キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

真理の衝撃

2007-05-31 00:00:45 | 無宗教主義
わたしが今、手を伸ばして、
あなたとあなたの民を疫病で打つなら、
あなたは地から消し去られる。
それにもかかわらず、わたしは、
わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。
また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。
(出エジプト記9-15・16)



私はキリストが大嫌いだった。

キリスト教だか何だから知らぬが、そんな宗教的なものを信ずるぐらいならば、

死んでしまったほうがよいと思ったほどだった。

幾年かが経ち、私はある理由から嫌々ながら聖書を読み、

キリストにおいて罪を示され、キリストにおいて回心した。

私がキリスト教の真髄を会得しているか否かはわからぬが、
(多分していない・・・)

今の私は、キリストなくして生きることができない。

彼が十字架に上げられたのは私の罪であり、

彼の功績と信仰は私のものである。(ガラテヤ書2-20)


そして、キリストを蔑視していた過去を回想して思う。

なぜ神は、キリストに敵対し無視し嫌悪した私を生かし給うたのか、と。

なぜ神は、神を知らず罪を犯し、日々悪を為す私を生かし給うたのか、と。

神はその霊によって、人間を生かし給う。

もし御心に沿わねば、すぐさま霊を取り去り、

私を滅ぼしてもよかった筈なのに・・・。

有能な上司が無能な部下を切り捨てるように、

偶像崇拝に染まる私を殺してもよかった筈なのに・・・。

しかし神は、私を生かし給うた。

将来キリストを啓示し、(少しでも)キリストの栄光を輝かせるために。


私は思う。神の真理を知るということは、人を引き裂く衝撃であると。

私は闇である。一条の光も知らぬ闇である。

私が「これこそ真理だ!」と思って快く受け入れられるものは、

所詮、闇が好む比較的「真理らしきもの」に過ぎない。

本当の(神の)真理というものは、闇を引き裂く一種の稲妻の如きものであって、

最初は嫌悪感を抱き、嫌々ながら接し、終わりに自己の醜悪さを知らしめ、

最後の最後には私を根底から変えるような、そういうものである。

もしこのブログを読んで、キリストを何か胡散臭く思い、

「自分だけは彼を信じない」と豪語する者よ。

実はそういうあなたこそ、神の救いの過程に定められた者なのである。

いつの日か、私の書いたことを痛烈に自覚するだろう。

栄光はただ神にあれ。



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