縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

『ジャックとその主人』

2008-03-11 23:11:16 | 芸術をひとかけら
 「これからどこへ行くかわかっている人間なんてどこにもいやしませんよ。そういうことはすべて天に書かれてるんだって。」と、運命論者のジャックは言う。

 物事を自分の意志で決めている、行っているように見えるかもしれないが、それは違う。すべて天に書かれている、決められたシナリオの通り進んでいるに過ぎないんだ。貴族であろうが、労働者であろうが、それは同じ。やっていることだって、所詮、同じ人間なんだから似たり寄ったりさ。皆、そのことに気付いていないから、恋をしては馬鹿なことを繰り返す。それは今も昔も変わらぬこと。そして、あなたも・・・・。
 この物語でジャックはこのように言いたかったのだろうか。

 先日、吉祥寺で『ジャックとその主人』という演劇を見た。『存在の耐えられない軽さ』で有名なミラン・クンデラが、ディドロの小説『運命論者ジャックとその主人』を戯曲化した作品である。演出は串田和美(かずよし)。俳優・演出家である串田が、昨年から同じく俳優・演出家である白井晃と組んで始めたプロジェクトの2つめの舞台である。昨年の『ヒステリア』は白井が演出し、今年は串田が演出した。今回、串田はジャック、白井はその主人の役を演じている。

 物語はジャックとその主人の恋愛話が軸に進むのだが、そこに宿屋の女主人の話が入ってきたり、脱線して、なかなか進まない。劇はメタ・シアター、つまり、劇中にさらに別の劇を含む構成になっており、時間や場所の一致もなく、話はあっちに行ったりこっちに行ったり迷走する。
 ジャックやその主人は、劇と劇中劇とを気ままに行き来している。彼らは役者であり、同時に観客でもある。そして本当の観客は私達。あるいは、私達も含め、皆、天上から眺められているのだろうか。私達がこの劇を見ることまで“すべて天に書かれている”のかもしれない。

 僕自身、運命論者かというと、必ずしもそうは思わない。自らの人生が既に“天に書かれている”とは思わない、いや、思いたくない。
 が、一方で、自分の力ではどうしようもないことがあるのは事実だと思う。小さい頃、僕は何度か転校したが、よく隣りに座っているクラスメートを見て、何故こいつが横にいるのだろう、と考えたことがある。ちょっと前までは見ず知らずの人間だったわけだし、そもそも親の転勤がなければこの町、この学校に来ることもなかっただろう。と思うと、とても不思議な感じがした。それこそ、隣りが可愛い女の子だったりすると、あぁ、これが運命なんだろうか、と思ったこともある。ん、待てよ、これぞ運命論、神の御力を信じるということか?

 運命論者というと、どこか哲学的に聞こえるが、ジャックやその主人、それに自分も含めて考えると、単におバカで単純な男のことを言うのかもしれない。

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