絵、大好き・Yoh-Mのブログ

ジャズ聴きながら絵を描くYoh-Mが、自身の頭の整理の為に書くブログです。

権力と大衆の迎合はメディアの責任

2011年08月22日 | アート・文化

タイトルは、

「権力と大衆の迎合はメディアの責任」としたが、これだけの言葉だと受け取り方によって真意が伝わらないように思える。

単に「メディアの権力への擦り寄り」、「メディアの大衆ごまかし」

とメディアを主に取り上げた方がこのブログについては真意が伝わると思うので、そんな感じでお読み頂くと幸いです。

最近も最近、テレビで国民は、菅総理と孫ソフトバンク社長の『親密振り』を目の当たりにしました。

まぎれもなく、太陽光パネル電力シフトへの『談合』の結果での親密振りでした。

菅総理はVサインを送り、孫社長は何度も深くお辞儀をしたあげく・・その場から直行で韓国大統領を訪問し、『太陽光パネル大量供給依頼、そして確約』を取り付けた事が、外電で伝えられましたが、

日本メディアでの記事扱いはまことに小さいものでした。

いくらソフトバンク社長孫氏とて、急遽の訪問で韓国大統領が会見に応じる。とは考えにくいです。孫氏が朝鮮人だから会った。という事もスケジュール的に考えにくいです。

つまり、菅総理による日韓政府による根回しがあればこそ故の、『孫民間大使?のデモンストレーション』でした。脱原発、太陽光電力の推進で菅の人気取りと孫のソロバンが合った訳ですね。

2011年5月23日(月)の参議院・行政監視委員会は、孫氏を国民に知らしめる為のデモンストレーションだったのです。

小出裕章京大原子炉教授、後藤政志元東芝原子炉設計者、石橋克彦原発震災学の3名の方々の重要な意見を聞くことも出来ましたが、孫氏がその委員会に出席した理由は分からず、結局は『脱原発の顔』として、菅内閣が仕掛けた巧妙な委員会だった。

と、結果として評価せざるを得ません。

この件について、日本メディアは、孫氏の行動を詳しく報道していません。

孫氏の考えは

日本放棄農地を主体に《韓国製太陽パネル》を大量に置き、電力を供給する。

との考えでした。

* 然し、現状を見れば、放棄農地はへき地と呼べるような地に多く、獣等も里山へ下っている現在・・一体誰が管理するのか。*

との疑問が湧きます。が、菅総理も孫氏も『雇用の創出』を得意げに喋っています。

ふざけるな。です。

孫氏は韓国製太陽光パネルで『大儲け』だけを考え。菅総理と山分けを考えている。

アフターケアー、パネル破損、電線破損に伴う管理、ごみ処理についての提案理由一つない。

日本の土地を壊滅的にする、この孫氏の『儲け主義』。

『懐具合』だけを気にする、菅総理の売国奴的考え方。

メディアを名乗る連中は何故、この二人の発言、行動を検証し、国民に知らしめ、批判しないのか・・。

テレビに映る連中は飼い犬同然なやつ等だから相手にはしないが、新聞は???

ネットでしか批判は見られない。

メディア人間は、権力に寄り添い、儲け主義者からのおこぼれを期待する・日和見主義者の塊。と、この件については決め付けて良いのではないだろうか。

ソフトバンクは、震災後の東北地区へ携帯電話の為のハード面への再構築資本投下に力を全くいれていない。一兆円もの借金があるから。という屁理屈も当然だろうが、孫氏は個人資産300億円を寄付する。とも言っていた。

売名行為もいい加減にせい。である。

寄付した形跡がいかなるメディアからも報道されていない。これまで、孫氏から出た発言は総て大風呂敷で誤魔化しているにすぎない。

王貞治氏を利用しているに過ぎない。

メディアは大風呂敷を広げる奴を叩く必要があると思うが・・ヘツラウ理由は何処にあるのだろうか・・?  父さんワン公の宣伝費欲しさ故か。

さてさて、メディア、報道とは恐ろしいものだ。

冤罪に手を貸しているのもメディアだ。お笑いを提供する裏で、平気で罪に加担する。

戦前、戦後の頃にも酷い事があった。

芸術面でもあった。

以下のことを書いて、今日のメディア批判を終わるとする。

かって従軍戦争画家と言われ、駆り出された腕達者な画家達は、

戦後、クソバカ左翼と言う名の日教組、労組を中心とした理性を失った連中からは怖ろしいほどに、なぶり者にされていました。

思想も理念もない民主主義という御旗のみで・・教育も受けていない小僧っ子共に、人格も、家族と住む家さへ追われた画家もいました。

が、

画家という人種は、物事の核心を描く本能を持っています

藤田嗣治、宮本三郎等特筆する天才は、今日ダ・ビンチに匹敵する絵をこの戦争で残していますが、バカ日本人には分からない。分かろうともしない。

ゴヤ、レンブラントと同様に、日本人の誇りを持って国家を代表して絵を描いた。同時に、人間として伝えるべき戦争の悲惨さをも描いていたのです。

従軍画家として駆り出された日本人絵描き達は、悲惨な状況をものの見事に、いや、尊厳に値する力量で数多く作品を残している。この為、彼等は、戦争末期には帝国陸軍の軍事裁判へ掛けられる立場にも追い込まれていた事実も有る。

が、『山下・パーシバル会見』『真珠湾攻撃』に代表されるように、日本軍を鼓舞する傑作をも描いていたから、見識の有る高官が守ったのだろう。

何とか戦後を迎えるに至った絵描き達ではあるが、左右の双方からの余りの攻撃に、

藤田は日本を捨て一度も帰らずパリに永住し、名前を『レオナルド・フジタ』とした。

宮本三郎は天才とも言われた素描を見せることを止め、画風も印象派に近い裸婦を主に生涯を送ったのです。

今でこそ従軍画家が残した作品は、彼等の死と共に、美術館へ納められるようになっているが、権力と大衆とメディアは・・つくづく酷いものだと思う。

つまり、そういった、作者個人の葛藤とか、後世の為に作者が残した作品群を見る事無く、上っ面だけで賛美したり批判するのだ。

くどいようだが、従軍画家達の多くは、

戦時中は、参謀本部の顔を伺うメディアによって賛美されたと思ったら、戦後は徹底的に非国民扱いされたのである。

戦後の乞食左翼連中は社会党左派、日教組、国労(JR総連)となって赤軍派を育て、現在の民主党にもぐりこむ連中は、拉致被害者に冷たい菅政府を取り巻いているのである。

この時代だからこそ、従軍し命を削って描いた画家達の作品を・・是非、見てください。

西洋美術館に納まっているヨーロッパ絵画より素晴らしい作品が何点もある。

従軍せず、戦後になって踏ん反り返る輩も知っている。

政府が意図的に今日になっても傑作作品を隠そうとする動きは、自らの立場を守りたいが為の絵描き達と繫がっている。即ち、芸大学長を2回もやった平山郁夫等である。

現在のお粗末さ、情けなさ、嘘に固まった日本が見えるはずです。

今回は、菅総理と孫氏の繋がりからメディア批判に及びましたが、

角度を変えて又批判してみます。

その事が、若者達の将来に何らかの影響を与えられれば・・・との考えで・・

                       2011.8.22

                            Yoh-M

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友人の若き頃の冒険

2011年08月15日 | from 清水港

私の友人で、

チョット面白い意見を持つK君という高校同級生がいます。

その彼の・知られざる過去を昨夜聞きまして、『やはり、なるほどな』と、感じましたので

その彼の若き頃の、さわりを少しばかり紹介しましょう。

1970年代まで、日本はまだソ連(現ロシア)とは国交がある。なんて言えない時代でした。

資料によると、日本⇔ロシア間の飛行機相互乗り入れは、1967年。それも貨物機のみ。

日本人がヨーロッパへ、特にパリへ向かう方法としては

1、明治以来からの汽船又は貨物船にのって、スエズ運河、マルセーユ経由利用。

2、高い運賃を払って、始まったばかりのアンカレッジ経由日航機利用。

3、汽船より早くヨーロッパにたどり着きしかも一番安価な、シベリア鉄道利用。が、身の保証なし利用。

で、

私が滞欧の為選んだ手段は・・3のシベリア鉄道利用。

案の丈、山下桟橋からロシア船に乗ってナホトカへ下船した途端、カメラとスケッチブックは取り上げられました。

既に、学生時代の休みを利用してモスクワへ旅している大学同級もいましたが、聞かされていた通りの、背中に絶えず危険を感じての旅になりました。

こんな青春時代の思い出を話しても、今となっては単なる親爺の回顧さ。

と、思われてしまうのは分かりきっています。

何せ、今のご時勢、右も左も分からない子供の頃から、連休となれば家族旅行と称して世界の各地で金をばら撒く親と成金宜しく振舞えるご時勢だから・・

昔の話を言っても無駄と言うものです。又若き頃、そんな旅をした同世代も少なく、まして高度成長時代を謳歌した同世代に、無銭旅行に近い話をしても無駄。と言うものです。

が、

そんな中、50年近く付き合っている友人が・・私と同様にシベリア鉄道での震える経験をしているとは。

更々に、私が行けなかった、透明度の大変高く水も大変に美味しい。と言われた世界の『バイカル湖』へ、あのソヴィエト時代、車に乗って見物していたとは。

高校時代、生徒会委員長へ立候補し弁論豊かだったK君なら・行ったろう。とも想像するのだが、現在の彼は、面白い意見の持ち主とは云へ、奥様の尻に敷かれる様を知る私としては・・

まいったな~~》である。

然も、イルクーツクからの列車がない為、強引に貨物飛行機を手配してナホトカまで飛ばせ、そして横浜への帰国の途にこぎつけた。と言う。

当時のソヴィエト、アエロフロートはベニヤ一枚にブリキを貼った程度の飛行機を飛ばせていたのだから・・K君は実に良い度胸の持ち主だった。

人は話さないと分からないものである。

身近にいる友人に・・・まさかの歴史があった。

私なんか、当時のソヴィエトで車を手配したり、貨物機を強引に手配したり

とっても恐ろしくて出来ない。と脅迫観念さへ持っていたので、K君を見直してしまった。

私より以前の世代の人達には、それはもう『猛者』がウロウロ大勢いるでしょうが、東西冷戦時代を肌で知る者の一人として、K君の冒険旅行は聞いていて、とても気持ちの良い話でした。

一人での旅行が基本なのに、一人で行けぬ、行かぬ現代の若者達。

これからの厳しい時代を迎えるに当たって大変心配になった。

せめて、K君のような『向こう見ず旅行』を行動に起こして貰いたいものである。

                        Yoh-M.

追記;

団体行動を重んじるが余り・・世の中はおかしくなる。

例えとして;戦前、軍幹部。現、政府&官僚。

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尊敬する画家、福本 章 さんの死。

2011年08月01日 | アート・文化

7月6日、到々その日が来てしまいました。

私の大好きな『画家・福本 章』の今生最後の日でした。

若き日から数々の逸話を残した日本人を代表するアーティストの福本さん。

最後の最後まで権力にシッポを振る、「日本画壇」を相手にせず自己と光を追い求めた人でした。

その為、作品制作への時間の掛け様は追随を許さず、家族へ残す作品さへ手元にない状態です。

画家にとっての命の色と線に、これからもっともっと花開く人だっただけに惜しむ事人一倍感じます。

人類に歴史がある以上、絵を描くという作業、それも特性を表現する。という難題は他の芸術部門よりも厳しい分野である。と言うことを、皆様には知ってほしいです。比較する作品があり、結果として前人と比べられてしまいます。

然も、個人一人だけの闘いであり、今日では、最初のスタート時はどんな天才であっても誰かと比較され悩む事必定です。

それ故個性という特性は、他の分野と大きく異なり、評価は100年後の後世に委ねられる芸術こそが絵画です。

芸大在学中の林 武 教室時代から『第二の麻生三郎』と言われ、その内面の持つ表現はデッサン、油彩下描きに専門家達は、将来に大変期待し、期待に応えた稀有な画家です。

明治、大正生まれのそれまでの洋画家達とは明らかに異なるその感性は、画壇と呼ばれる日本独特の風土を嫌い、渡欧しパリに永住したことです。この20年は有名な写真家ドアノーのアトリエを買い取り自身のアトリエとして使っていました。

昭和6年生まれの福本さんが現地で感じたカルチャーショックは、私共戦後生まれの人間には想像のつかない程大きく、肌を持って知らしめられた事と思います。彼を頼って渡欧し、中途半端なまま日本へすぐ戻る後輩達が芸大、美大で教鞭を取る日本画壇の風潮を大いに嫌い、その職につく連中とは一線を引いていました。

つまる処、

絵を教え始めたら作品がダメになることを知っていましたし、勿論、何回も依願されたようですが金銭で安定を甘受するより、制作に命を捧げたのです。

福本さんが渡欧後、「フェルメールは良い。」「スタールは良い。」と後輩達に伝えた事から、現在、日本ではフェルメール人気が異常です。この事実をもってしても、いかに福本さんが日本美術に影響を与えていたか、その影響力が解ります。絵描きとしての眼力の凄さを感じます。

日本では、評論家が巾を利かせていますが、絵を描かない連中に眼力は備わりません。本当の眼力の持ち主は、制作に苦労を重ねている人達だけに与えられています。

然しながら、

福本さんの含むところは、宗教的要素を持たないフェルメールの色彩を好んだ訳でして、一点透視図法(カメラと同じ)のフェルメールに同調することはありませんでした。むしろ福本さんの歩んだ作風は、抽象的な構図を残しながらも具象絵画として作品構成に生涯を捧げた。と言って良いでしょう。

半抽象絵画、半具象絵画と言われる先端を走った人でした。更に、渡欧直後から今日までの間、色彩構成は時代と共に、年齢と共に変化しました。が、下地に隠された人間性は一貫して強靭な反骨精神に溢れていますから、今後の日本美術に大きな影響を与えるのではないでしょうか。

穏やかで上品な色に隠された、引き裂くまでの線。2枚と同じ構図を避けた激しい性格を普段見ることはありませんでしたが、下地の作り方から下地の色まで知っている私には、非常に好戦的な絵画として受け止めております。

同世代の絵描きさんに聞くと、今の時代では考えられない事件らしきものを起こしたり、喧嘩も相当強く、芸大の歴史上では特筆される若き頃だったようです。

そんなですから、私如き若造にもニコニコと接して下さり、絵に関しては目で厳しく語って呉れました。

さらに、福本絵画と呼ばれるようになるまでは

キリスト教的歴史背景を持たない日本人故、相当な苦労をした事と感じます。が、今日に至れば、福本絵画は日本でもヨーロッパでも即ち『FUKUMOTO』、『FUKUMOTO'S BLUE』と称されるように、作品を一目見れば明快です。

この事は・・独自の絵画世界を確立した評価として残ります。

逆の見方をすると、若い画家達には又一人、大きな壁が目の前に立ちふさがってしまった事になります。私の戦いも継続です。

ヨーロッパで勉強する日本人美術家は非常に多いです、が今尚、広重等浮世絵師以外で評価を与えられている作家はほんの僅かです。

私には、フジタ(藤田嗣治)、キムラ(木村忠太)、そしてフクモト(福本 章)の三名以外名前が出てきません。

文化勲章を受けた人達でさへ日本国内だけでの評価です。芸大で2回も学長を務めた平山郁夫氏はフランス政府より勲章を受けましたが、それは大金を支払って美術館を借りた事への感謝表現であって、実際、作品は一枚も売れませんでした。つまり、評価されなかったのです。

上手く器用な画家達はゴロゴロいる訳です。こんな事を知っている人達は、芸術家・福本 章に敬意を払うわけです。

伝統あるヨーロッパ絵画から脱却して独自の作風を確立する。もの凄く厳しく恐ろしくもある人生です。そんな、福本さんに、私は渡欧した若い時から知り合い今日までお付き合いさせて頂きました。心より感謝しています。

福本さんの大親友の作家、辻邦生さんも既に亡く、奥様さへ知らない若き頃の作品を見ている少ない人間の一人として、今後も福本さんとの繋がりを大切にしていくつもりです。

私が影響を受けた画家は、中学での恩師市川正三。中央画壇と決別し独自に活躍した杉山茂。そして麻生三郎と福本章。

親爺と同年の麻生さんからは、「感性は線に出る。」と話され、時代を常に厳しく見つめるように話されました。みかん箱に座って茶碗酒を飲みながらの印象に残る言葉でした。

母と同年の杉山さんからは、「速描が命。」と感性を生かすも殺すも早く描くことが身を守る、と。杉山さんは、登山家としても一級の人でしたから自然に対する感性の鋭さと、生きる事への執着心を叩き込まれました。

叔父世代の福本さんは・・言葉ではなく、それは厳しく目を細めてダンマリ。ジーット作品を見てくれている時は、ある程度の合格点を呉れたと勝手に受け取っています。

安井賞作家の市川さんからは、中学生の時、「ガラス」と「ガラス越し」の絵を書け。と基本を叩き込まれました。鴨居玲さんと大親友ですが、二人とも早世してしましました。

想像するに福本さんは、麻生三郎さんとド・スタールを相当意識し、彼等の作品との戦いから『FUKUMOTO』絵画を確立したと思います。

私自身はこの4名とまず戦わないと、『Yoh-M's ART』への確立が出来ません。時間は限られているのです。何故拘るかというと、彼の地へ出向いた際、彼等と又大酒を飲みたいからです。

寡黙という表現で福本さんは表現されます。が、私にはキャンバスへの下描き状態。をダマッテ見せてくれました。通常、決してありえません。プロは教えません。私もです。

ちなみに、フジタ(藤田嗣治)が残した油彩画教本、「油彩画の描き方とその方法。」(題名:ウル覚え)では全くの嘘が書かれいる筈です。フジタの書いた通りに色を作ると、有名なフジタのクリーム白色はどうしても出ません。

フジタは『自分で研究、努力せい』と言ったにすぎません。

そのように、プロとは決して自身をさらけ出しません。社交界で人気者だったフジタ、そしてやはり人気者福本さんが、夜中から昼間までぶっ通しで筆を握っていたことを知る人は、余りにも少ないです。

人は誰しも好みの絵なり色があります。

福本さんの作品がこれからどうなるかは大よそ解りますが、世間一般には・・

福本絵画の真似なり、色使いの増えることが想像できます。現に、色んな絵画展に行くと真似らしきゲテモノに出会う時があります。少し聞いてみれば、講習会で教える人の絵が福本さんの真似であったりします。然し、福本さんの微妙な色彩は模写できない

著作権云々は面倒なので、まあそんな人達が増えたことを内心喜んだり、軽蔑したり思いが錯誤します。

つまり、知らない処で福本さんの作品は絵の愛好家?に支持されている事になります。

福本大好き人間の私ですが、自身の作画に関しては大変です。

福本、杉山、麻生。これらの人達の作風を避け、尚且つ自分を出す作業は、日頃からの観察だけが頼りの大変な作業なのです。

写真の用に描くことはイージーです。時間さへあればそう難しい事ではありません。

が、そういう絵は古今東西、ゴロチョンと大勢のテクニシャンがおります。

私が好きな絵描き達。そして福本 章さんもデッサン力は素晴らしい、が、写実の技術だけに頼る考えは持ち合わせていません。

昔のパトロンの為の優れた絵画は美術館で鑑賞すれば良いわけです。

一生を掛けてその人なりの格闘を終え、後世に評価が確立する。

地獄も見るが、カオスを飛び越えた喜びは・・それだけは制作者の喜びと想像に値します。

福本さんは今頃、親友だった辻邦生さんと再会しているでしょう。

辻さんが所有していた、朝、昼、夕のパステル三部作。目に浮かびます。

その辻さんも望んでいた雲間の虹の作品は、私の手元にあります。

私の親友に押し付けた作品・鳥の背中に乗って、今頃楽しんでいるのかも知れない。

が、大酒飲みの福本さん・・・昼寝かも知れない。

まだまだ色気たっぷりで画面の色も艶々の福本さん。

チョッピリ早かったな~

福本絵画は初期、中期、後期で作風が異なります。人間、当然です。

デッサンも又異なります。

愛好家達も多く今後、福本展が各地で企画されるでしょう。が、私は貸し出しはしない事にします。但し、奥さんも知らない作品は、奥さんとお嬢さん(ハープ演奏者)だけにお見せするつもりです。

ちなみに、近代美術館、大原美術館には福本作品がありますので、機会がありましたら皆さんにもご覧頂きたく思います。

現世で有名であろうと無かろうと、個性ある作品は残ると考えています。

間違った考えの個性とは異なる、過去と対峙しながらの普遍性を少しでも色、線で表現し、将来又福本さん達と語り合いたいと、今は、歯軋りしながら頑張りたいと考えています。

時間の逆算。

福本さん、市川さん、杉山さんはどうも誤った。

ここだけでも追い抜く気持ちで日々喚いて行こうと考えています。

              平成23年8月1日

                      Yoh-M

初雪の北岳パッドレス・Yoh-M

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