江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(22年9月11日)

2022-09-11 12:55:27 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後13主日)      2022.9.11

年老いてもなお」 イザヤ書46:1~4

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。9月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、ご家庭で、置かれた場所で共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。朝夕が随分涼しくなり、あの夏の厳しい暑さを忘れてしまうような、秋の気配を少しずつ感じております。

 今年の敬老の日は、9月19日で、9月の第三日曜日が高齢者祝福礼拝ですが、来週私は大阪での御用のため、今日を高齢者祝福礼拝とさせていただきました。敬老の日は、国民の祝日に関する法律では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日と定められています。祖父母や両親、恩師など人生の大先輩を敬い、感謝の気持ちとともに長寿のお祝いをする日なのです。兵庫県多可郡多可町八千代区(旧野間谷村)では、1947年から9月15日は「としよりの日」とされ、地域でお年寄りを敬う日として定着していました。としよりの日がやがて全国へと広がり、敬老の日の制定につながったと考えられています。

593年に、聖徳太子が生活困窮者や身寄りのない人を収容するための施設「悲田院(ひでんいん)」を大阪に建立。悲田院は、今でいう孤児院や老人ホームの役割を担っていました。9月15日に建立されたことから、この日が敬老の日になったともいわれます。医療制度では65歳以上が高齢者ですし、道路交通法では70歳以上の免許更新者は高齢者講習を受けるとされています。人生100年時代の今、長く現役で働く方も多く、お年寄り扱いされたくないという方がいらっしゃるのも事実です。先日、イギリスのエリザベス女王が97歳でお亡くなりになりました。70年間女王として在位され、責任を果たして来られました。

老いていくことを老年医学では、弱々しくなるという意味で「虚弱化」と呼びます。「虚弱化」は、肉体の衰えと疾病(しっぺい)、そしてストレスが組み合わされ、日々、目に見えない所で進行していくようです。

 今日は、イザヤ書46章1節から4節を通して、「年老いてもなお」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、真の神と偶像の神との違い

 シルバー川柳というのがありますので紹介します。「実は俺点滴、湿布の 二刀流」

「名所より トイレはどこだ  バスツアー」 「犬猫に マイクロチップ 次は俺」 

「お年玉 持続可能か 聞くな孫」 「電話口 本当なんです 市役所です」 

「戒名に キラキラネーム 欲しい父」 「黙食と 思っていたら 寝てた祖父」

「ご飯つぶ 付いているから 食べたはず」「WEB予約 予約できたか 電話する」   

「銭湯で 全裸の祖父が マスクつけ」 「徘徊に 行ってくるぞと 言われても」

「入れ歯どこ 冷蔵庫です 冷えてます」 「俺を見て 御先祖様と 孫が言う」

高齢であるがゆえに許されている喜びと同時に、高齢であるがゆえに向き合うべき課題が多くあります。孤独や不安、病や死、老いたる者が誰でも直面する取り組みを神様のみ手の導きによって守られ、イエス様を賛美し、証しする生涯を続けたいのです。聖書には、「白髪は輝く冠」(箴言16:31)とあります。長寿は、神様の栄光を現わす冠です。神様の祝福の現れなのです。

 イザヤ書46章1節、2節には、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。」とあります。「ベル」「ネボ」というのは、イスラエルを打ち負かし、捕囚としたバビロンの人々が崇めていた神の名です。バビロンの王、ネブカドネツァルの名目の最初の「ネブ」は、「ネボ」から来ているようです。「ネボ」は、バビロニア王朝で最高位にある神として崇められていました。バビロンの主神は、「マルドゥーク」と呼ばれる神の別名が「ベル」でした。当時のバビロンには50もの偶像の神々があったと言われています。「ネボ」は「ベル」の息子で、知恵や知識の神です。そのバビロンの神、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。」というのです。

 バビロンの守護神ネボやベルを表す神の偶像は、その王国崩壊の危機にさらされ、人々の手によって台座からおろされ、運搬用の家畜によって運ばれないと危機から逃れられないのです。イスラエルを捕囚としたバビロンは、今度は自分たちが捕囚の身となると言われている。預言者は、家畜や人の手で背負われないと自分で立つことも、自分自身を救うこともできない無力な神が、その神を信じている人たちを救えるだろうかと問いかけているのです。その神を信じている人たちによって救われなければならない神は、信じている人の重荷となっているだけの存在で、それがバビロンの偶像の神だというのです。

 古代中近東の世界では、戦争はそれぞれの神々の闘いであると考えられていたようです。そして、闘いに負けた時は、その偶像を人が担いで逃げたのです。バビロンの神々、偶像の神々は、運ばれる神であり、重荷となる神なのです。

人に生きる力を与えることができないのは、真の神ではないからです。ベルやネボは、無力な偶像の神にすぎないのです。では、イスラエルは、真の神様を信じているはずなのに、どうして偶像の神を信じているバビロンに滅ぼされたのでしょうか。イスラエルの人々も、かつて捕囚の地で同じような疑問を持って生きていたのです。イスラエルの人々は、心を尽くして神様を礼拝しませんでした。神様を畏れ敬おうとはしませんでした。神様を信頼し、神様に聞いて生きるという歩みをしなかったのです。ですから、イスラエルは神の民にふさわしくない生き方、神様の言葉に背く生き方をしていたのです。そこに神様の裁きがありました。神の裁きは、イスラエルを滅ぼすためのものではなく、彼らが神様に立ち返るようにという愛の裏返しなのです。

 

 二、背負って下さる神

 3節です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。」

「わたしに聞け」と神様はイスラエルに言われるのです。「残りの者」とは、戦争に負けた生き残りの敗残兵です。戦いに負け、傷つき、廃墟の中にたたずんでいるような存在でしょう。この「残りの者」には、イスラエル以外の諸国の民も含まれていたようです。真の神様を知らないで生きていた諸国の人々も含まれていました。この神様の呼びかけは、捕囚という辛い体験をした人々が聞いた慰めに満ちた言葉でした。この預言者と同じ体験をしている人々に向かって、神様はいつもあなたがたと共にいて、イスラエルのその苦悩を御自分の問題として、背負って下さると語るのです。この神様は、イスラエルを担い続け、これからも担い続けて下さるお方なのです。バビロンの神々にとって、政治的崩壊は、その無力を示す機会となりました。しかし、イスラエルの神様にとって、バビロンの政治的崩壊は、イスラエルの神様が担い続けるとの証明となる出来事となりました。

 4節には、「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」とあります。聖書は、私たちが母の胎にいるときから、私たちひとりひとりを背負っておられると、言っています。背負うというのは、もちろん、比喩的な表現ですが、母が愛する子をおんぶするように、神様は私たちを、背負って運んでくださるのです。私たちが、若くて力のある時だけでなく、重荷に疲れて歩けなくなったとき、私たちをただ、遠くから見守っていてくださるだけでなく、私たちを背負って運んでくださるのです。

 皆さんもよくご存じの「あしあと」という詩があります。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 神様は、私たちが苦しみの只中にある時、自分一人だと孤独を感じる時、誰も助ける者がいないと嘆く時、実は、イエス様が、わたしを、あなたを背負って歩んでいて下さるのです。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」というみ言葉の通りなのです。

 

 三、神に全てをお委ねする人生

 年を取るということは、悲しみでもありますし、手放していくということを学ぶという大切な時なのかも知れません。自分で頑張るということをやめて、神様にお委ねしていくということは簡単な事ではないでしょう。私たちが、自分で何もできなくなった時、ようやく委ねられる、委ねざるを得ないというのが現実でしょう。私たちが、全ての事を神様に委ねることによって、神様は、私たちの弱さを、小ささを用いて下さるように思うのです。自分で車の運転ができなくなって、家族や友人が運転してくれることで救われるということがあるでしょう。多くの人の助けや世話を喜んで受けるということで救われることがあるのです。

 私たちは、自分が元気な時、何でも自分でできる時は、「何かができるから自分には価値がある」と考えがちです。若くても、元気でも、失敗をすることもあり、何の役にも立たないということで、自分には価値がないと感じてしまうこともあるでしょう。年を重ねたならなおさら、今まで、できていたことが一つひとつできなくなっていくのです。そのような自分に価値があると見出すことは困難です。しかし、聖書を通して神様は、私たちに、「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」と約束しておられるのです。その約束の言葉をしっかりと受け止め、信じて歩みたいのです。

 9月9日の金曜日に、青葉台中学校の隣にあるベネッセのホームにおられる竹内みゑ子姉を、家内と共に訪問させていただきました。9月9日で、93歳を迎えられるので訪問させていただきました。今回は、お部屋の方に訪問させていただきました。「今、お風呂に入っておられる」ということで、少し待たされましたが、お部屋に伺いました。最初、「こんにちは」とお声を書けましたが、誰か分からない様子でしたが、すぐにはっとして、「先生」と顔を両手で抑えてビックリ、という感じでした。とても喜んで下さり、楽しいお交わりの時を持たせていただきました。「自分は何もできない」と言いながら、食事の時や部屋の前の廊下を通る人々に声をかけて、「がんばりましうね」と励ましておられる様子を聞きました。一階の掲示板に9月の食事の献立が貼ってあり、随分おいしそうなものがズラリト並んでいたので、「おいしそうな食事ですね」とお聞きすると、「もうこの年には栄養はいらないのにね!」と笑いながら、おいしく感謝していただいていること、何の不満もなく、神様に守られて生かされていることを喜んでおられました。竹内姉は、耳が遠いのですが、目は良いので、家内が書いた誕生日のカードと小冊子をとても喜んでおられました。「白髪になるまで、背負って行こう。」というみ言葉を選ばせていただきました。いろいろな肉体の弱さや大変さがありますが、神様に感謝して、お委ねしておられる姉妹の姿に接して、神様の恵みの素晴らしさ、み言葉の確かさを感じることができました。「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」というみ言葉が、姉妹の上に成就し、そして、私たち一人ひとりにも与えられていることを強く感じたのです。

 

 Ⅲ結論部

 3節にある「残りの者よ」という言葉の意味は、「余りもの」「役に立たないので最後まで残されていた者」という意味にも取れます。あのぶどう園で5時まで仕事をもらえなかった人々、5時から男のようです。なぜ、残っているのかというと、役に立たないからです。どうでもいいからです。余分な人、いてもいなくてもいい人ということでしょう。神様は、中心的な人、目立つ人だけではなく、目立たない人、重要でない人、余りものに目を留めておられます。失敗した人、挫折している人、欠点を持っている人、劣っていると思っている人にこそ、神様の目から見て、重要な人、宝物だと言われるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)とみ言葉にあります。

 神様の目から見て、一人ひとりが、「あなたは神様に愛されている。」「あなたは神様に必要とされている。」「あなたは神様に大事されている。」という思いが込められた「残りの者よ」ということなのです。

 神様は、私たちを愛するがゆえに、私たちの罪を赦すために、イエス様を人として人間の世界に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られ、三日目によみがえり、罪と死に勝利されました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪を赦し、魂を生かし、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と私たちの重荷を負って下さるのです。

私たちが生まれた時から担い、白髪になるまで、年老いるまで担うと約束しておられるのです。私たちは、このお方がいつも共におられるのですから、私たちは年老いてもなお、病であってもなお、問題や闘いがあってもなお、このお方にいつも守られ、支えられていることを覚えて、この週もイエス様に全てを委ねして歩んでまいりましょう。

 

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