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江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(25年5月4日)

2025-05-04 12:50:02 | Weblog

日曜礼拝(復活後第二)       2025.5.4

    「イエス様が建てる教会」 マタイによる福音書16章13節~20節

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。5月第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。2025年も3分の1が終わりました。早いもので今年もあと241日を残すのみとなりました。ゴールデンウィークの休みの中で、出かけられている方々もおられることでしょう。良き休息の時、お交わりの時が与えられますようにお祈りいたします。ユースの皆さんは、5日、6日とキャンプを行われる予定です。良き交わりが与えられることを祈ります。

4月21日にローマカトリック教会の14億人の頂点に立つ最高指導者のフランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)教皇が88歳でお亡くなりになりました。新しい教皇を選ぶべくコンクラーベが7日から行われるようです。コンクラーベとは、「鍵と共に」という意味があるようです。「秘密の場所とか、建物の立入禁止の場所」を指しているとも言われているようです。選挙は、80歳未満の枢機卿で定員が120名だそうです。密室で隔離され、外部との接触も遮断されて、選挙が行われ、3分の2以上の投票がなければ何度でも選挙が行われます。ナザレン教団の理事長選挙と同じですね。票が集まらなければ煙突から黒い煙を、教皇が選ばれると、煙突から白い煙を出して知らせるのです。教皇選挙という映画がありますが、教皇が亡くなってさらに注目を浴び、多くの人々が映画館に足を運んだようです。今日は、カトリック教会では初代の教皇がペトロと言われる聖書の個所、マタイによる福音書16章13節から20節を通して、「イエス様が建てる教会」と題してお話し致します。

Ⅱ本論部

一、あなたはイエス様をどう見ているか

 13節を見ると、「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。」とあります。イエス様はこれからエルサレムに向かって行かれる。つまり、十字架の道を歩んで行かれるのです。3年と少しの間、イエス様は弟子たちと寝食を共にし、権威ある言葉を語り、訓練し、深い愛で愛し通され、数々の奇跡を見せて来られました。弟子たちを整えて、遣わすためでした。ですから、弟子たちがイエス様ご自身をどのように見ているのかを確認されるのです。その前に、人々がイエス様をどのように見ているのかを弟子たちにお尋ねになりました。弟子たちは、人々がイエス様に対する見解、イエス様を何者と見ているのかを聞いていたので語りました。14節には、「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」」と答えました。人々はイエス様が弱さの中にある人々に対する数々の奇跡のみ業を見て、権威ある言葉、愛と慰めの言葉をいただいて、イエス様をローマの支配から解放してくれる人として感じていた人々の反応は、洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人というように、預言者、神の言葉を語る者であり、これらの人々は、救い主メシアの先駆者という存在として見られていた人々でした。イエス様は、弟子たちから人々の御自分に対する反応を聞いて、15節を見ると、「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」」とあり、人々ではなく、弟子たちがイエス様に対してどのように見ているのかを直接聞かれたのです。一人の人に対する見解は様々あるのでしょう。現代、SNS等で人物や出来事の内容が、豊富にいろいろな角度から語られています。正反対の意見もあります。本当でない嘘の情報もあります。そのような中で、何を、誰の言葉を信じたらよいのか。受け入れたらよいのか、情報量の多さに困惑することがあるのでしょう。そのような中で、「あなたはその人に対して、その出来事に対してどう思いますか。」と問われて、自信を持って自分自身の意見を語ることには躊躇することもあるのでしょう。

 イエス様は弟子たちに、今や多くの人々が注目し、目覚ましい数々のみ業に驚き、期待もしているであろうイエス様に対して、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われたのです。16節には、「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」とあります。マルコによる福音書では、「あなたは、メシアです。」(8:29)とペトロが答えています。ルカによる福音書では、「神からのメシアです。」(9:20)とペトロが答えています。イエス様の評価も、この世においては様々です。宗教家、道徳家、奇跡を起こす預言者、愛に溢れた慈善家、いろいろと評価はあるのでしょう。しかし、私たちキリスト者は、ペトロが答えたように、「イエス様はメシア、救い主、生きておられる神の子」と信仰告白をしたいのです。イエス様は、ただの宗教家や慈善家ではなく、預言者でもなく、父なる神様から遣わされたメシア、救い主なのです。私たちを罪から救われるメシア、救い主なのです。

二、イエス様が救い主であると信仰告白する

 ペトロは、弟子たちに対するイエス様の質問「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。

という問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。それは、ペトロだけの意見ではなくて、弟子たちを代表して答えたものだったでしょう。その答えに対して、17節を見ると、「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とあります。イエス様は、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という百点満点の答えに対して、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」と言われました。イエス様は、シモンに最初に出会った時、「「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」」(ヨハネ1:42)と言われました。「ケファ」とはアラム語で、ギリシャ語の「ペトロ」「岩」という意味の言葉です。バルとは「子」の意味でヨナの子シモンというのが本名でした。イエス様は、シモンにペトロという名前を付けられてからは、通常「ペトロ」と呼んでおられましたが、大切な場面においては、ペトロではなく、「シモン・バルヨナ」とか、「ヨハネの子シモン」と呼ばれました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」と本名を呼び、ペトロをお褒めになったのです。けれども、ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白に対して、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とイエス様は言われたのです。リビングバイブルには、「ヨナの息子シモンよ。神があなたを祝福してくださったのです。それがわかったのは、天におられるわたしの父が、あなたに個人的に教えてくださったからですよ。人間の力ではありません。」とあります。ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えることができたのは、ペトロの知識や努力の賜物、ペトロの信仰の深さから出たものではなくて、父なる神様が、ペトロを祝福し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えることができるように、個人的に教え導いて下さったからだったのです。私たちは、聖書の言葉、神様の言葉を通して、約2千年前に十字架にかかられたイエス様の十字架の死と復活を信じることができたというのは、私たちの聖書の知識の多さや頑張り、努力や信仰の深さから信じることができたのではありません。神様が、聖霊様がイエス様の十字架の死と復活が自分の罪の為であったと教え示して下さり、そのことを受け入れ、信じさせて下さったのです。イエス様の十字架の死と復活を信じることができたのは、「人間の力ではありません。」とリビングバイブルが語るように、私たちの側には何もないのです。神様の一方的な愛と恵みの故なのです。まだ、イエス様の十字架の死と復活が自分の罪の身代わりであることを受け入れ、信じておられない方々は、私たちの側の努力や知識、信仰ではないということをぜひ知っていただきたいのです。

三、教会にイエス様の権威が与えられた

 18節には、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」とあります。「ペトロ」をギリシャ語では、「ペトロス」と表現し、「岩」は「ペトラ」と表現します。「ペトロス」とは、「道端に落ちている小石」の事で、「ペトラ」は「大岩」の事です。イエス様は、ペトロの上に、教会を建てると言われたのではありません。この岩の上の「ペトラ」「大岩」つまり、ペトロの信仰告白の上に教会を建てると言われたのです。リビングバイブルを見ると、「あなたはペテロ(岩)です。 わたしはこの大きな岩の上にわたしの教会を建てます。」とあります。イエス様が、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白の上に、教会を建てられると言われたのです。教会は、私たち人間が建てるのではなくて、イエス様が建てられるのです。カトリック教会は、ペトロの上に教会を建てると解釈して、ペトロに権威が与えられたと考え、ペトロを初代の教皇と考え、代々の教皇が権威、監督権を引き継いでいると考えているのです。しかし、ペトロに与えられた教会の権威が、その後ローマ教会の監督、教皇に委譲されたという歴史的根拠はないようです。イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」と言われました。イエス様の建てる教会は、「陰府の力」、死の力さえも対抗できないと言われました。リビングバイブルには、「地獄のどんな恐ろしい力も、わたしの教会に打ち勝つことはできません。」とあります。18節には、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」」とあります。この言葉は、ペトロだけに言われたのではなく、弟子たち全員に対して言われた言葉なのでしょう。マタイによる福音書18章では、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(18:18)とイエス様は弟子たちに語られました。また、復活されたイエス様は、弟子たちに「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と弟子たちに権威を与えられたのです。ペトロを代表とする弟子たちには、イエス様から天国の管理が任されているということでしょう。「鍵」ですので、それは門を開け閉めする権限を指します。ですから、誰が天国に入るか、救いに導くという権限が地上の教会に与えられているということだと思うのです。

 教会とは、「人々が集まって来た群れ」ではなくて、「イエス様に召し集められた者の群れ」なのです。教会の中には様々な人がいます。時には、自分の目には、「ええ、この人がクリスチャン?」と思われる人もおられることでしょう。でも確かにイエス様が、その人を召し集めて下さったのです。ですから、自分の目に、自分の信仰から見て、その人がどのように映ったとしても、その人は、確かにイエス様に召し集められた人であると認め、受け入れることが大切です。2千年以上のキリスト教会の歴史の中で、多くの迫害があり、この世に押しつぶされそうになり、この世に埋没されそうになりながらも、イエス様が召し集められた者の群れであるからこそ、キリスト教会はイエス様によって、守られ、支えられてきたのです。「陰府の力もこれに対抗できない。」「地獄のどんな恐ろしい力も、わたしの教会に打ち勝つことはできません。」ということなのです。

 Ⅲ結論部

 聖書が示す名前には、大きな意味があります。肩書のようなものではなくて、本質、実質を表すものです。一番深くその人を表すものが名前と言えるのでしょう。イエス様が最初にシモンに会った時、「ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われました。つまり、「ペトロと呼ぶことにする」と言われました。それは、ペトロが岩のような信仰になってほしいというイエス様の思いが込められた名前でした。しかし、シモン、ケファ、ペトロは、すぐに岩のような信仰者にはなれませんでした。長い時間が必要でした。イエス様の十字架の死と復活を通して、神様の愛と恵みによって、岩のような信仰者になっていくのです。私たちもイエス様の十字架の死と復活を信じてキリスト者になってすぐに、信仰が成長していくというものではありません。様々な挫折や試練、この世との闘いがあり、これでもキリスト者なのかと思わされることもあるのでしょう。しかし、日々の信仰生活の中で、聖書の言葉に触れて、養われ、聖霊の、神様の導きによって、少しずつ成長していくのです。あのパウロは、サウロからパウロに名前が変えられました。パウロとは、「小さい者」という意味で、イエス様はパウロに「小さい者であれ」という願いがあったのでしょう。パウロは、家柄も良く、最高の聖書の学びをし、優秀で、実行力のある者でしたから、自分が小さい者である、と見ることなど到底考えられなかった。わからなかったのです。イエス様に救われて、宣教のために厳しい迫害を経験し、うまくいかないことを体験して、自分がいかに小さい者であるのかを知らされ受け入れったのです。パウロは、パウロという名前のごとく、小さい者になったからこそ、神様の器として、本物の器となって行ったのです。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9-10)

 特に、日本のキリスト教会は、規模も小さく、弱い存在です。しかし、イエス様が建てられた教会なのです。イエス様が召し集めて下さった者の群れなのです。イエス様は、教会を建て上げるために、御自分が私たち人間の罪の身代わりに、十字架で裁かれ、尊い血を流し、贖いの供え物としていのちをささげて下さった。死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、罪と死に勝利されたのです。十字架の死と復活を通して、私たちの過去、現在、未来の全ての罪を赦して下さいました。そして、全く罪のない者として見て下さり、義として下さり、魂を救い、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。私たちは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白をし、この信仰の上に青葉台教会が、浦和教会が、ナザレン教会が建てられていることを信じて、この週もイエス様に信頼して、イエス様に全ての重荷を委ねて、お任せしてイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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