裏山と言っても地元の人さへ余り知らない・・秘境。
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車を置いてから、行脚全行程約8時間。
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内、休憩1時間。山中の池探検に1時間。
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朝、7時に家を出スーパーへ寄って戻ったのが6時前。
アルプスに匹敵する厳しい勾配の連続 & ガレ場有りなので本格的登山靴必携です。
・・場所は秘密にしておきます。
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まず、世の中での基準。と呼べるものは各人によって捕らえ方が夫々異なっております。食い扶持である職業からにして考え方が大きく異なるのは当然で、対社会への取り組みも異なってきます。
基地問題のような安全保障を伴うものとか、裁判に委ねるような権利義務等は横に置いといて・・ここで語るはどの家庭もが感じる不公平感。いわば個人の我儘とでも呼べる事について書いてみます。
と、言っても万人に公平な考え方は不可能です。言い掛かりに近い『私の我儘』を参考までに書いてみます。
個人の「我儘」とは他人様と比較した上で、自身がより満足すれば良い。という事でしてどなた様とも同じようなものです。
但し、私の我儘は端から見るとどうにも直りそうもなく、家族に対しても厄介この上ない状態らしいです。喰っては横になり、疲れた~と言い訳しながら掃除、食器洗いの手伝いさへしない。広沢虎造・「清水の次郎長・森の石松遠州墓参り」の段と同じで・・死ななきゃ~直らないらしいのだ
どこの宿六も同じようですが、弁解を語る上で、私の職業が個人で作り上げて来た砂上の楼閣 であることをまず知っておいて下さいね。ソレユエノの言い放しだからです いわゆる企業人と云われる人達のように組織だって動いたり、言葉を飲み込む訓練を全く受けていないので根本的に我儘の度合いが違うらしいですから
さて私の我儘の根底にある物を引っ張り出せば・・社会への不満が9割以上占めている。と、もう一人の私が観察しているのですよ。家庭での我儘とは全く別個の不公平感を持っている。
民間人の多くが感じる・・議員天国、公務員天国だよとスネテイルのかも知れません
イワユル経済的に安定した所に勤める人達は、年間365日の1/4位が・・何と休日。つまり休日ばかりのカレンダー上で動いていると思っているのです。更に組合活動で労働時間まで交渉し、遊ぶ時間を作っているとは・・羨ましいな~~ってヨダレヲ垂らしている不届き者です。
もっとも、一部の管理職と技術者以外は頭を押さえつけられた哀れな動物君達でもある・・・・って思ってもいる非常にケシカラン者です。が、然しながら、ヨクヨク考えると、組織というものは必要以上に個人の時間を奪ってしまっているのではないか? と道理をも考えられる頭は持っているようです
法律、規約、労働条件そして仕事付き合い・など等を考えれば・・組織人が幸せなのか?恵まれているのか?? 大いに疑問であるのは当然だろうし、付き合いゴルフで休日を潰すとは・・家庭にとっては最悪?と考えている者です
が、そんな人達と付き合わされて来た私は、例えば結婚式から同窓会、挙句、選挙投票日まで土曜、日曜。 これらの日は私が真剣に働く時間である。これは我が家庭、我が子供等にとって不平等と思うのです。キリスト教徒が作ったカレンダーに何で世界が併せなけりゃ~イカンのかね~~
いやはや・・世界の裏側ってやつに踊らされているんだよな~? いえいえ、太陽と地球の関係から合理的に定められているんですよね~
「商売は儲かるからいいだろう?」と云った声も聞こえる。が現状は悲惨です。個人商店主壊滅状態にあり、地域文化の担い手連中が消えていく。組織は金だけ出せば良いのか? 祭りは催事に・・コレマタ疑問大であるな? 私自身は・・そりゃ~僅かながら儲かっているし我儘者だから遊び半分で商売だ? 故に、祭りの名の下で商売か子供等のいずれかを犠牲にして来たとの思いが強い。
ま・不平はあるが我儘大ゆえ生き延びている。と甘え、お許し願ってる
休日に関して、私はいつも不平を持っていたから、何人かの勤め人に『平日、人と遭わない山』登山を誘ったことは度々ある。当然、無理だよな。こちらも本気で誘った事はない。山へ行ってまでペチャクチャとは嫌なこった。これは完全に優越感に浸った我儘。(m_m) 勤め人には出来ない遊びを楽しんで来ました。
こういった事で、職業の違いは大きく、立ち位置によってクッキリと線が引かれている。
カレンダーの日曜、祭日には赤数字さへ入れられているますよね~。 その代わり、多くの働き蜂が移動する時期は何故か定められており大混雑。私から見ると・・「我儘言えぬ哀れな人達」となる。 これは護送船団方式で不公平だよな
勿論、サービス業は鼻からそんな構造を利用するだけだから別な話。『文句言うな』となるが、家族は良く我慢しているね 盆に正月も働く。これとて不平等だよ。一番重要な家族との触れ合いを仕事口実に奪われている。サービス業は最も可哀相な働き蜂なんですね が、この分野は儲けやすい、入り口広く、深い。が、現在の不公平税制を是正されると・・一変に夜逃げが増える業種ですよ
私は両親と夕食を共にした記憶がない。故に、子供とはなるべく共に過ごす時間を作ってきたつもりであるが家族はどう感じているだろうか? これは我儘から発するムベカラヌ押し付けだな^^
自分で起業した以上は取引先を大切にする。お客より大切にする。仕入れ大事が商売だ。が、世の中松下イズムに惑わされて、三波晴夫さんに惑わされて『お客様は神様です』って??・・大きな間違いだ? 鶏か卵かの話になってしまう
銀行頭取であろうとその銀行の警備員さんであろうと、我が店では肩書き関係無し。当然だ。金額の大小でもなくお互いが感じる雰囲気が大切。分かりきった事。が、これが分からない連中が実に多い。
特に、名詞を常に持ち歩き見た目格好の良きらしき人達と、安い物漁り専門のババア共。 『ウチの会社は〇〇ですよ』と『あっちの店の方が安いよ』は、言い方によって実に表現の仕方が似ているんだね
企業、役所から仕事で呼ばれる時がある。呼びつけておいて話が通っていない若いのが出て来て重複する説明と、待たされることシバシバあった。以来、私はこんな時、即刻戻る主義にした。これは道理である。経験が重むと出きる技だが若い人には無理な話かもしれないな。
昔ながらの「手もみ商売」なんぞもう全く役に立たない時代。私を必要とする仕事ならば困るのは相手だ。こう言った礼儀、道理とか顔を立てる。といった今では化石のような考え方が・・つまる処、私の商売上の我儘です。つまり・・へ理屈
然し、この屁理屈は怖いぞ! ま、考えてください。
話少しずれて、
特に大学同窓生から多く聞くのだが、地方から出てきた長男坊が40代で首都圏に家を構え、定年後も実家に戻れず、親と生活を共にしない例を聞く。私の同級にも現にいる。親はジクジたる思いで生活しているだろう。本人も割り切れない思いが強いだろうな。仕方がないで済むのか・・??
夫婦の意思で子供を作らなかった友人もいる。文句言う筋合いではないが、年取ったそいつは今になり、夫婦二人して老い先を案じ騒ぐ奴になってしまった。これは哀れだ。詳しい事情は知らないが・・手前の事ばかり?いくら年金・保険を納めたからと言ってもオカシイと思う私だ。
子供達と離れ離れの老夫婦世帯を役所が心配して手を貸す時代・・経緯をみれば ?不平等だろう。って言いたくもなる例がイ~パイ有るのが現状だ。 大体が今の社会保障はデタラメ。個人責任を問うていない
確かに全ての勤め人は家庭生活の面で時間に余裕が無いから大変だ。熟年離婚も伝えられる。と言って、問題はそればかりではないだろう。何かと仕事に屁理屈かこつける・・個人に問題大有りのコンコンチキだ。
東京オリンピックを境に、多摩ニュータウンなり各地団地が大売れした。入居した人達も核家族として、この世の春を謳歌しただろう。が、現在を見ると・・年取った彼等は権利ばかり主張しているように見える。政治は、こういった人達を弱者扱いし勝ちであって、私から見ると不平等だ この見方はおかしいかな
家庭をおろそかにしたツケが回ったのだろう。そのように感じる。それとも、それしか生きる方法が無かったのか?私にはとてもそうは思えない。
地方で親と同居し、近所親戚付き合いから古い家のメンテナンス、墓守等、二世代、三世代家庭で生活し地域の消防から文化まで世話をして来た人達から見れば・・完全に不公平だよ ・・・が、こういった田舎生活を送っている人達の方が心豊かなんだよね~~ 但し、勘違いしないで欲しい。こう云った人達の方が核家族より経済力の弱さは歴然なんだよ、大変なんだ。
こういったお爺ちゃん、お婆ちゃんのいる家庭から我が息子のお嫁さんを欲しいし、娘を嫁がせたいと考えるのは・・我儘かな 核家族を謳歌した人と親戚にはなりたくないんだよね~~・・
ま、現在の首都圏が抱える電力問題も同じ構造に見えて仕方がない。放射能風評騒ぎを真剣に考えず都市生活を謳歌している連中は寒さ、貧しさを経験すべきだな。さもなくば、ボランティア活動として体を使うべきだよ
世の中変化する。その時その時代が良いと言って人間関係に反映させてはならない。
『山あり、谷あり』どこの国へ行ってもこの格言は存在する。
日本人は忘れたのだろうか?権利ばかりを主張するようになったと感じる。良いとこ取りだけは止めて欲しい。せめて他人の子供にも目を向けて欲しい。自分が我儘と気が付けば、他人の気持ちも分かるだろう。 社会への不公平感も少しは緩和されるだろう。
『土』に親しむ。多くの日本人は忘れてしまった。が、今回の震災で若い人たちは行動し始めている。
私が尊敬する義父は素晴らしい百姓だ。地球がひっくり返っても・真似出来ない素晴らしい男だ。
お百姓に真の男がいる。漁師に真の男がいる。格好だけでも真似したくて私も少々かじるが・アァアァ・と腰に来るだらしなさ
これからの若い人達・・・是非、『土』にまみれて欲しい。生産者と消費者との立場を区別せず、お互いを理解しなければならない。そして今までの社会構造を壊さないといけない。既に自然は警告を発しているのだから。
技能者を育てる環境を作るには一重に若者の意欲が必要だ。
この技能、工学分野には大勢の博識者がいる。定年に及んで働き場所がないという組織人間が多いのも事実 であるが・・・この分野のテクノラートこそ・・人生楽しみながら若い奴等のケツをヒッパタイテ煽るべきです。大きな設備がなければダメだ・・っていう人も口を出すべきです・・若い人達の為、自身の為に。
教育が重要であるのは勿論。この面でテクノラートが引っ込み思案は良くない。経験が重要な分野。若者は何らかの方策を欲しがっている筈です。
これからの時代、ますます不公平になるはず。手に職を持った者が勝つ時代さ。体力勝負できる者は一次、二次産業、国防産業を目指すべきである。これは正しい指針と思うが如何だろう。
一週間単位のカレンダー概念を壊し、勤め人も時間が余っていれば家庭事業として?趣味と称して?働き稼げば良い。 疲れたら休めば良い。戦後体制は終わり、戦後民主主義も終わったのだ。 ・ところで、民主主義の実態が未だ分からない私ですがね・・・
考えられることを当然のようにして実利共に楽しむ・・これが出来る人間は『我儘人間』と言われ指差される。組織人間では今後やっていけない。という事を言いたいのです。人口減少・・大いに結構。
それ故、『家庭と仕事の両立』を今迄以上真剣に考えないと孤立し、失う事ばかり多かりし。に陥りそうな時代だ。
私のこれからは若くなるから?益々『我儘』し放題に向かいたい いや、向かうでしょう
何故なら、今世界中がこぞってギリシャを悪く言う^^ 私は遊び上手なギリシャ人に習い『我儘』言い放題生活を目指しているのだ 後始末は損な性分の人がするだろう?との勝手な意地悪推測で ・・ メチャメチャで構わないんだ・・どこかでバランス取る狡猾な連中はゴロゴロいる・・我儘になって下さいな
そういう人間が増えると良いな~と思う私です
徒然、かって書きました。ご無礼お許しを。
d・
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2012.02.28.
Yoh-M.
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春を求めて・・いや、体力測定のつもりで、車を蔵田の農協さんへ置かせて貰い、藤枝『高根白山神社』まで、麓にある根回り約15メートルの大杉と、石で作られた鳥居をくぐって標高八百数十メートルまで歩いて来ました。
30年以上前になりますか・父母を車で案内したことがあるだけのウル覚えで行きました。
と、言うのは、私の車のナビゲーターは一番初期の製品でして凡そ役立たずなのです。
確か、静岡市側から林道を行った記憶があるのですが今回は、正当にも藤枝から。
& それも、カメラを全く忘れて出発しまったのです。ですから、このブログにも今回の写真はありません
藤枝市は奥が深いですね~・それと、今日のドライブでは、歩く人に会わなかったから聞く事も出来ず、案内標識が頼りのドライブ。
感覚的にこっちだろう?ッて具合で進みすぎたり、行き止りにぶつかったり・・
若い時よくやった行き当たりばったりの楽しいドライブでした。
記憶では、静岡清沢より標高八百数十メートルに位置する神社まで車で登り、帰りは藤枝側へ車で、デコボコの林道を下った覚えだけです。が、記憶は全く頼りになりません。
今回は藤枝から登ろうって何となく頭にありました。然も、出掛けて分かった事ですが、静岡側からの道は土砂崩れで通行止め。って標識が数箇所にあり、藤枝経由の選択が正しかった事だけが救いでした。 まあ、選択というよりマグレだったのですが・・・
問題は歩きにありました。
天気は最高に良かったのにジャンバーから上着類を全部リュックに詰め込んで登山靴はいて登り始めました。この考えは正しいのです
いや~~・それにしても、初っ端からキツイ勾配は何ナンでしょうか?
清水にも山原山という超急勾配トレーニングコースがありますが、それ以上なんですよ
然も、昔と違って全アスファルト歩道。いや林道。
登山靴でなくスニーカーの方が脚に楽だったのです。下りはきついから僅かな時間(登り70分。下り?分)でも足先が、本格登山のように若干痛めてしました。
が、上着の判断だけは正しかった。登りーワイシャツでOK.下りージャンバーにマフラー。
(天気予報では昨日より3度ほど下がる。って言ってましたので)
さて、お伝えしたいことはそんなではなくて、高根山々頂直下に鎮座する『高根白山神社』の境内と建物 カメラを忘れたことを・・この神社を前にして悔やみました
平安時代建立とありましたが、戦国時代は武田軍と戦った庵原氏の居城でもあったはず。現在のものは最近でしょうね。
10月29日に地元の人達が奉納舞する古代様式にのっとった舞台は素晴らしいらしく、時間があれば是非伺いたいと思いました。
下ってからご老人に会い、聞いてみました。『県の無形文化財で必見』との事です。
祭壇は久能東照宮より立派です。本当、国宝指定に沸く『久能東照宮』が恥ずかしいです!
恥ずかしいついでに・・この神社の歴史とか祭ってある本尊など、藤枝市が調べ看板に書いてあった説明書を・・生半可に読んだので詳しい説明を出来ないモドカシサ 私も間が抜けている!
この高根山を境に西は家山から川根・井川へ通じ、北は静岡から安倍奥、井川へそして甲州へ通じる。
戦国時代は、武田軍、諏訪軍、庵原軍、徳川軍の山中に於ける要所だったのですね。
それにしても標高八百数十メートルの高根山とその向かいの高尾山は、ハイキングにうってつけの場所です。お寄りになることを薦めます。麓は、藤枝市の水源と思われる瀬戸川の最上流域ですし、これからの芽吹きの春は・・・素晴らしい景色になると思います
久し振りの快晴の中の、楽しいハイキングでした。
体重は・・1Kgも落ちませんでした
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2012.03.21.
Yoh-M.
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お彼岸ですね~
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友人の死もありましたが、ちょっと悪口言って元気になります。
暗い冬でしたが周りを見渡すと早、桜もチラホラ。
日曜日は親戚の法事へ家族揃って出席しました。
子供等の成長を見せる意味もありましたが何より久し振りに会う人達との会話を楽しみに出掛けました。
叔父、叔母皆元気でしたし、従兄弟たちも相変わらず。大伯父、大伯母の27回忌と33回忌でしたから、まあ、お祭りのようなもの。更に口の悪い連中が揃いましたから会話も左右から攻められる感じの法事でした。
さて、今日のブログの趣旨は『坊主丸儲け』。
今回の親戚の家業は我が家系に多い医師ではなく・・地主。まま小作農地主といったところでしょうか。
法事の開始に当たって、坊主の簡単な説明がありました。
宗旨の異なる人達が集まっている。と、気を利かして説明に入ったようでしたが、私としては初めてお目に掛かる、その坊主の口の利き方から気に入りませんでした。
内心、これはタイシタ読経も出来ない『クソ坊主』だな?とたかを括って式に参列した次第です。
小作農地主といっても2代に渡って寺総代を務めている親戚の家。
それなりの説明主旨から入るのが、寺を任されている坊主の役目であるのに・・いや、期待を裏切らない『クソ坊主』の出だしでした。
大伯父の葬儀の時の記憶では、古い本堂、くたびれ果てた庫裏、掃除も行き届いていない状態のトイレ、寺門さへささやかで、庭は暗くいかにも大山奥の廃寺の風情を記憶していたのだが・・
何と古かった本堂、建物、周りの風景と遮断していた塀さへ取り払い、庭には花壇さへ作ってあったので驚いていたので・・総代を務めた親戚は大変だったろうな。と想像に難くありませんでした。
あげく、会いもしていない坊主は『クソ』。であると予感していたのです。
いや~・参った。本当の『クソ坊主』でした。年は私より少し若いぐらいで、運動不足が目立つ男で、朝夕のお勤めも大してしていそうもない感じの男でした。
はは~ん・案の丈・読経がはじまるとボロが出るものですね。
身延山で修行した。と本人は言っていましたが、身延山の修行って好い加減なんだな~・
読経位諳んじてやれよ!
我々は渡された経典を読みながらの読経だから・・坊主の間違いが分かってしまう。
親戚の叔父、叔母達の声の方が目立ったのである。
私の宗派でよく読経される観音経ぐらいだったら諳んじているが、法華経の中の一部は読まないと分からない。が、坊主は『クソ坊主』であってもしっかりやって欲しいのである。
読経が終わったら、少しはマトモナお説教があると思ったが・・クソ坊主らしく・間抜け面を向けただけで終わってしまった。
更に頂けないのは、花粉症だからと口実付けて墓へ線香を手向ける際の読経をしなかった事だ。私の寺の法事では有りえない事だ。キリスト教であろうと同じであると思うが残念であった。
こんなことも手伝って、坊主への悪口。
私は街中に住んでいる。
街中の人は皆知っているだろう。諦めているのかも知れない。
最近、寺という寺。宗派関係なく本堂の屋根吹き替えしたり、山門を新しくしたり、極めつけは庫裏。坊主家族の住居を物凄い豪邸にしている。
私の町内にある寺も、坊主が婿坊主故だろうか・そんなに古くはない庫裏を、本堂より大きな3階鉄骨立てに作り直している。まあ、あきれるな。
私の寺でも何とか費。と称して総代が戒名に応じて金額を定め振込用紙を送ってきた。
私は屁理屈屋。振込用紙が足りない。と伝え、振込み期間も5年にした。
聞けば、葬儀払いをする会館を作る費用だそうだ。
本堂裏に豪華な庫裏を建てたばかりなのに である。何も払いの席もその庫裏を利用すれば充分出来るわけである。
然しながら、我が寺も子供等は坊主を嫌って家を出ている。跡を継がないなら本山から違う坊主が来るだけだから別に構わないが・・
現在、寺も殆どが世襲制。になりつつある。
坊主どもの多くは若い頃、教師をしている者が多い。頭髪なびかして、葬儀があると自転車で戻る奴らが多い。そして公務員定年してから毛をそって坊主頭になる奴が多い。
現在、政府は年金と社会保障の一体改革。なんてクダランお題目を唱えている。
そんなことよりこれら、社会に蔓延する悪徳『クソ坊主』共から税金を分捕れ!
現在の日本仏教は宗派を問わず堕落している。
実に堕落している。女房共を見れば実に分かる。クソ坊主の女房にチャラチャラマダムの多い事・・
本山で修行といってもたったの1ヶ月、3ヶ月、半年単位が多い。
教師を終えて、1ヶ月遊んだだけで檀家からは『ホウジョウサン』と呼ばれる?
教義を生噛りで聞かされる檀家衆は大変である。
法事の出席者に医者が多いのに・・病気にならない説教をする??
美術家がいても文化をノタマウ。
今日、宗教が伝えてきた事柄は・・科学が解明してしまっているのである。
宗教の意味さへ真摯に勉強しない『クソ坊主』が『丸儲け坊主』が多すぎる。
お釈迦様の掌は宇宙である。と、仏教では教義されているが、科学はブラックホールを見つけ何億光年先の太陽恒星らしきをも見つけている。
他の宗教にしても同じ。
特にキリスト教は自らの教義により科学を作り、教義の先を科学者、即ち人類に越されてしまった。故に、カルトが増殖しているのである。
ともかく、現在の坊主の殆どに『クソ』の形容詞を付けて良いだろう。
原理主義の悪影響は感じる。分派活動による不節操も感じる。
それは『クソ坊主』の増殖に繫がっている
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2012.03.20.
Yoh-M.
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前回の「この時期、友人の死」では、余りにも亡くなった友人の事に触れなかった。
自らを反省する上で実に参考とすべき友人である為、改めて敬意を表わすと共に記してみたいと思う。
3月8日、かねてより闘病中だった望月嘉昭さんが亡くなった。昨年末初孫が出来喜んでいたとのことでしたが、癌に勝てず享年67歳。
この望月嘉昭さんは、信州の大豪族望月家と武田信玄弟信繁の血を引く人でして、武田軍が駿河侵攻の際を同じくして旧清水市の水源地(山梨県との境界)辺りの山々と里に残った人達の末裔です。
静岡市、旧清水市では龍爪山という立派な山峰が鎮座しておりますが、その中腹には龍爪神社が有り、戦中は武運を祈る人達が参列をなした写真が残っている由緒ある所でもあります、現在はハイカーがひっきりなしに訪れる所ですが、実は、この龍爪神社は、武田軍が駿河侵攻の際、要塞として築城した城跡なのです。
通常、この龍爪山へ登るには静岡市側より入山するのですが、知る人ぞ知る道がありまして、それこそが友人、嘉昭さんの先祖が造った林道です。この神社から清水・興津川まで通じており、嘉昭さんの代になって、この環境にキャンプ地、市民憩いの場を提供しております。
静岡県中部地区に於ける望月家のご三家はこの興津川沿いにあり、望月姓を名乗る殆どの家はこのご三家からの出自という歴史になります。興味を覚えるところですが、武田軍崩壊からの清水・望月家代々の苦労が並大抵ではなかった事は、想像に余り有るところです。
山々を管理し、川の暴れるのを押さえ、僻地故の資材、土地提供、道路、橋建造、寺院建立、教育、林業、農業普及と、嘉昭さんが代々より受け継いだ肩の荷はいかほど重かったか。今、彼が旅立って思い知らされています。
昨今、特に戦後の林業の荒れ振りは酷いものです。
昨年の台風で荒れた山の状態を間近に見ます。「恐ろしい東京スカイツリー」と題したブログの中の大内観音さん、一本松、柏尾、日本平。これらの現在の山中は倒木によって未だ荒れた状態から抜けていません。興津川沿線の山とは峰にして3つ程の距離の山は未だ荒れ放題です。
が、嘉昭さん達、興津川沿いの山々では既に多くの倒木は除去され、みかん農家、茶農家も立ち直っているように見受けます。彼の葬儀では、こういった山に携わる人たちから彼への厚い感謝の気持ちが語られました。
弔辞では、妙心寺派管長河野太通師からも御礼と感謝の言葉が寄せられ、その言葉の中には寺総代への感謝は勿論の事、国土に対する取り組み方にも述べられていました。
ちなみに彼の寺は起雲寺と言いますが、元は現在の西河内小学校の場所であり、その小学校は現在の西里キャンプ場駐車場にありました。双方共に、お父上と嘉昭さん二代でなしとげた事業です。お寺は高台の嘉昭さん自宅近くへ移しております。
最近の山里の荒れ方は顕著です。
大きな理由に、跡継ぎの放棄があります。また、土建会社への売却で土砂採掘場になったり廃棄物置き場になったりの問題山積みです。
単に山里と言いますが、皆さんはどのように捉えているのでしょう。
山を歩いて少し変わった石像仏等に出会いませんか?
牛を描いた石仏。馬の形をした石仏。日本のあらゆる里山に祭られることなく眠っていると思いますが、これは、以前、牛馬の力を利用して林業が成り立っていたことを示す証なのです。
急峻な山道から切り倒した木々を、牛馬と人間が力を合わせて川まで下ろし、筏にして町まで送った証なのです。
昔の人は凄かった。では済まされません。今日では牛馬以上の機械が、無人ヘリコプターまで利用できる時代なのに、跡継ぎには諸問題があり簡単ではない。経済優先、何でも権利の社会がそうなったのです。
我が友人、望月嘉昭さんは寡黙でしたが野球では3番を打っていたスポーツマン。私とは中学で同級でした。現在、彼の家から私共の中学まで、車で約80~90分。55年も昔の事、朝一番のバスで学校へ、野球部活動して最終バスで。という、想像するだけで頑張り屋さんだったのです。然も、一日も休まず通った男でした。
彼の精神には自然への責任感と国土への思いが溢れていたと思います。そして・・我々友人が思う以上に壮絶な闘いだったと思います。心よりご冥福を祈っております。
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国土荘厳。
心を清める掃除の精神をも含みます。信仰の深かった彼を暫く思う事でしょうが私もいつか彼に追いつけるよう、自らを奮い立たせる想いです。
死しては、何も残りません。が嘉昭さん、大きな課題を残してくれました。
死が何かを残す。ので有れば、人間踏ん張らないといけませんね。
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2012.03.15.
Yoh-M.
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