絵はサイエンス。絵はテクノロジー として書きます。
文系人間、理系人間関係ない。として書きます。
2012年も早四月。
昨年の震災より、日本人の体質に変化が見えません。
最近の野田総理の消費税法案にしても一定の理解をしますが、都会と地方の世論には余りにも差があると感じます。
テレビに顔を出す常連は政府・役人の広報となり下がっており、実質の国体経済を支える地方の状況を理解しようともしません。そして、そんな連中に操られる首都圏住民からは、消費物価々格云々だけの発言だったり、権利だけを取り上げる状況が伝えられるばかりです。
北朝鮮の『衛星』発射問題に関しても、テレビで発言する主婦達からは『迎撃準備は税金の無駄遣い』と多くの人が言い、あきれ返るばかりです。朝のクダラナイ・ワイド番組が煽っているのだと思いますが・・
そんな現代の日本人風潮に疑問を持つ者です。
就職難は現在も続いておりますが、日本人はどういう訳か、人を『文系』『理系』と区分けして判断するように教育されているようです。
私は、民間がシッカリしていれば現在の政府は不必要とも考えますが、その民間人、あえて言えば、『私は企業人で有る。』と自惚れる人達にこの傾向は強く、あえて書いています。
多くの日本人、あるいは人間の勘違いの中に、『文系人間』『理系人間』と区分けする人の多さに驚く次第です。
将来の生活を見れば、希望職種の選択の多さを見れば、点数のいい人間が良いポジションに着く事は理解できますが、果たしてそれだけでしょうか?
企業経営者は経済の事を理解しなければなりません。が、経済は数学、統計を理解しなければなりません。が、日本人は経済を勉強する人を文系人間。と区分けします。
実に不思議な現象です。
組織のシッカリした大企業はともかく、経済、主に営業担当上がりが経営トップを勤める企業の方が業績は良いのです。
近くにいる人間で中高ではトップランクの成績、東大医学部は確実と言われた人が2年連続不合格でした。
この学生の親は知り合いですが、残念ながら東大というネームバリューだけに捕らわれていた教育熱心な人です。この人の持つ感覚は日本人全体に蔓延しているのではないでしょうか。
疑問はこの知り合いに向けたものでは、決してありません。然し、医学を志すのであれば東大という名前に拘らなくとも良いはずです。天皇の手術担当医が良い参考です。
現在の就職問題にも同じ事が多々言える筈です。
イワユル文系学部を卒業した学生に技術を叩き込んで見て下さい。
イワユル理系学部を卒業した人の落ちこぼれ、転職の多さを見て下さい。
『ボタンの掛け違い』とは、文系人間、理系人間と区別する事から始まるようです。
さて、今回は 『 絵はサイエンス 』 と題してます。
多くの人達は、絵描きは文系の代表。と勘違いしているのではないでしょうか。
顔料、即ち絵の具がどうして『絵の具』と呼ばれるのか・・知っていますか?
日本画、水彩画、油彩画、テンペラ画・・・顔料、即ち絵の具はどこが違うのですか?
日本画の絵の具はどうして紙、絹に描かれるのですか?
油彩画のキャンバスはどうやって作るのですか? テンペラ画はどうやって描くのですか?
絵を描く上で基本的な事柄は・・文系ではなく理系。即ち、『サイエンス』を理解した上で『テクノロジー』が個人の特性となります。
油彩画で市販されている絵の具は、何でも混色していいものでは有りません。
『素人だからそんな事は理解できない』と言う人が多い。
何故、もっと追求する姿勢を持てないのでしょう。
ルネッサンスと呼ばれる時代以前の絵はどうして知られていないんだ?
ルネッサンス期の作品の多くの絵の白色は・・何故、同じ白色なんだ?
その当時、色は(顔料)は何色有ったんだ?
ダ・ヴィンチとて写真機を利用していたではないか?
その当時写真機はあったのか? レンズは何時からあったのだ?
レンブラントの有名な黒は、黒だけで何色あったのだ?
フェルメールの有名な『デルフト風景』の濃茶色。当時そんな色(顔料)が有ったのか?
フェルメールの作品は完全に1点透視図法ではないか?
明治期の日本人油彩画家達の作品は、何故、同じ色が目立つのだ?
批評家といわれる連中、学芸員と呼ばれる連中。上記の事には応えられない。
更に言う。
先頃預かった今は亡き文化勲章受章者、小磯良平の作品。
非常に有名作家で値段も高すぎる作家。前々より、彼の作品の割れの酷さは聞いていたが、余りの惨めさ。サイエンスを知らなかった絵描きの代表だろう。よくもまあ、芸大教授をしたものだ。
こういった表面的な事柄ばかり繫がるから・・絵描きは文系人間の代表。と言われ、メディアがそのように書き、教壇に立つ馬鹿なヤツが、日本人の感覚を麻痺させていく。
ダ・ヴィンチ、レンブラント、フェルメール。昔の絵描き達は科学者の目を持っていたのです。
ついでに言います。
ルネッサンス時代、アートとか芸術といった名詞はなかったのです。
『アート・サイエンス』・・この名詞こそがルネッサンス時代の芸術への呼び方だったのです。
↑ つまり、サイエンス(科学)が解れば絵を描くことがより楽しくなり、他人の絵を見ても嬉しくなるのである。
人間の感覚は、サイエンスとテクノロジーに裏付けされなければならない筈。
例えば、抽象画を描いてみると良い。
良い出来だ。と自画自賛しても、過去に同じような作品を描いた作者を見つければ・・落ち込むこと必然である。
人間の単なる感覚。なんて屁のようなものだ。
イラストで有名になった作者がいる。が、流行に乗せられるだけがオチだろう。
『絵を描くことは、坊主の修行より苦しく、単なる理系の論理より複雑であり、哲学を越えた作業だ』
即ち 『無駄な作業』 という事になる。 但し、これで生活しようと思う人間は 『 売名 』 に走れば宜しい作業である。
が、歴然とした サイエンス であり、テクノロジー である。
文系の最たる人間に絵描きを含む感覚。 これは間違いである。
故に 『絵は分かんな~~い』 と馬鹿言葉が出るのである。 では、どうすれば良いか。
『絵を描く』しかない。
ま、ここまで来ると問答に近くなってしまうが、少なくとも絵を描くことは文系ではない。
入学先、就職先の選択。点数主義で、あるいは出身学部だけで決める風潮は最悪である。
文系、理系? この言葉がまず最悪である。
良く遊んだ学生、良く勉強した学生を、学部関係なく社会は受け入れなければならない。楽しんだ学生ほど伸びしろは多いと云うものだ。
文系学部へ入学した生徒の中には工作が得意な生徒も多い。
工学部へ入学した生徒の中には漢文の得意な生徒も多い。
芸大、美大へ行って楽しんだ連中も同じ事。 中途半端な志で職業を選ばない事だ。学生の勘違いも時代を狂わせている一因と考える。
自由に生きる事は、自分勝手に時間を費やし、無駄だった過去を振り返る事だ。
が、死して何かを残す事だ。 そう思いたいが動物のように毛皮さへ残せないのが事実だろう。
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2012.04.02
Yoh-M.
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