今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、
それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、
新しい御霊によって仕えているのです。(ローマ書7-6)
私が神の御心に叶った生活をしようと欲しても、
私の日々の生活は、神の御心に反したものとなる。
「今日こそ、正しい生活を営もう!」と朝に決意するが、
決意すればするほど、神の御心は厳格な律法となり、
麗しき神の御心も、強制されればあえて逆らいたくなる。
私の罪を取り除いてくださったキリストの恩恵も、
日々の生活にいつの間にか高度な律法となり、
義とされた者が歩むべきでない生活をするようになる。
私が思い描いた神の御心(律法)、そしてこの世の波乱万丈、
それらに良心は右往左往し、遂にはキリストから離れるようになる。
私のそもそもの間違いは、私の力によって神の御心を成就せんと欲したことである。
ああ、私よ。汝は神に反する罪人であることを、以前自覚した者ではないか!?
それなのに、なぜゆえ、汝の理知・判断・意志によって、神の御心を成就せんと欲するか?
汝はそれほど、立派な者であるか?品行方正な者であるか?純粋な者であるか?
己一人で神の御心を実行せんと欲する、汝の傲慢に気をつけよ!
神の御心は、神にのみ実行できるもの。
すなわち、自分の理知・判断・意志を投げ打って、
キリストに縋って、キリストに為して頂くもの。
日々良心の苦悩にあうキリスト者の根本原因は、
汝の意志力の弱さにあるのではなく、その強さにあるのである。
主よ、私はあなたの御心を為すことができません。
キリスト者らしき生活を営むことは、私には到底できません。
ですから、私は、私の願望と計画と能力を、すべて捨てます。
捨てますから、ただ、あなたのみが私の内に働いてください。
私は無です、しかしあなたに不可能なことはありません。
私の内にあって、私をして、神の御心を実行せしめて下さい。
それでモーゼは民に言った。
「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、
あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。
あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」
(出エジプト記14-13・14)
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それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、
新しい御霊によって仕えているのです。(ローマ書7-6)
私が神の御心に叶った生活をしようと欲しても、
私の日々の生活は、神の御心に反したものとなる。
「今日こそ、正しい生活を営もう!」と朝に決意するが、
決意すればするほど、神の御心は厳格な律法となり、
麗しき神の御心も、強制されればあえて逆らいたくなる。
私の罪を取り除いてくださったキリストの恩恵も、
日々の生活にいつの間にか高度な律法となり、
義とされた者が歩むべきでない生活をするようになる。
私が思い描いた神の御心(律法)、そしてこの世の波乱万丈、
それらに良心は右往左往し、遂にはキリストから離れるようになる。
私のそもそもの間違いは、私の力によって神の御心を成就せんと欲したことである。
ああ、私よ。汝は神に反する罪人であることを、以前自覚した者ではないか!?
それなのに、なぜゆえ、汝の理知・判断・意志によって、神の御心を成就せんと欲するか?
汝はそれほど、立派な者であるか?品行方正な者であるか?純粋な者であるか?
己一人で神の御心を実行せんと欲する、汝の傲慢に気をつけよ!
神の御心は、神にのみ実行できるもの。
すなわち、自分の理知・判断・意志を投げ打って、
キリストに縋って、キリストに為して頂くもの。
日々良心の苦悩にあうキリスト者の根本原因は、
汝の意志力の弱さにあるのではなく、その強さにあるのである。
主よ、私はあなたの御心を為すことができません。
キリスト者らしき生活を営むことは、私には到底できません。
ですから、私は、私の願望と計画と能力を、すべて捨てます。
捨てますから、ただ、あなたのみが私の内に働いてください。
私は無です、しかしあなたに不可能なことはありません。
私の内にあって、私をして、神の御心を実行せしめて下さい。
それでモーゼは民に言った。
「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、
あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。
あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」
(出エジプト記14-13・14)
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今日はなぜか朝3時過ぎに目が覚めてから、眠れずにいたのでずっと聖書読んでました。
今頃になって眠くなってきました…。
宮内さんのこの文章の内容、とってもよくわかります。
自分のことのように感じます。
おそらくすべてのキリスト者が通る道なのでしょうね。
けれども結局のところ私達人間は「無」であってもキリストにつながっている限り、絶望で終わることはなく、大いに希望を抱いて良いのですから本当に感謝なことですね。
ただ神のあわれみであるキリスト・イエスにあってのみ私達は喜び溢れ、感謝し、主を賛美することができます。
ハレルヤ!主の御名はほむべきかな。主はあわれみ深く、その恵みはとこしえまで。