縁側でちょっと一杯 in 別府

東京から別府に移住してきました。
のんびり温泉に浸かり、美味しい魚で一杯。
夢に見た生活を楽しんでいます。

『夏服を着た女たち』の謎

2006-08-13 23:46:15 | 芸術をひとかけら
 今年は梅雨が長かったせいか、まだ夏本番といった感じがしない。ジリジリと照りつける太陽、そのまぶしい陽射し、暑さに拍車をかける うるさいまでのセミの声、いずれもまだあまりない気がする。しかし、暦の上では8月中旬、立秋を過ぎ既に秋だ。
 こんな中、先日、お昼で外に出た際、ふと思い出したのが『夏服を着た女たち』だった。東京でも最高気温が33度近かった暑い日のことだ。

 『夏服を着た女たち』はアメリカのアーウィン・ショーの短編小説で、1939年の作品である。彼はアメリカ文学界で最もステータスの高い雑誌『ニューヨーカー』の成長を支えた作家の一人である。が、日本で読まれるようになったのは(いや、正確には読まれていたと言うべきだろうか、今ではほとんど読まれていない)、1980年代に入ってからである。翻訳家・小説家である常盤新平が彼の小説を大変気に入り、紹介していた。
 発表後40年近くも経った昔のアメリカの短編がなぜ日本で読まれるようになったのか。おそらく日本が当時のアメリカに漸く追い着いたからではないだろうか。生活レベルというより、考え方、ライフスタイルがアメリカ的になったということである。そこで初めて、アメリカの都会小説、男女の洒落た会話、心の機微やペーソスを描いた彼の短編が読まれる土壌ができたのだろう。村上春樹がフィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーを紹介したのもこの頃だ。

 で、『夏服を着た女たち』。読めば他愛のない話である。すれ違う若い女性につい目が行ってしまう夫に呆れて怒る妻。夫は、肌が綺麗、小ざっぱりしてスマート、着飾ってチャンスを待っている女優の卵、等々、見るのが好きな女たちの長所、見る理由を挙げる。そして、最後に“夏服を着た女たち”の一言。これには何の説明もない。ただその言葉だけ、夏服を着た女たちが好きだと。
 僕は夏のニューヨークには行ったことがない。というか、もとよりニューヨークに行ったことがない。そのせいか“夏服を着た女たち”を見つめずにいられない彼の気持ちの本当のところはわからない。あくまで僕の推測だが、それは“色”ではないかと思う。明るく、淡い、パステルカラーの服。陽の光に映え、まぶしいまでに輝いている。落ち着いた色の多い秋や冬の服ではだめだ。綺麗な人は何を着ても綺麗だろうが、そうでない人がそれなりに見えるには“夏服”には敵わない。

 先日、地下の少し暗いところから表に出た瞬間、まぶしい陽の光とともに目に飛び込んできたのが、夏服を着た女性だった。あっ、これだ、と思った。淡いグリーンの服。夏が来たのだと実感した。