に合祀された
現在の八柱神社は昭和45年になって、旧社地から西に50mほど離れた
かまくら古墳という古墳上に竹神社から分祀したものである
かつての八柱神社について清直は「千古ノ旧風ヲ存ス」と述べているが、
この貴重な旧社地は圃場整備事業にて失われた


八柱神社本殿


カゴ山?
『式内社調査報告』によれば現社地の南東約300mに、
標高30mほどの「カゴ山」という小山があるという
画像は社頭から南東の方角を撮影したもの

 

かむとけの木から(6)」につづく

 

 


かむとけの木から(4)【大和以前の大和の祭祀】

2013年05月04日 07時01分12秒 | 船木氏

★「かむとけの木から(3)」のつづき

 『常陸国風土記』那賀郡の「くれふしの山(「くれふし」の漢字は「●(「日」へんに「甫」)時臥」)」では、ヌカ姫の許に誰とも知れない男が訪ねてきて妻問いし、懐妊した彼女が生んだのは小さな蛇であった。しかし、その蛇がだんだん大きくなると家では養いきれなくなくなり、やがて伯父のヌカ彦は父神のいるところへ行くよう言い渡して、追い出してしまう。そこでこの蛇もまた昇天しようとするのだが、驚いた母の投げたヒラカが当たって「くれふし山」に留まった。昇天しようとした時の彼は雷撃によって伯父を殺しているため、彼とその父も雷神格だったとおもわれる。

 
朝房山遠景(中央奥で山頂だけ頭を出している)

朝房山は茨城県水戸市・笠間市などの境にある標高201mの山で、
『常陸国風土記』那賀郡条の「くれふし山」に比定される

 


朝房山々頂


朝房山々頂の石碑
通常の表記と異なり朝房山ではなく「浅房山」と彫られている


同じく山頂にある小祠
ヌカ姫とその子の蛇を祀ったものだろうか

 「くれふし山」の、誰とも知れない男が女の元を訪ねてくるというのは典型的な三輪山型の神婚説話であるまた、『山城国風土記』逸文「可茂の社」は丹塗り矢型の神婚説話だが、『古事記』には、川で用便中のセヤタダラ姫のもとに三輪山の神が丹塗り矢となって流下し、やがてヒメタタライスケヨリ姫が生まれるという同型の伝承がみられる。総じて、これら類縁性のある神婚話群を介してつながるのは男神の雷神格なのだ。 

 ここから推して、『日本霊異記』の「雷の憙を得て、生ましめし強力在りし縁」で落ちてきた雷神が、農夫に楠の木で水槽を作らせて天に昇っていったというのも、もともとは雷神との神婚で生まれた子が父を探して天に昇るという筋が古い形態だったとおもう。また、今は失われた子小子部氏の始祖伝承でも、主人公のスガルが父を探して三輪山にゆくという説話があったのであり、それが皇室神話に取り入れられる過程で、雄略天皇の勅命でこの山の神を捕らえにゆく形に改変されたようにおもわれる。 

 したがい、小子部氏は三輪山の大物主神の子孫という由緒をもつ、大和のたいへん古い土着豪族だったことになる。小子部連は『新撰姓氏録』左京皇別に「多朝臣同祖。神八井耳命之後也。」とあり、和泉国皇別にも神八井耳命が彼らの祖とある。『古事記』神武記の、神八井耳命を祖とする同系氏族が列挙してある箇所の記事によってもこのことは確かめられる。 

 『古事記』によれば神八井耳命は神武天皇の兄だが、自ら政治に向かないと悟って弟に皇位を譲り、神祇の祭祀をもっぱらとするようになったという。ただし記紀は彼が奉祭した神の名を明らかにしていない。いっぽう、志田淳一は系譜関係に着目し、『古事記』『先代旧事本紀』で神八井耳命を生んだことになっているイスケヨリ姫が、三輪山の大物主神の娘であったことなどから彼が奉祭したのはこの神とした(志田『古代氏族の性格と伝承』)。 

 ちょっと話がはずれるが、神八井耳命を始祖とする代表的な氏族は多(=意富)氏である。そして彼らの氏神は大和国十市郡の式内明神大社、多神社であった。この神社は三輪山々頂の真西に鎮座し、本殿は南面するものの、一ノ鳥居は東面してこの山の方向を向いている。飛鳥川の自然堤防上に鎮座する当社境内は弥生時代の遺跡として知られ、祭祀遺物なども出土しているようだ。おそらく非常に古くからこの場所で三輪山を祀っていた祭祀が当社の淵源であり、皇室の先祖が大和盆地に進入する前から多氏がその祭祀に携わっていたのだろう。あるいは彼らもまた、三輪山の神との神婚で始祖が生まれる伝承をもっていたのではないか。 


多神社

大和国十市郡の式内明神大社


多神社々殿


多神社遠景


多神社の一ノ鳥居から遠望する三輪山
春・秋分の日にはここから眺めた山頂ふきんで
日の出が観測されるという

 ちなみに、上記の「くれふし山」の伝承が伝わる常陸国那賀郡は、かつては那賀国という独立した国であったが、「常道(=常陸)仲(=那賀)国造」は『古事記』神武記の、上述した神八井耳命を祖とする同系氏族が列挙してある箇所で意富(=多)臣や小子部連と並んで名前があがっている。

 『延喜式』神名帳には那賀郡内の筆頭に大井神社という神社の登載があり、その祭神は初代那賀国造とされる建借馬命である。が、「大井」の「大」は、多(意富)氏の「おふ」とされ、当社の祭祀には多氏が関わっていたらしい(というか、建借馬命じたいが神八井耳命の子孫ではないかと言われる)。
 大井神社は「くれふし山」の真西に鎮座するが、このことは大和の多神社が三輪山々頂の真西に鎮座していることを強く思い出させる。大和岩雄は、「三輪山と朝房山(くれふし山)に同じ神人婚姻譚があり、多氏の神社と意富と称する村がその山の真東と真西にあり、この伝承が甕にかかわることなどの共通性は、単なる偶然の一致とはいえない。(『日本の神々11関東』大井神社の項p378)」と述べ、「くれふし山」につたわる三輪山型の神婚説話は多氏系の那賀国造が大和から持ち込んだ可能性を示唆している。多氏は三輪山の神との神婚で始祖が生まれる伝承をもっていたのではないか、という疑いはこうしたことからも強まるのだ。 


大井神社
常陸国那賀郡の式内社
水戸市飯富町に鎮座


同上
近世には徳川光圀が崇敬し、石段の奉納もあったというが、
古社らしいたたずまいはわりと希薄

 そうしてまた、『古事記』神武記にある神八井耳命を祖とする氏族の一覧は、三輪山の神の血統につらなる古い氏族というカテゴリーを分母に作成されことが示唆される。

 

かむとけの木から(5)」につづく