絵、大好き・Yoh-Mのブログ

ジャズ聴きながら絵を描くYoh-Mが、自身の頭の整理の為に書くブログです。

小沢氏無罪で感じる日本の体質

2012年04月27日 | 怒りを表現しよう

全くもって世の中おかしい。

権力を持つ人間の暴走が目立ち始めた。

今回の小沢民主党議員の問題にしろ、袴田事件にしろ警察、検察の失敗は『日本の恥部』と言われても仕方の無いことだろう。

京都の若僧暴走によるオゾマシイ交通事件・・連続して、悲しい出来事に・・

追い討ちを掛けるように、

警察と教育者の『被害者家族保護』 『児童保護』 意識の希薄さ。

実に情けなく悲しい。

まず、小沢事件?

私は会計学的に事件とは鼻から思っていなかった。記載日付の些細な掘り起こし。即ち政治権謀術事件とみていた。

小沢氏より多額の政治資金法に違反している連中が・・ふんぞり返って国会を闊歩している。

日刊ゲンダイ、週間ポスト等の記事の中に実名で掲載されている連中の殆どが『反論』さへで出来ないでいる事実が物語っている。

袴田事件は余りにも悲惨だ。

袴田収容者を逮捕した刑事がどんな事をしたか、何でそうなったか。裏で語られている事が噂で伝わってくる。何故なら、袴田収容者は私の土地の人間であり、彼の性格を知る人間は多くいるし、又、署内にも疑問を持つ刑事も実際多い。

が、時間既に経ち今となっては『どう怒ればよいのか』さへも分からない。

彼も、彼の無実を訴え続けたお姉さんも結局、結婚さへもできず不幸な儘、歳だけを重ねた。

検察、警察の上層部に権力意識が強いようだ。 上層部の権力闘争? 又は東大偏重主義が禍を重ねている。

交通巡視員の女共の冷たさは全国的にも知れ渡っているだろう。が、お巡りさんには親しみを持つ。

教育機関でも同じような感じだ。

今回の京都亀岡事件。加害者を、言ってみれば殺人鬼を警察は守り、被害者に深刻な精神ストレスを与える。

お一人の方が、法律家、メディアに対しても『激白』されていた。実に痛々しい姿です。

日本は戦後政治からこうなってしまったのだろうか? 教育者は?

60年安保闘争した年代は何をしていたのか? 70年安保世代は?

小沢氏喚問などと無罪判決が出た現在も云う・・馬鹿な議員が多すぎる日本。定数は半分で充分だ。

取り締まる立場が偉いと思っているのか・・

それとも自ら作った法律で身動き出来なくなっているのが現代日本か?

領土問題にしても同じ事が言える。

人間道理として単純に考えれば道筋は見えるのに、コネクリ廻す連中が多すぎる。

はてさて・・馬鹿げた時代だ。

                          2012.04.27.

                                Yoh-M

P1020367

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自由人へ


国土壮厳

2012年04月22日 | インポート

前回の「この時期、友人の死」では、余りにも亡くなった友人の事に触れなかった。

自らを反省する上で実に参考とすべき友人である為、改めて敬意を表わすと共に記してみたいと思う。

3月8日、かねてより闘病中だった望月嘉昭さんが亡くなった。昨年末初孫が出来喜んでいたとのことでしたが、癌に勝てず享年67歳。

この望月嘉昭さんは、信州の大豪族望月家と武田信玄弟信繁の血を引く人でして、武田軍が駿河侵攻の際を同じくして旧清水市の水源地(山梨県との境界)辺りの山々と里に残った人達の末裔です。

静岡市、旧清水市では龍爪山という立派な山峰が鎮座しておりますが、その中腹には龍爪神社が有り、戦中は武運を祈る人達が参列をなした写真が残っている由緒ある所でもあります、現在はハイカーがひっきりなしに訪れる所ですが、実は、この龍爪神社は、武田軍が駿河侵攻の際、要塞として築城した城跡なのです。

通常、この龍爪山へ登るには静岡市側より入山するのですが、知る人ぞ知る道がありまして、それこそが友人、嘉昭さんの先祖が造った林道です。この神社から清水・興津川まで通じており、嘉昭さんの代になって、この環境にキャンプ地、市民憩いの場を提供しております。

静岡県中部地区に於ける望月家のご三家はこの興津川沿いにあり、望月姓を名乗る殆どの家はこのご三家からの出自という歴史になります。興味を覚えるところですが、武田軍崩壊からの清水・望月家代々の苦労が並大抵ではなかった事は、想像に余り有るところです。

山々を管理し、川の暴れるのを押さえ、僻地故の資材、土地提供、道路、橋建造、寺院建立、教育、林業、農業普及と、嘉昭さんが代々より受け継いだ肩の荷はいかほど重かったか。今、彼が旅立って思い知らされています。

昨今、特に戦後の林業の荒れ振りは酷いものです。

昨年の台風で荒れた山の状態を間近に見ます。「恐ろしい東京スカイツリー」と題したブログの中の大内観音さん、一本松、柏尾、日本平。これらの現在の山中は倒木によって未だ荒れた状態から抜けていません。興津川沿線の山とは峰にして3つ程の距離の山は未だ荒れ放題です。

が、嘉昭さん達、興津川沿いの山々では既に多くの倒木は除去され、みかん農家、茶農家も立ち直っているように見受けます。彼の葬儀では、こういった山に携わる人たちから彼への厚い感謝の気持ちが語られました。

弔辞では、妙心寺派管長河野太通師からも御礼と感謝の言葉が寄せられ、その言葉の中には寺総代への感謝は勿論の事、国土に対する取り組み方にも述べられていました。

ちなみに彼の寺は起雲寺と言いますが、元は現在の西河内小学校の場所であり、その小学校は現在の西里キャンプ場駐車場にありました。双方共に、お父上と嘉昭さん二代でなしとげた事業です。お寺は高台の嘉昭さん自宅近くへ移しております。

最近の山里の荒れ方は顕著です。

大きな理由に、跡継ぎの放棄があります。また、土建会社への売却で土砂採掘場になったり廃棄物置き場になったりの問題山積みです。

単に山里と言いますが、皆さんはどのように捉えているのでしょう。

山を歩いて少し変わった石像仏等に出会いませんか?

牛を描いた石仏。馬の形をした石仏。日本のあらゆる里山に祭られることなく眠っていると思いますが、これは、以前、牛馬の力を利用して林業が成り立っていたことを示す証なのです。

急峻な山道から切り倒した木々を、牛馬と人間が力を合わせて川まで下ろし、筏にして町まで送った証なのです。

昔の人は凄かった。では済まされません。今日では牛馬以上の機械が、無人ヘリコプターまで利用できる時代なのに、跡継ぎには諸問題があり簡単ではない。経済優先、何でも権利の社会がそうなったのです。

我が友人、望月嘉昭さんは寡黙でしたが野球では3番を打っていたスポーツマン。私とは中学で同級でした。現在、彼の家から私共の中学まで、車で約80~90分。55年も昔の事、朝一番のバスで学校へ、野球部活動して最終バスで。という、想像するだけで頑張り屋さんだったのです。然も、一日も休まず通った男でした。

彼の精神には自然への責任感と国土への思いが溢れていたと思います。そして・・我々友人が思う以上に壮絶な闘いだったと思います。心よりご冥福を祈っております。

国土荘厳。

心を清める掃除の精神をも含みます。信仰の深かった彼を暫く思う事でしょうが私もいつか彼に追いつけるよう、自らを奮い立たせる想いです。

死しては、何も残りません。が嘉昭さん、大きな課題を残してくれました。

死が何かを残す。ので有れば、人間踏ん張らないといけませんね。

                 2012.03.15.

                             Yoh-M.

02 ・/

/

/

/

/

/

/

/

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自由人へ


県境・尾根を歩いて

2012年04月22日 | アート・文化

私の住む清水は山梨県と繫がっています。

戦国時代の歴史番組とか映画を見ると、武田軍、今川軍、北条軍の戦いでお互いが常に相手勢力圏へ挑んでいる事が、戦国ヒーロー達と共に描かれています。

が、

現代に生きる日本人である私は、武田軍=山梨県。今川軍=静岡県。北条軍=神奈川県。と言った単純な分け方で歴史を見てきたような気がします。

事実、山梨、神奈川へは自動車で移動する事が多かった為、交通路自体が昔も現代も変わっていないような錯覚に捕らわれていたように思います。

山登りを趣味にした筈なのに、昔への想いとか、彼の時代の人々の発想力にまで想いが行き届いていませんでした。

梅雨時から秋までの山中は、特に最近の山中は以前より虫が多いと感じます。更に、山頂に出れば蝿が多く飛んでいます。

山が整備されず荒れて来ている事に原因がありそうです。又、林、森の中では小鳥が多く蝿は見かけないのですが、山頂には何故か多い。

そんなで、まだ冷気の残るこの時期は、度々山へ入ります。

日帰りともなると近場が多いのは仕方ないのですが、この近場の山が侮れなく、そして最近になって気の付く事が増えてきました。

富士川から西側、地名で言うと、松野~由比~清水~静岡。安倍奥山塊、藤枝~川根。

こう言った土地の山々を、若い頃は体力に任せて歩き廻ったのですが、最近は熊、猪、蛇、蜂、猿にも注意しながら、登っています。

富士山、朝霧山塊も勿論、行動範囲内ですが、いずれの山へ行っても若いときの倍は時間が掛かってしまうようです。

反面、ゆっくり登る事で、歴史的な戦いと古き山城跡等の地理を実際に確認する事で、楽しみ方に随分変化がもたらされています。

昨秋からこの春まで月2日ペースで上記地名の山々を歩きました。

実に楽しい発見をしています。

国土壮厳』で書きましたが、静岡での望月という苗字の人達の大元の家は清水・河内にあります。武田軍の先鋒を務めた家柄なんですね。子孫が現在も土地持ちとして清水に住んでいるのを見るに付け、山を歩くと《な~るほど》と納得できる・・・地理上からの歴史が解る気がします。

藤枝奥の山城からは尾根伝いに山梨、遠州、駿府へ通じます。この藤枝の山城の居住主だったのは、NHK大河ドラマ「武田信玄」では庵原家と設定されていましたが、これはどうもあやしい。

清水の大昔の海岸線辺りを『庵原(イホハラ)』と呼ばれ、現在も(イハラ)と呼ばれているからです。

NHK「武田信玄」で『山本勘介』が大活躍しましたが、勘介は元々庵原家の下級武士で生まれは富士宮辺り。と伝えられていますし山々を歩き回る敵状視察係り。だったわけです。今で言うスパイ。

駿府には今川家が平野部を支配していましたから、この庵原家は清水から富士方面で勢力を保っていたと考えられます。そして武田との争いに敗れた。

テレビ、映画、小説では武田、今川、北条、徳川、織田の名前ばかりが取り上げられるのですが、どっこい、これ等以外の武将達も戦っていたのすね。戦国時代だから当然ですが、現在は勝者のみが知られ、庵原軍のような存在が埋れてしまっています。

ちなみに、駿河湾のすぐ側にある久能山々頂には有名な『勘介井戸』がある。

勘介がどの程度活躍したのか? 武田軍がどの辺りまで進出したのか? 庵原軍と武田軍、今川軍との関係は? 清水の中央部に位置する江尻小芝神社は武田軍の最前戦出城の一つとして穴山梅雪が城主として記録されていますが、今川家没落後、梅雪は家康配下になっています。

まあ、こんな事を想いながらの山歩きは実に楽しいのです。

静岡が囲まれている県境の有名な山々は富士山と南アルプス、安倍奥、箱根山塊。

然し、生活感のある(麓で農業)山々は地元でしか名前が知られていませんが、ガレ場有り、大石ゴロゴロの渓流有り、標高は決して高くはありません。然し厳しい登山を強いられる事、請け合いです。

が、こういった山々の峠なり山頂に立つと・・・平野部は一望の下に見ることが出来ます。

今週は、清水と山梨県富沢町の境に立つ、『貫ヶ岳』に登りました。

清水側へ車を置いてそれこそ渓流を2回渡り返し、ガレ場に足場を刻んで約2時間半。

山中は木々の臭いが蒸し、稜線近くでようやく冬を感じさせる風が。

背中は既に大量の汗の登行でしたが、山梨側へ下る峠まで登ると・・はるか遠くまで見えます。

更に、貫ヶ岳まで直登40分。 この山の頂上では・・富士の裾野は雲とモヤに邪魔されて今回は見れませんでした。

本来であれば、清水、静岡、富士川、駿河湾、伊豆半島。更に、富士山、麓の朝霧まで実にくっきり見える筈です。

おにぎり頬ばりながら・・昔日を想像しました。

昔の静岡、山梨の人達は富士川を舟で上り下りするか、山歩きするかの交通網を利用したのだと。

富士川を下り、駿河湾を漕いで米を清水まで運んだ歴史は明治時代までありました。

それ以外は色々な山道を越えて往来が盛んだったでしょう。

古に思いが及ぶ『県境尾根』

何も北アルプスへ行かなくとも充分楽しい。これら静岡と県境を境にする山々は南アルプスを抱え、甲斐、信州、美濃へ通じるのです。

30歳の頃、それこそ武田軍の出城であった龍爪山から北岳まで約10日余り。テント、食器類を背負って縦走しました。安倍奥の梅が島で途中下山し、英気を養い食料を買い込んでの強行軍でした。

今思うと、歩くが必死で廻りも歴史的地理も頭になかったように思います。

体力が落ちると頭脳が明晰になる。が、苛立ちが増える。

年齢とはそんなものでしょう。

便利すぎる世の中になりすぎました。

これからも体力のある内は何とか山に入りたいと思っています。

私より元気印の団体で混み合う北アルプスは真っ平。熊とか日本鹿との遭遇、更に大井川、安倍川、興津川の源流で楽しむのは・・・極上の至福です。

虫、蝿が増える夏山は避けて思うが儘に山を楽しみたいと思ってます。

郷土史を調べればもっと細かい歴史を知る事になるでしょうし、今迄の既説も変わる可能性も大きいですね。郷土史を調べ楽しむ人達の気持ちが分かるようになりました。

これからの山歩き、スケッチ旅では歴史の方へも目を向けて行きたく思っています。

                       2012.04.22.

                            Yoh-M.

P1020431

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自由人へ


雨の船越公園

2012年04月12日 | from 清水港

P1020402

・・

4月11日 雨。時々風を伴った強い雨。

天気予報とは大幅に違って、悪天候になったこの日。山行きを諦めノンビリ家でくつろぐが、昼過ぎ気分転換に『船越公園・桜見物』に出掛けました。

土・日曜日の混み具合は、提灯が飾られているのを見るだけで想像できます。が、雨の中、人一人見えなく小鳥の天国かと間違うくらいの静けさで、こういった船越公園を経験するのは初めてでした。

良かったですよ~・

雨風の状況を見て、普段靴の上から軽スパッツを装備しただけでヌカルンダ公園内を散策しましたが、膝下の雨は充分避ける事が出来、まるで深い山合いの気分を味わいました。

この船越公園は日本平の麓にある市民憩いの場。ですが、子供達がヨチヨチ歩き出すようになってからは私達家族にとっても思い出の深い場所となっています。

が、成長し親元から子供が離れるようになってから、大よそ縁が薄くなっていました。

雨中の静かな園内の桜、新芽を出し始めた木々の中を歩くのは、この公園では初めての経験です。それだけに思い出が湧いてきました。

P1020379

↑ この写真の場所で何回、お弁当を広げ、子供達を裸にして遊ばせたか。

             雨に散った桜の花が、往時の華と重なって少しおセンチになりました。

 下の写真の場所では、何回子供と一緒になって滑ったでしょう。

             私は親と遊んだ覚えがないだけに、心がけていたのでしょうね。

P1020405

・・

雨の公園。人一人いない公園を散策する楽しみも滅多にないでしょう。

余分な背景(家々の屋根とかビル)が雨に消された風景は、より楽しい時間を与えて呉れたと感謝の気持ちで、家に戻りました。

                          2012.04.11.

                                                                                           Yoh-M.

P1020371

                                       にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自由人へ


絵はサイエンス。

2012年04月02日 | アート・文化

絵はサイエンス。絵はテクノロジー として書きます。

文系人間、理系人間関係ない。として書きます。

2012年も早四月。

昨年の震災より、日本人の体質に変化が見えません。

最近の野田総理の消費税法案にしても一定の理解をしますが、都会と地方の世論には余りにも差があると感じます。

テレビに顔を出す常連は政府・役人の広報となり下がっており、実質の国体経済を支える地方の状況を理解しようともしません。そして、そんな連中に操られる首都圏住民からは、消費物価々格云々だけの発言だったり、権利だけを取り上げる状況が伝えられるばかりです。

北朝鮮の『衛星』発射問題に関しても、テレビで発言する主婦達からは『迎撃準備は税金の無駄遣い』と多くの人が言い、あきれ返るばかりです。朝のクダラナイ・ワイド番組が煽っているのだと思いますが・・

そんな現代の日本人風潮に疑問を持つ者です。

就職難は現在も続いておりますが、日本人はどういう訳か、人を『文系』『理系』と区分けして判断するように教育されているようです。

私は、民間がシッカリしていれば現在の政府は不必要とも考えますが、その民間人、あえて言えば、『私は企業人で有る。』と自惚れる人達にこの傾向は強く、あえて書いています。

多くの日本人、あるいは人間の勘違いの中に、『文系人間』『理系人間』と区分けする人の多さに驚く次第です。

将来の生活を見れば、希望職種の選択の多さを見れば、点数のいい人間が良いポジションに着く事は理解できますが、果たしてそれだけでしょうか?

企業経営者は経済の事を理解しなければなりません。が、経済は数学、統計を理解しなければなりません。が、日本人は経済を勉強する人を文系人間。と区分けします。

実に不思議な現象です。

組織のシッカリした大企業はともかく、経済、主に営業担当上がりが経営トップを勤める企業の方が業績は良いのです。

近くにいる人間で中高ではトップランクの成績、東大医学部は確実と言われた人が2年連続不合格でした。

この学生の親は知り合いですが、残念ながら東大というネームバリューだけに捕らわれていた教育熱心な人です。この人の持つ感覚は日本人全体に蔓延しているのではないでしょうか。

疑問はこの知り合いに向けたものでは、決してありません。然し、医学を志すのであれば東大という名前に拘らなくとも良いはずです。天皇の手術担当医が良い参考です。

現在の就職問題にも同じ事が多々言える筈です。

イワユル文系学部を卒業した学生に技術を叩き込んで見て下さい。

イワユル理系学部を卒業した人の落ちこぼれ、転職の多さを見て下さい。

『ボタンの掛け違い』とは、文系人間、理系人間と区別する事から始まるようです。

さて、今回は 『 絵はサイエンス 』 と題してます。

多くの人達は、絵描きは文系の代表。勘違いしているのではないでしょうか。

顔料、即ち絵の具がどうして『絵の具』と呼ばれるのか・・知っていますか?

日本画、水彩画、油彩画、テンペラ画・・・顔料、即ち絵の具はどこが違うのですか?

日本画の絵の具はどうして紙、絹に描かれるのですか?

油彩画のキャンバスはどうやって作るのですか?  テンペラ画はどうやって描くのですか?

絵を描く上で基本的な事柄は・・文系ではなく理系。即ち、『サイエンス』を理解した上で『テクノロジー』が個人の特性となります。

油彩画で市販されている絵の具は、何でも混色していいものでは有りません。

『素人だからそんな事は理解できない』と言う人が多い。

何故、もっと追求する姿勢を持てないのでしょう。

ルネッサンスと呼ばれる時代以前の絵はどうして知られていないんだ?

ルネッサンス期の作品の多くの絵の白色は・・何故、同じ白色なんだ?

その当時、色は(顔料)は何色有ったんだ?

ダ・ヴィンチとて写真機を利用していたではないか?

その当時写真機はあったのか? レンズは何時からあったのだ?

レンブラントの有名な黒は、黒だけで何色あったのだ?

フェルメールの有名な『デルフト風景』の濃茶色。当時そんな色(顔料)が有ったのか?

フェルメールの作品は完全に1点透視図法ではないか?

明治期の日本人油彩画家達の作品は、何故、同じ色が目立つのだ?

批評家といわれる連中、学芸員と呼ばれる連中。上記の事には応えられない。

更に言う。

先頃預かった今は亡き文化勲章受章者、小磯良平の作品。

非常に有名作家で値段も高すぎる作家。前々より、彼の作品の割れの酷さは聞いていたが、余りの惨めさ。サイエンスを知らなかった絵描きの代表だろう。よくもまあ、芸大教授をしたものだ。

こういった表面的な事柄ばかり繫がるから・・絵描きは文系人間の代表。と言われ、メディアがそのように書き、教壇に立つ馬鹿なヤツが、日本人の感覚を麻痺させていく。

ダ・ヴィンチ、レンブラント、フェルメール。昔の絵描き達は科学者の目を持っていたのです。

ついでに言います。

ルネッサンス時代、アートとか芸術といった名詞はなかったのです。

『アート・サイエンス』・・この名詞こそがルネッサンス時代の芸術への呼び方だったのです。

↑ つまり、サイエンス(科学)が解れば絵を描くことがより楽しくなり、他人の絵を見ても嬉しくなるのである。

人間の感覚は、サイエンスとテクノロジーに裏付けされなければならない筈。

例えば、抽象画を描いてみると良い。

良い出来だ。と自画自賛しても、過去に同じような作品を描いた作者を見つければ・・落ち込むこと必然である。

人間の単なる感覚。なんて屁のようなものだ。

イラストで有名になった作者がいる。が、流行に乗せられるだけがオチだろう。

『絵を描くことは、坊主の修行より苦しく、単なる理系の論理より複雑であり、哲学を越えた作業だ』

即ち 『無駄な作業』 という事になる。 但し、これで生活しようと思う人間は 『 売名 』 に走れば宜しい作業である。

が、歴然とした サイエンス であり、テクノロジー である。

文系の最たる人間に絵描きを含む感覚。 これは間違いである。

故に 『絵は分かんな~~い』 と馬鹿言葉が出るのである。 では、どうすれば良いか。

『絵を描く』しかない。

ま、ここまで来ると問答に近くなってしまうが、少なくとも絵を描くことは文系ではない。

入学先、就職先の選択。点数主義で、あるいは出身学部だけで決める風潮は最悪である。

文系、理系? この言葉がまず最悪である。 

良く遊んだ学生、良く勉強した学生を、学部関係なく社会は受け入れなければならない。楽しんだ学生ほど伸びしろは多いと云うものだ。

文系学部へ入学した生徒の中には工作が得意な生徒も多い。

工学部へ入学した生徒の中には漢文の得意な生徒も多い。

芸大、美大へ行って楽しんだ連中も同じ事。 中途半端な志で職業を選ばない事だ。学生の勘違いも時代を狂わせている一因と考える。

自由に生きる事は、自分勝手に時間を費やし、無駄だった過去を振り返る事だ。

が、死して何かを残す事だ。  そう思いたいが動物のように毛皮さへ残せないのが事実だろう。

                     2012.04.02

                          Yoh-M.

Img_0858

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自由人へ