江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年9月17日)

2017-09-17 12:45:14 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十四)     2017.9.17

    「神様は本当におられるのです」  マタイ6:25~34

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。

今日は、人間が作った神ではなく、人間を造られた神様は、本当におられるということを見たいと思います。今日は、マタイによる福音書6章25節から34節を通して、「神様は本当におられるのです」という題でお話ししたいと思います。

Ⅱ本論部

一、全てのものを創造されたお方がいる

今日の聖書の箇所は、イエス様が山上で話されたお話しです。大変有名なお話しです。

イエス様は、この話しを誰に対してしたのでしょうか。25節を見ると、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」とありますが、心配している人、悩んでいる人、心が乱れている人に対して語られたことなのです。今日、礼拝が終わって何を食べようかと思い悩んでいる人はいるでしょうか。今日の教会のお昼は、炊き込みご飯ですから、心配いりませんね。

私たちは、いろいろなことに思い悩み、心配することが多くあります。とするならば、今日の聖書の箇所は私たち一人ひとりに向かって語られていることだと思うのです。

イエス様は自然界を見なさいと言われたのです。

26節には、「空の鳥をよく見なさい。」とあり、27節には、「野の花がどのように育つか、注意して見なさい。」とあります。ただ、空の鳥をぼーっと見るのではなく、よく見るのです。野の花が育っているのをただ見るというのではなく、注意して見なさいと、イエス様は言われたのです。私たちは自然界をみることによって、唯一真の神様を知ることができるのです。イネ科の植物にトウモロコシがありますが、好きな方もおられるでしょう。JFの会で、上芦別教会を訪問した時に、トウモロコシを出してくださいました。とてもおいしかったです。トウモロコシは人間にとっておいしいものですが、害虫にとってもおいしいものです。トウモロコシには天敵がいるのです。夜盗(よとう)虫というそうです。夜盗(よるぬすむ)虫と書きます。昼間の間は地面に潜り込んでいるのですが、夜になると出てきてトウモロコシの葉っぱをむしゃくしゃと食べるのです。そして、トウモロコシは葉っぱを食べられてしまうと実はならないのです。今は、農薬でこの夜盗虫を駆除するのです。けれども、農薬のない時代もあったわけですが、トウモロコシは全滅しなかった。それは、夜盗虫にも天敵がいるのです。それは、寄生蜂(きせいほう)という蜂です。寄生蜂は、夜盗虫というイモムシの体の中に卵を産み付ける。そして、夜盗中の中で孵化(ふか)すると、夜盗中の内部をむしゃむしゃ食べて、大きくなるだけなったら、夜盗虫の中から出てくる。

では、この寄生蜂は夜盗虫をどうしてキャッチするのか。トウモロコシには、においはないそうです。夜盗中にもにおいがない。けれども、夜盗虫がトウモロコシの葉を食べる時、トウモロコシの葉の成分と夜盗中の唾液(だえき)がブレンドされて、化学反応して、その時に寄生蜂を呼び込むフェロモンそっくりのにおいにかわるそうです。手の込んだシステムです。これは、初めから、そのように造られている。始めから設計されているということです。虫の生態を知りつくしていないとこのようなシステムはできない。このように私たちは、自然界に目を注ぐと、すべての事をご存知の神様が創造されたことを知ることができるのです。

 

二、人間は神様の形に似せて創造されたので価値がある

イエス様は、「空の鳥をよく見なさい。」、「野の花がどのように育つか、注意して見なさい。」と言われました。神様は、創世記1章で天地宇宙、動植物を創造されたことが記されています。そして、その中でもっとも素晴らしい存在が人間なのです。神様は人間を創造された後に、はなはだよかった、と言われたのです。26節の最後には、「あなたがたは、鳥よりも価値ある者ではないか。」とあります。リビングバイブルには、「まして、あなたがたは、天の父にとって鳥よりはるかに価値があるのです。」とあります。神様はいろいろなものを造られましたが、神様の作品の中でもっとも素晴らしいのが私たち人間なのです。なぜなら、神様は私たち人間を神様のかたちに似せて造られたからです。人格あるものとして造られたのです。

女性会の時にもお話ししたのですが、ビクトール・エミール・フランクルというオーストリア人の精神科医、心理学者がいます。「夜と霧」の著者です。彼は、アウシュビッツの収容所に家族と共に入れられて、彼だけが生還しました。そして、彼は、自分のクリニックを開設しました。そこで働いていたナースは、素晴らしい人で、「ナース」になるために生まれてきたと思われるほどに気が利く人でした。しかし、彼女が病気になり、第一線で働けなくなりました。彼女は、「私は多くの患者さんに仕えてきました。でも、今は何もできなくて役に立たなくなった。これでは生きている意味がない。」と言い落ち込むのです。その時、フランクルは彼女に言いました。「あなたのその人生観は、あなたが半生をささげて、仕えてきた患者さんたちに生きる意味を奪い取ることになりませんか。あなたが仕えてきた患者さんは、何もすることができないという状態でした。何もすることができない人は価値がない、何の役にも立たないというあなたの人生観は、患者さんから生きる意味を奪い取る事になりませんか。」と言ったのです。

私たちは、あれができる、これができると競い合います。けれども、最後には何もできなくなる時がくるのです。明日は敬老の日です。今日は第二礼拝後には、高齢者の方々への祝福の祈りをさせていただきます。病気になったり、年を重ねると何もできない、何の役にも立たないということになると人間の価値がなくなるのでしょうか。人間を根拠にして人間の価値を保とうとしても限界があります。人間になぜ価値があるのかというと、それは、何かができるとか、良い成績を残したとかいうことではなくて、私たちは神様の形に似せて創造されているからなのです。私たちがどのように年を重ね、何もできなくなり、人に役に立たない者だと自分が思ったとしても、あなたは神様の形に似せて創造されたので、価値があるのだということを信じていただきたいと思うのです。

 

三、全ての事は神様を経由して起こっている

32節を共に読みましょう。「それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたに必要なことをご存知である。

リビングバイブルにはこのようにあります。「ほんとうの神様を信じない人たちのまねをしてはいけません。彼らは、このような物がたくさんあることを鼻にかけ、そうした物に心を奪われています。しかし、天の父は、それらがあなたがたに必要なことは、よくご存じです。

聖書は、神様が私たちに何が必要なのか、その必要なことを知っていて下さるとあります。この神様を信頼して生きるということは、思いわずらいからの解放になります。

壷井栄という小説家、児童作家がおられました。家庭小説である「柿の木のある家」とか「二十四の瞳」が有名です。「二十四の瞳」は映画化されて有名になりました。彼女の学歴は小学校卒業のみです。彼女は。女流文学賞を受賞しました。また、壷井栄児童文学全集があります。

彼女は、小豆島のしょうゆ樽職人の家に生まれました。彼女の子ども時代はとても貧しい家庭だったようです。食べ物のあまりない時代に、お母さんはおやつにお豆をくれたそうです。豆を炒って、豆の入った袋の中に無造作に手を入れて、自分と姉に一掴(つか)みずつ手のひらにおいてくれるのです。姉は、妹の方が絶対多い。どうしていつも妹ばっかりよくするのか。栄さんは、いやお姉ちゃんの方が絶対に多いと喧嘩になるのです。食べ物の恨みは恐ろしいとよく言います。すると、お母さんが、「数えてごらん」と言うので、数えてみると、姉は25粒、栄さん25粒でどちらも同じ数。数えていたわけではないのに、姉も妹も同じ豆の数だったそうです。壷井栄さんは晩年に、このような詩を書いています。「母の手は公平、親切、争いを静め、満足を与える」

世の中には不公平なことがたくさんあります。しかし、お母さんを経由して自分の所に来たものは、いつも公平、いつも親切、いつも間違いがなく、争いを静める。私たちが生活していく中で、私たちの周りには、不公平なことや、いやなことや残念なことが多くあります。けれども、私たちの上には、いつも、真実に世界を治めておられるお方がいて、世界を支配しておられる神様は、私たち一人ひとりの必要をよくご存知であり、私たちの身の上に、最善に、最もよきものを備えて下さるのです。

私たちの目には、不幸に思えることさえも、つらいと思えることさえも、悲しい出来事さえも、絶望と感じることさえも、神様の手を経由して起こっていることなのです。神様の許しのもとで私たちの人生の身の上に起こることは、最善未満のなにものでもないのです。このことを私たちが本気で信じるならば、苦難の時、絶望を経験する時、立ち直ることができるのではないでしょうか。

天の神様は、私たち一人ひとりを創造して下さいました。私たちを創造された神様は、私たちを造りっぱなしではないのです。私たちを愛して、生かして、私たちに何が必要なのかを全てご存知であって、私たちに必要なものを、最も良きものを与えようと待ち構えておられるお方なのです。

 

Ⅲ結論部

壷井栄さんは、「母の手は公平、親切、争いを静め、満足を与える」という詩を作りましたが、私たちにとっては、「神様の手は公平、親切、争いを静め、満足を与える」となるのです。

天の父なる神様は、私たちに必要なことを全てご存じなのです。私たちに、いつも最善のことをなさるのです。私たちを創造し、支え、守って下さる神様を知らないと自分で自分を過剰に守ろうとして生きてしまうのではないでしょうか。この神様から離れて生きることを罪というのです。その神様から離れた私たち人間を救うために、私たちの罪を赦し、魂に救いを与え、永遠の命を与えるために、イエス様が人となって、この地上に来て下さり、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流して下さり、命をささげて下さいました。イエス様が私たちの罪のために、なだめの供え物となって下さり、そのなだめの供え物であるイエス様が流された血とその死を父なる神様が見て、その十字架の死を通して、神様が安心して、罪ある人間を赦して下さるのです。

私たちを創造された神様は、私たちを創造した以上は、私たちに必要なものを知り、私たちに必要なものを与えて下さるのです。今、現実に目の前に経験している状況の中で、その出来事が、私たちの目には、たとえ不幸に思えることがあっても、つらいと思えることがあっても、悲しい出来事さえも、絶望と感じることさえも、私たちを愛し、私たちのために十字架にかかるほどの愛を示された神様の手を経由して起こっていることならば、困難の中にある私たちと神様が共におられ、その状況を最善以下にはなさらないのです。私たちが今経験しているすべての事が、神様の許しのもとで私たちの人生の身の上に起こっているとするならば、私たちが、その苦しい状況のままで、絶望を経験したままで終わることなど絶対にあり得ないのです。

パウロは言いました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)

私たちと共におられる神様は、本当の神様であり、この神様は生きて働かれるお方なのです。このお方が、この週も共におられ、あなたの全ての必要をご存知であり、その必要に答えようとして下さるのです。このお方が共におられること、そして全ての事が神様の手を経由して起こっていることを信じて、イエス様を信頼して、歩んでまいりましょう。

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