縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

ヘッセ、『デミアン』  ~  自己による自己の追求 ~

2008-03-20 18:06:59 | 芸術をひとかけら
 早いものでというか、漸くというか、このブログは今日で200回を迎えた。始めてから2年と1ヶ月。初めのうちは毎日書いていたが、次第にご無沙汰が多くなってしまった。が、続いていることは事実だ。細々ではあるが、書き続けている。そして、これからも書いて行きたい。

 さて、中学の頃、ヘッセをよく読んだ。『車輪の下』に始まり、『郷愁』、この『デミアン』、それに『荒野のおおかみ』、『ガラス玉演戯』等々、主な作品はだいたい読んでいる。その中で一番好きな作品、最も強い影響を受けた作品が『デミアン』である。
 『デミアン』は第一次世界大戦後に発表され、価値観が崩れた社会に、精神的に傷ついた人々、特に迷える青年層に大きな衝撃を与えた作品である。又、この作品による転身がなければ、ヘッセは叙情的で、甘く、心地よいだけの作家で終わった、真の詩人に成り得なかったと言われている。

 この作品を一言で言えば、シンクレールという少年の成長の記録、自己追求の記録である。真に自己自身になることは簡単なようであるが、簡単ではない。いや、極めて困難なことである。
 ヘッセは言う、「すべての人間の生活は、自己自身への道」であり、「どんな人もかつて完全に彼自身ではなかった。しかし、めいめい自分自身になろうとつとめている。ある人はもうろうと、ある人はより明るく。」そして「私はあえて自分を、知っている者とは呼ばない。私はさがし求める者であった。いまでもそうである」とも言う。自分自身を知る、追い求めることが人生なのである。

 僕の中学時代は、受験を控えてはいたものの、楽しく、それこそ毎日が輝いていた。東京とは違い、当時の札幌の中学生は気楽なものだった。が、子供から大人になって行く時期であり、又、否応なしに高校受験はやって来るのだから、それなりに悩みはあった。なぜ勉強が、受験があるのか。なぜつまらないこと、生きていくのにまったく必要のないことまで勉強しないといけないのか。そもそも、なぜ、何のために生きているのか、等々。そんな中で出会ったのが、この『デミアン』であり、ヘッセであった。

 定かには覚えていないが、これを読んだ僕は、とにかく生きて行かないといけないんだ、苦しくても自分自身を求めて生きて行かないといけないんだ、と考えたような気がする。それこそ「もうろうと」ではあるが、人として人生を歩き出した、そのきっかけが『デミアン』だと思う。

 翻って、この歳になって、不惑を過ぎて、真に自己自身になった、自己を知ったか、と問われれば、やはり、それはまだだと思う。当然、自分とはもう長い付き合いだし、自分自身の好きなところ、嫌なところはわかる。が、自分は本当は何をやりたいのか、何のために生きているのかは、未だによくわからない。漫然と生きているつもりはないが、日々ただ仕事をし生活して行くだけで精一杯な気がしてならない。

 そういう意味では、中学の頃から何の進歩がないのかもしれない。いや、明日も何の変化もないだろう。しかし、それでも生きていかないといけない。しんどくても生きていかないといけない。人は、死ぬまで、自己を求めて生きて行くしかないのだから。

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