だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント書Ⅱ5-17)
本当の真理は、生きながら知ることのできないものである。
本当の真理は、自然状態の人間が認識するには、あまりにも聖すぎる。
哲学者が真理をもてあそぶように、読書家が暇つぶしに知識を摂取するように、
真理は余裕をもって知ることのできないものである。
アフリカの寓話に出て来る一人の子どもが、
どんなに実物そっくりな獅子のおもちゃと長年遊ぼうと、
本物の獅子に出会ったときにその恐ろしさを痛感したように、
本当の真理というものは聖くかつ恐ろしい。
遊び半分、面白半分に、知ることのできないものである。
偽りの真理であれば、人は余裕をもって、遊び半分に知ることができる。
しかし本当の真理というものは、それを知ったときに人は死ぬ。
いや、死ぬことによって、初めて知れたというほうが正確かもしれない。
ギデオンが主の使いに会って恐怖したように(士師記6-22)、
イザヤが主に出会って死を自覚したように(イザヤ書6-5)、
ペテロがイエスを目の前にして死を願ったように(ルカ伝4-8)、
真理は一種の恐怖体験である。
どんなに聖書を学ぼうとも、どんなに教義を理解しようとも、
真理を真剣に考えたことがなく、獅子のおもちゃ程度にしか考えたことがない者は、
おもちゃの獅子がたとえどんなに恐ろしく実物らしく作られていても、
決して本物の獅子に直面した恐怖には敵わないように、
真理を知ったと自称することはできない。
真理を知ることは、確かに甘く素晴らしいものである。
しかし同時に、恐ろしく、人を真に殺すものである。
偽りの真理しか知らない者は、よく、甘く素晴らしい方面しか語らない。
しかしそれは、何か自分のコンプレックスを満たしたり、
何か自分の願望を成就する道具にみたて、おもちゃの獅子で遊んでいる場合が多い。
本物の獅子を見るか、おもちゃの獅子で遊ぶか?
イエスを信ずるか、教義を信ずるか?
キリストを信ずるか、キリスト教を信ずるか?
一度、死の恐怖を味わった者でなければ、前者に属することはできないのである。
だから信仰とは、聖書に記される恩恵を我武者羅に信ずることでも、
慈愛の神を頭に描くことでも、聖霊が降ったと思い込むことでもない。
信仰とは、イエスの前で死ぬことである。全活動を停止することである。
信仰とは、自己栄光的人間の行なう断念であり(バルト)、
信頼に満ちた絶望であり(ルター)、神における人間の空虚化である(カルヴァン)。
本物の真理を知った者ならば、真理と死の意味を、腹の底で理解できるだろう。
そう、まるで生きた獅子を見た者同士が、恐怖体験をわかりあえるように。
しかし虚偽の真理しか知らない者は、いつまで経ってもおもちゃの獅子(遊戯)止まりである。
そしてその真理が虚偽であればあるほど、巧妙に本物そっくりに似せようとする。
最も恐ろしい虚偽は、真理の臭いを放つものである。
一昔前の虚偽は、キリスト教的だった。西洋社会が特にそうである。
しかし現代の虚偽、ことに日本社会の虚偽は、
「キリスト教を攻撃して自分こそキリストに属する」と自称し、
自分こそ神の側に立っていると装うものである。
悪魔の策略も、より鋭利になっていると思わざるを得ない。
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古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント書Ⅱ5-17)
本当の真理は、生きながら知ることのできないものである。
本当の真理は、自然状態の人間が認識するには、あまりにも聖すぎる。
哲学者が真理をもてあそぶように、読書家が暇つぶしに知識を摂取するように、
真理は余裕をもって知ることのできないものである。
アフリカの寓話に出て来る一人の子どもが、
どんなに実物そっくりな獅子のおもちゃと長年遊ぼうと、
本物の獅子に出会ったときにその恐ろしさを痛感したように、
本当の真理というものは聖くかつ恐ろしい。
遊び半分、面白半分に、知ることのできないものである。
偽りの真理であれば、人は余裕をもって、遊び半分に知ることができる。
しかし本当の真理というものは、それを知ったときに人は死ぬ。
いや、死ぬことによって、初めて知れたというほうが正確かもしれない。
ギデオンが主の使いに会って恐怖したように(士師記6-22)、
イザヤが主に出会って死を自覚したように(イザヤ書6-5)、
ペテロがイエスを目の前にして死を願ったように(ルカ伝4-8)、
真理は一種の恐怖体験である。
どんなに聖書を学ぼうとも、どんなに教義を理解しようとも、
真理を真剣に考えたことがなく、獅子のおもちゃ程度にしか考えたことがない者は、
おもちゃの獅子がたとえどんなに恐ろしく実物らしく作られていても、
決して本物の獅子に直面した恐怖には敵わないように、
真理を知ったと自称することはできない。
真理を知ることは、確かに甘く素晴らしいものである。
しかし同時に、恐ろしく、人を真に殺すものである。
偽りの真理しか知らない者は、よく、甘く素晴らしい方面しか語らない。
しかしそれは、何か自分のコンプレックスを満たしたり、
何か自分の願望を成就する道具にみたて、おもちゃの獅子で遊んでいる場合が多い。
本物の獅子を見るか、おもちゃの獅子で遊ぶか?
イエスを信ずるか、教義を信ずるか?
キリストを信ずるか、キリスト教を信ずるか?
一度、死の恐怖を味わった者でなければ、前者に属することはできないのである。
だから信仰とは、聖書に記される恩恵を我武者羅に信ずることでも、
慈愛の神を頭に描くことでも、聖霊が降ったと思い込むことでもない。
信仰とは、イエスの前で死ぬことである。全活動を停止することである。
信仰とは、自己栄光的人間の行なう断念であり(バルト)、
信頼に満ちた絶望であり(ルター)、神における人間の空虚化である(カルヴァン)。
本物の真理を知った者ならば、真理と死の意味を、腹の底で理解できるだろう。
そう、まるで生きた獅子を見た者同士が、恐怖体験をわかりあえるように。
しかし虚偽の真理しか知らない者は、いつまで経ってもおもちゃの獅子(遊戯)止まりである。
そしてその真理が虚偽であればあるほど、巧妙に本物そっくりに似せようとする。
最も恐ろしい虚偽は、真理の臭いを放つものである。
一昔前の虚偽は、キリスト教的だった。西洋社会が特にそうである。
しかし現代の虚偽、ことに日本社会の虚偽は、
「キリスト教を攻撃して自分こそキリストに属する」と自称し、
自分こそ神の側に立っていると装うものである。
悪魔の策略も、より鋭利になっていると思わざるを得ない。
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