goo blog サービス終了のお知らせ 

絵、大好き・Yoh-Mのブログ

ジャズ聴きながら絵を描くYoh-Mが、自身の頭の整理の為に書くブログです。

歌手「すがはらやすのり」の素晴らしさ。

2010年11月05日 | アート・文化

11月3日。文化の日に浅草へ・・

022 ・

この日の浅草は『東京時代祭り』というセレモニーで朝から夜まで大賑わい。

本当に久し振りの祭りのど真ん中に・・私はいました。

家内と親友夫婦と4人はまず駐車場の確保から苦労し、初めて浅草寺の裏側から境内へ入りました。

浅草国際通り方面は昔から土地勘もあったつもりでしたが、さすが、もうお上りさん。

この4人で楽しい日を送る事が出来ました。

さて、このお祭りのさ中、歌手『すがはらやすのり』さんのコンサートがアミューズ・ミュージアムで行われました。

祭りのど真ん中へ行くのだから、私は昔はいたお気に入りジーパンに装飾ベルト。白綿シャツにニットの細いグレータイ。そして、珍しいバーバーリー・グリーンマフラー。幅広厚セルメガネと羽根つきシャッポ。

こんな服装でしたので少々派手?かなと思いましたが、【着こなしのYoh-Mさん】らしく様になっていたようでしたので、歌手『すがはらやすのり』さんに若干はお近づきになれた気分で会場に入りました。

【名曲歌声劇場】とのタイトルのコンサートでしたから、どんな名曲が飛び出すかと思えば、渡された歌詞ファイルには・・・昔懐かしい《童謡集》。

最近とんと聞かなくなりました名曲劇場でした。

素晴らしいアイデアですよねー。

若い家内は一曲だけ知りませんでした。現在の若者は殆ど知らない曲でしょう。

小中学校で教えない名曲ばかり。

童謡が名曲?? と疑う人もいるでしょうが、そんな人は感覚音痴。才能なし。オバカさん。

最も童謡は1部で2部は・・・ラブソング ?? でしたよ。

会場は100人でほぼ満員になるぐらいの小さな会場。

大きなホールでそれこそクダラン奴が大勢出て歌い、マイクの性能に助けられて歌う・・・まあ、NHKの歌クソ番組なんかよりずーっと素晴らしい演奏会でした。

それも、『すがはら』さんが詩の大切さ、日本人の普遍的性格を掴んでいるからです。

将来の100年、300年迄残す歌を探すとなれば、日本人の普遍性をもった曲でなければならない筈。それには・・・童謡。ピッタリではないですか。

まあ、童謡云々はここいらにして

歌手『すがはらやすのり』さんの素晴らしさを簡単に紹介しておきましょう。

まず、http://www.youtube.com/user/yarria#p/u  をお聞き下さい。

・声量と音域の広さ。は当代ピカ一でしょう。マイクなしでも歌うし、3オクターブは楽々・・。

・詩のシッカリした歌を歌い続けている。

・皆さんが日本の歌。と思われるほど親しんでいる外国の歌をも伝えている。

・海外で日本の歌を広めると共に世界に発信している。

・日本はおろかアジアにおいても非常に有名な曲【四季の歌】は彼が最初に広めて行った曲です。

この人、大学で都市工学を教えていた博士でもあるのですが、若い日より世界の貧しいところを中心に100箇所以上も訪れ慰問演奏をしていた国際派でもあるのです。

ですから、現在も世界の各地で音楽祭があると・・日本人を代表として招待され、日本人の心を歌っている人です。

そんな彼を支える多くの人、グループも数多いのですが、それは何と言っても彼の今までの実績と人間性。

実際のコンサートで彼の声を聞かないと分からないので、ここで私が幾ら力んでも仕方の無い事かも知れません。が、私・Yoh-Mを支持してくれる方、このコラムを読まれた方は、まず彼の名前だけを覚えておいて下さい。

今回同行した親友の奥方は・・静岡ソロプチミストの代表をしています。

今迄名前だけの歌手を招いては、がっかりばかりしていたようですが・・・

『すがはら名曲』コンサートでは、もう乗り乗りで上気して楽しんでいました。

『すがはら』の名はイワユル・・知る人ぞ知るのみです。

私は、彼が歌う曲を・・後世に残すべきと考えています。又、ラジオ日本では月曜22:30より彼の生の声を聞くことが出来ます。

一度お聞きくださいな。

彼は絵も大変好きなようでして、中学時代の絵の恩師「星野先生」もコンサートを楽しんで居られました。

私の中学時代の絵の恩師は市川正三先生。安井賞作家です。この先生の恩師は須田国太郎。

絵の世界も色々ありまして、私は市川先生、鴨居玲さん等の助言で、絵で生活する事を止めた男。『すがはらやすのり』さんとはこの点で似ていますが、彼には何より【天性の声】があります。

その声を通して豊かな心を残そう。という彼の心意気は素晴らしいです。何せ、大学教授の椅子を蹴って活動しているのです。

私は、彼とは対極にいるような今迄でした。が、その事が返って今後の良いお付き合いに向かうと信じています^^

私のモットーは

・一人の為に動け。動ぜずな。です。

彼は【人生は出会いだ~】と言います。出会った以上は、その人の為に動ぜずな。ですね

語れば色々諸々ありますが、余り書くと『なんとかの贔屓倒し』になっちゃいます。

ともかく人間性溢れる『すがはらやすのり名曲コンサート』を楽しみました。

                2010.11.3

                       Yoh-M

ブログランキング・にほんブログ村へ
021


久し振りの野外デッサン

2010年10月29日 | アート・文化

水曜日の穏やかな日

久し振りに野外デッサンへと出掛けました。

場所は、西本門寺。

武田を滅ぼした後、甲州、富士川に沿い江尻経由で清洲へ戻った信長に縁のある寺です。

奥の深い寺で、山門には桜並木。

近くの林では大きな栗の木。

本堂前には2本の強大な銀杏の木。

無謀にもこの銀杏の木と相対してデッサンしました。

とても適わぬ題材でしたが・・ともかく挑戦でした。

P10106062

寝ぼけ眼で出掛けた私でしたが、さすがに気合が入りました。

結果は・・所詮自然の大木には適いませんでした

P10106092

にほんブログ村 美術ブログ 絵画へ


上田毅八郎・90歳個展

2010年09月30日 | アート・文化

海洋帆船画家・上田毅八郎の90歳個展開催。

レイテ海戦生き残りで、『歴戦の勇士』上田毅八郎さんの個展を

静岡市清水区ミヤモト画廊で開きます。

http://www.plaza-e.net/ueda.html

この夏は清水・フェルケール美術館にて『波間に消えた徴用船』。

と、題して軍部に徴用され、多くの人命と共に波間に消えた船舶を描いた展覧会を開催しました。

上田画伯は20歳より甲板砲手として、7隻に及ぶ船の甲板にて激戦を繰り返し、海の水を飲まされること6回。最後は金華丸と共に、レイテ湾にて撃沈され波間に漂う事3日程。その強靭な精神力で今日まで生き抜き、亡くなった方々の鎮魂に人生を送って来た戦士です。

ポツダム宣言受け入れが1週間早ければ、多くの人命と徴用船を失う事もなかった。と、常々言い続けてきた戦士です。

利き手を負傷して戻ってから、箸を持つことから訓練し、好きな絵を描く為にどれほどの苦闘をされたか・・

この上田画伯は私の母と同い年。大正9年生まれで、戦死された方が一番多い年代の方です。

母の小学校同級生男子の生き残りは・・・僅かに4名のみでした。母と上田さんは良く戦時中の事を語っていたものです。

上田画伯を紹介して呉れた人は、偶然にも母の教え子で、叔父と同級。しかも私の大学の先輩にもあたる人です。

ですから、私にとって巡りあわせに近い存在でして、上田画伯は特別な人なのです。

上田画伯から作品販売を一任されてより40年近く。

90歳になられた上田毅八郎の記念展です。

上田画伯は色々な分野へ作品を提供して来ましたが、今回、初めて世に出す作品があります。

『クラシック・カー』です。

機械好きの上田さん。クラシック・カーへの思い入れにはもの凄い迫力があります。

が、90歳になるこれまで門外不出にしていました。

水彩・油彩のいずれの技法で描かれたクラシック・カーは、愛好家にとって垂涎の的でしょう。

既に問い合わせも来ていますから、早い者勝ちになる予想です。

戦争で散った方々への鎮魂の為の作画。

それとは違った、絵描きとして世に送り出す作品。

これからの若い日本人に残すべき作品を展示します。

『 90歳 上田毅八郎 原画即売展 』

    10月1日~12日

         静岡市清水区銀座4-10

            ミヤモト画廊。

       

ブログランキング・にほんブログ村へ

Kikan001

                   


私の靴屋さん。

2010年07月24日 | アート・文化

私のお気に入り靴屋さん「富士宮・IDE靴店」さん。

正直言って、最近の靴屋さんの品揃えは実に良くない。

例えば、デパート靴売り場へ出向いても興味をそそる靴はない。

商店街の靴屋さんは、まるでスーパー、ユニクロ商品と同じレベルまで商品構成を落としてしまっている。

メーカーのリーガルにしても、主力商品よりも、靴底が柔らかくデザイン重視です。

登山靴しかり、中年登山に併せた軟弱で岩登りを想定しない商品ばかり。

結局、私にとって、靴選びが一番厄介な作業である事は・・誠に不幸にも事実です。

若い頃は型を取って靴を作っていた時期も有りますが、子供に手が掛かるようになってからは仲々靴の方までお金が回らなくなりました。多分、皆さんもそうだと思います。

そんな頃、家内が若いときから常連になっていた「富士宮・IDE靴店」さん。へ連れて行って呉れました。

商品構成、井出さんの足を見る目、センスある陳列。

私は静岡県にも素晴らしい靴屋さんがあるのだ。と驚き、以来子供の靴から私の靴までを「富士宮・IDE靴店」さんで購入してきました。

そんな井出さんはもの凄いバイク愛好家。

バイク談議もあって、このお店へ行くと、靴を選ぶ時間は2~3分。あとは・・・

家内はいつも時間潰しに近所の商店へ冷やかしに・・そんなでした。

が、

もう12~3年になるでしょうか。

チャーミングで明るく元気な奥様が、病から杖での生活を余儀なくされるようになり、当然、お店仕事も大変。ということから、私共夫婦が商品購入に伺う予定時間と、奥様のリハビリ等の時間が重なる事がまま有り、この間、私と家内の靴選びは難儀していました。

昨日、久し振りに寄って見ました。

店、以前よりも小奇麗になって、然もグルーッっと見渡しただけで・・商品が揃ってる~~

井出さんの元気な顔が出迎えて呉れました。

そして、まず、私の足下を見て・フフ~ンといったしぐさを見せて、「この靴なら似合うし、気に入って呉れる筈」と言いながら、仕入れしたばかりらしい靴を奥から持ってきて呉れました。

その靴を履くまでものの2分位。で、履いた瞬間・・・『GOOD!!』  決まりでした。

家内は、自分用に洒落た夏用のサンダル。(娘に取られてはならぬ~・

以前と全く変わらなく、お互いのバイク談議。

話している間に彼のバイク仲間が買いに来ました。

最近、靴底のしっかりしたモノがないので、私が希望する靴のイメージを伝えて引き上げる事にしました。

デパート、浜松から静岡、沼津までの靴屋さん・・大体覗きましたが、「富士宮・IDE靴店」さんレベルの店はそうそうありません。

商店経営は今後大変。ということで、彼の店も彼でお仕舞い。

せめて後15年は頑張って下さい。伝えてきました。

奥様の調子は相変わらずですが頑張る「富士宮・IDE靴店」さん。・・応援を宜しく。

皆さんも富士宮へ寄るついでがあったら是非覗いて見て下さい。

昔の全盛期だった、東京銀座ワシントン靴店を思い浮かべる靴屋さんがあります。

バイク好きには絶対にお勧め店です。何よりグッドセンスです。

                      2010.07.24

                                                                                   Yoh-M.

ブログランキング・にほんブログ村へ

Img_0008


歌手・菅原さんとの再会、そして・・

2010年04月20日 | アート・文化

歌手「すがはらやすのり」さんとの再会。  (これ以降菅原さんと表記)

菅原さんとは学生時代の僅かな時間、共に和田エミリーさんより英会話を習った仲ですから40年振りという事になります。

彼が1級上で、私と同学年の地主(苗字)さんと3人でエミリーさんとの時間を楽しんだ記憶の方が残っている仲です。

当時、既に歌合戦で名を知られ始めていた菅原さんですが、早稲田建築科の大学院生だったので彼の将来は『建築家』。と決め付けていました。

が、シベリア鉄道経由でパリ、フィレンツェを拠点にして遊び戻った私が、だらしなく先行きさへも決められずにいた30歳を前にした頃、『菅原やすのりミニコンサート』が静岡市松坂屋屋上で開催。という広告を見、駆けつけました。

僅かなスタッフと静岡放送のアナウンサー。そして30名位の観客。

菅原さんは、私の名詞に書かれた会社名を読み上げて宣伝して呉れましたが、その名詞は学生時代から持ち父から渡されていた名詞。照れくさかったのを覚えています。

彼のスケジュールで東京へトンボ帰りだったので、残念ながら会話にならない少ない時間でした。その際、彼から聞いた地主さんの死。世間が大騒ぎした事件だったようで何一つ知らなかった私は、頭がボーとした事を覚えています。又、27才時より毎年9年にも及んで、信頼する若き親族達の死も重なり、今日まで『生きること』へ問いかけるきっかけとして来ました。

この松坂屋コンサート以後、菅原さんの名は私から消えて行き、私自身は私の仕事として「絵と額縁」の販売に進路を決め、休日は単独での登山、スケッチという生活になりました。

結果、結婚こそ38才、私にとってのタイミングとしては最適な時期だったでしょう。が、友人達より10年は遅い社会人スタートでしたでしょうか。

昨年、姪が早稲田大学国際教養学部を卒業し、音楽関係の仕事に入ったと聞いてから急に、『菅原やすのり』さんを思い出してしまいました。今頃どんな仕事をしているだろうか。と。

和田エミリーさんに英会話を習っていた頃、私はギターを持って行き菅原さんの伴奏したはずなのですが、彼の声に合わせるテクニックはなく、殆んど彼の独唱に終わり、エミリーさんは随分喜んでいたのを思い出します。

その彼を思い出して、グーグル検索をしたところ・・・ナントとなんと、彼のH.P.があり、Uチューブでも彼の姿と声が映し出されました。

【懐かしさと驚きで一杯】でした。

エミリーさんとは年賀状の交換を続けていた関係で、彼が東海大学で教鞭をとっていた事位は知っていたのですが、ナントなんと・・・『日本を代表する歌手』。

彼特有のビブラートは40年前と全く変わっていなく、声量も相変わらずもの凄い。

然し待てよ?  私は我が身を鏡に写して彼のH.P.写真に疑問を持った。

家内は彼のマネージャーさんから取り寄せたCDに毎日夢中。

いやいや、名前も『すがはらやすのり』になっている。

これはこれは一度会って確認しなければいけない。私自身の為にも確認する必要がある。と思い立ち、4月19日の『すがはらやすのりコンサート』へ夫婦で出掛けた次第です。

私は4月22日に64回目の誕生日を迎える。

夢中で生きてきた。と思う。家内への感謝はそうそう口に出せないが、二人して頼る事無く生きて来た。子供達もようやく社会人。

これから夫婦そろってどう生きるべきか考え始める矢先での『すがはらやすのりコンサート』。

3月、叔父の法事へ出掛けたところ、東海大学建築科卒と言う従弟が何と彼を「菅原先生」と呼ぶ。縁というものだろうか。背中が少し寒くなる思いをしました。

まして、その従弟が小学生の時に私は学生で、よく山下公園とか浜離宮へ連れて行ったりして可愛いがった従弟だからです。

縁。なぞと云う言葉は使いたくないのが、今までの私の生き方。人生を語れるのは、縁側で昼寝する爺様だけと決め付けている私。しかしながら、意地を持って生きて来たご褒美でしょうか。

その時、その瞬間を大切にしてきたからこそのご褒美でしょうか。

菅原さんがコンサートでさりげなく語るその話は、彼自身へ向けての言葉のように聞こえたし、勿論、私自身が感じる以上に・・観客皆は素直に受け止めた事でしょう。それだけ大きく成長した人物が、目の前で豊かに、楽しく、全力で歌って呉れました。

どなたにも言えることは、【若き頃を知る事は実に素晴らしい】ですね。若い人達に伝えたいものです。

私の中学は東海大学の附属中学。松前重義総長がお元気な時、私は段取りで鍛えて頂きましたし、現在も総長の建学の精神は生きています。一緒に稽古をつけてもらった親友は、今は東海大学工学部で総長の精神を引き継いでいます。

私は青山学院へ進みましたが、菅原さんは、東海大学経由で歌手。彼がコンサートで語っていた「精神は生きている。結ばれている。」とは、こんな偶然も含めて人間には宿っている。と感じながら、帰路につきました。私のデカイ頭の中に詰め切れない程の、諸々の感情整理は暫くは大変ですよ。

菅原さん。実際に見た現在の彼の姿は・・H.P.写真に偽りなし。でした。

サービス精神は驚きでした。それらを含めた、人知れない相当な努力とその意思に感謝です。何故ならバイク事故以降、私は少し気弱になりかけていましたから・・。

今までの私を継続しようと決めました。それが私らしい。お陰で再発見しました。

日本人のコンサートでは・・お世辞でもなく、『最高』でした。

若い人達にこそ伝えるべき歌い手です。

彼は「人生は出会いだ」。と元気だ。さてさて、我々サポーターはどう動こうか、ですね。

菅原さんへ感謝と共に今回のブログを終わります。

                  Yoh-M.

 

                              1000015_img

  油彩画 60x60     「ジャコバサボテン」         

           Yoh-M  作