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江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(25年4月27日)

2025-04-27 12:39:00 | Weblog

日曜礼拝(復活後第一)       2025.4.27

    「何か食べる物がある?」 ルカによる福音書24章36節~49節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月第四の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。先週は、イースターの礼拝で、心からイエス様の復活の事実を覚えて感謝の礼拝をささげました。2名の受洗者と1名の入会者が与えられ、青葉台教会の新しいメンバーとして加えられました。3名の方々が、イエス様の恵みに溢れた信仰生活ができますように、祈り、先に救われた私たちもイエス様の恵みに溢れた歩みができますように、信仰生活を共に励んでまいりましょう。

 先週は、クレオパともう一人の弟子についてのお話しでした。クレオパともう一人の弟子は、共に歩んでおられたお方がイエス様だとわかり、急いでエルサレムに戻り弟子たちにイエス様の復活の事実を話したのです。今日は、その続きです。ルカによる福音書24章36節から49節を通して、「何か食べる物がある?」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、イエス様は信じない弟子たちに、ご自身の体を見せて証明された

 36節の「こういうことを話していると」というのは、前の節34節と35節にある「本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」というイエス様がペトロに現れた事、クレオパともう一人の弟子が復活のイエス様に出会ったことでしょう。それらの事を話していると、36節の続きには、「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」とあります。ヨハネによる福音書20章19節には、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」とあります。復活されたイエス様は、弟子たちの前に現れたのです。私たちの礼拝においても、イエス様は礼拝の真中に立ち、「あなたがたに平和があるように」「シャローム」と私たちに語っていて下さるのです。

けれども37節を見ると「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」とあります。リビングバイブルには、「だれもかれも幽霊を見ているのだと勘違いし、ぶるぶる震えています。」とあります。マタイによる福音書28章17節には、「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」とあり、弟子たちはイエス様が復活されたことを喜ばなかったということ、イエス様の復活を期待していなかったということを聖書が示しています。イエス様と3年と少し生活し、イエス様に訓練され、イエス様から直接に愛を受け、イエス様の数々の奇跡の業を見ながらも、イエスのすぐそばでイエス様の権威ある言葉、愛に溢れたことばを直接に聞きながらも、弟子たちは、イエス様の十字架の死によって、自分たちの描いていた思い、イエス様に王として、イスラエルをローマから解放していただいて、新生イスラエルの王イエス様に継ぐ地位を自分たち弟子たちが得て、この世的な権威を持つというような夢が吹っ飛んでしまい、今の自分たちには夢も目的も失われ、ただ悲しみと痛みの中にいたのです。その弟子たちは、イエス様の復活された体を見ながらも、イエス様から「あなたがたに平和があるように」と声をかけられても、喜びもしないし、感動もしなかったのです。誰もが、イエス様が復活されるということなど考えてもいなかった。想定していなかったということなのでしょう。

 38節を見ると、「そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」」とあります。リビングバイブルには、「なぜそんなに驚くのですか。 どうしてそんなに疑うのですか。」とあります。マルコによる福音書16章14節には、「イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」とあります。「不信仰とかたくなな心をおとがめになった。」のです。イエス様は弟子たちを叱りながらも、39節、40節には「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」と復活されたご自分の体をお見せになったのです。十字架で釘づけにされた手の跡を見せられたのです。十字架にかけられて死んだという紛れもない証拠でした。イエス様を幽霊だと思って恐れた弟子たちに、「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」と言われました。イエス様の復活の体は、触ることもできるし、肉も骨もある。復活の体は、幽霊のようなものではなく、肉も骨もあるが、栄光体なのです。イエス様は、復活されましたが、前と同じ人間の体ではなく、見えるし、肉も骨もあるけれども、弟子たちの隠れていた家に戸が閉められていても入って来られたのです。イエス様の復活を信じることができない弟子たちに、これでもか、これでもか、とお叱りはしながらも、弟子たちがイエス様の復活の事実を受け入れることができるように、「私を見て、見て」と御自分の体をお示しになったのです。復活した御自分を証明するためにイエス様の姿はとてもユニークです。イエス様は自らの復活について、あるいは自分が自分であることについて一所懸命に説明し証明しようとします。実に涙ぐましい努力でしょう。自分の顔を見ても、寝食を共にした弟子でさえ信じない。つい最近復活した自分に出会って大喜びだった三人の弟子(ペトロとクレオパともう一人の弟子)でさえも信じない。弟子たちとの押し問答のようです。「いや、あなたが先生であるイエスであることを証明するものを見せてください」と。そこでイエスは十字架に釘付けされた手足の傷跡を「これが証拠です」と見せられたのです。

 二、食べることが復活したことの証し

 41節を見ると、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。」とあります。イエス様は、十字架につけられる前の日、最後の晩餐の席での食事をしてから、十字架につけられ、墓に葬られて三日目によみがえるまで、何も食べていませんでした。お腹がすいていたのです。腹が減って、腹が減って仕方がなかったのでしょうか。クレオパとも一人の弟子と食事を共にしましたが、イエス様はパンを割いたらいなくなったのです。食べてはいないのです。ですから、「ここに何か食べ物があるか」と食べる物を求められたのです。それは、お腹がすいていたということも少しはあるでしょうが、それよりも、食べるという行為を通して、弟子たちに安心させてあげたかったように思うのです。今日の礼拝招詞は、マルコによる福音書5章43節の「イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。」という言葉でした。イエス様は死んだ少女をよみがえらされました。少女が死んだことを知っていた者たちは、少女が死んで生き返ったことに驚きました。生き返ったという事実をさらに明確にするために、イエス様は少女に食べ物を与えることを命じたのです。病気になって何も食べられない状態の子どもが、元気になって何かを口にして食べたら、親は安心するでしょう。食べるということが元気になったひとつの証しになるのです。そのようにイエス様は、復活されたことを明確に、弟子たちに示すために、「ここに何か食べ物があるか」と食べる物を求められたのです。42節、43節には、「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」とあります。死んでよみがえられたイエス様は、焼いた魚をむしゃむしゃと食べられたのです。イエス様は、焼いた魚を奇跡でたくさんにしたら、弟子たちは、かつてのパンの奇跡を思い出して、イエス様を信じたのかも知れませんが、イエス様は奇跡を起こすのではなくて、ただ焼き魚を食べただけでした。イエス様が焼き魚を食べるそのしぐさに、弟子たちは、かつてのイエス様との食事を思い出したことでしょう。イエス様は、焼いた魚を食べることで幽霊ではないことを示されたのです。

 イエス様が、「ここに何か食べ物があるか」と言われたのは、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」ということからでした。リビングバイブルには、「弟子たちは、うれしいにはうれしいのですが、まだ半信半疑です。心を決めかねて、ぼう然と突っ立っていました。」とあります。「喜びのあまりまだ信じられず」とはどういうことなのでしょうか。イエス様の復活はうれしくて喜ばしい事であるけれども、死んだイエス様が復活するということは本当なのかどうか、と半信半疑、半分信じて半分信じられないということなのです。「疑う」というのは、信じることと信じられないことの中間にあることなので、弟子たちは疑っていたということでしょう。復活というのは、驚くほどに素晴らしい出来事です。私たち人間の世界は、死んだら終わりですが、復活は私たち人間にはなかったものです。復活は畏れ多くて受け入れがたい内容でしょう。だからイエス様は、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。」のでした。ヨハネによる福音書では、漁に行っていた弟子たちのために、イエス様が朝食の準備をされたことが記してありますが、「イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」(ヨハネ21:12)とあります。

三、復活は聖書、神様の言葉を通して示されていた

 44節を見ると、「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」」とあります。キリスト者の復活信仰は、体験だけではないのです。弟子たちも、ただ肉体をもって復活されたイエス様だけにその信仰を持ったのではありません。聖書の言葉に、確かに 復活が預言されていたこと、聖書の約束が確かに、イエス様にあって実現したということによって、この後信仰が建て上げられていきます。45節、46節には、「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」とあります。イエス様は、十字架と復活は聖書が語ることであることを示しつつ、聖書の言葉を悟ることができるように、弟子たちの心の目を開いて下さいました。45節をリビングバイブルには、「イエスが弟子たちの心の目を開かれたので、彼らにも、やっと納得がいきました。」とあります。聖書の言葉を悟るためには、心の目が開かれることが必要です。それは、聖書の著者である聖霊の導きが必要であるということでしょう。イエス様ははっきりと、聖書が指し示していること、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」と語られたのです。47節、48節を見ると、「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」とあります。イエス様の名による十字架と復活、つまり福音が、あらゆる国の人々、全世界の人々に宣べ伝えられるのです。全世界の人々にイエス様の福音が宣べ仕えられるためには、弟子たちが証人ととされるのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)とイエス様が昇天される前に、弟子たちに語られた言葉でした。

49節を見ると、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とあります。「「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」(使徒言行録1:4-5)とこれも、イエス様が昇天される前に弟子たちに語られた言葉でした。弟子たちが、イエス様の十字架と復活、福音を全世界に伝えるためには、弟子たちが聖霊によって整えられることが絶対不可欠でした。聖霊に満たされなければ、聖霊の導きがなければ、イエス様の十字架と復活、福音を宣べ伝え、罪の赦しを与える悔い改めは起こらないのです。イエス様は、確かに、私たち罪人のために十字架にかかり、父なる神様に裁かれ、尊い血を最後の一滴まで流し、命をささげられたのです。私たちのために身代わりに死んで下さったのです。イエス様の十字架と復活によって、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪が赦され、きよめられ、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。

 私たちはイエス様の復活の体を見てはいませんが、聖書が示すイエス様の十字架と復活を信じて救いの恵みが与えられたのです。そして、これからもイエス様の十字架と復活、福音を通して、イエス様を信じて救われる方々が起こされて来るのです。それが、神様の御心、お心なのです。

 Ⅲ結論部

 イエス様は、「ここに何か食べ物があるか」と言われ、渡された焼き魚を食べられたのです。焼き魚を増やして奇跡を起こされたのではありませんでした。私たちキリスト者が、霊的な生き方をするようにとよく言われることがあります。霊的な生き方とは、この世離れした生き方をするわけではありません。霞(かすみ)を食べて生きるのではありません。旬の食材を選びながら、こだわりを持って料理をし、それを家族や友人と楽しみながら食べるという生活こそが神の恵みを喜ぶ霊的な生活と言えるのではないでしょうか。旧約聖書のコヘレト9章7節には、「さあ、喜んであなたのパンを食べ/気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」とあります。食べることへのこだわりや喜びがないことが、霊的なことではなく、復活されたイエス様がご自分の復活を示すためになされたことは食べるという日常の事でした。霊的に生きるということは、日常生活から離れて行くということではなく、私たちの日常生活の中で、会社や学校、社会の中で行われることだと思うのです。私たちがキリスト者として、信仰を持ってそこに生きることこそが、神様が臨んでおられることだと思うのです。

愛というものが、概念であれば、私たちにとって愛は意味がありません。愛は、愛するという行動を伴ったとき初めて意味があるのでしょう。そしてその愛するという行為は体を通して行われます。聖書には主イエス様が病人を癒された話が多くあります。イエス様は病人に優しい言葉をおかけになっただけではなく、実際に体に働きかけられたのです。体に対して愛を実践されました。癒されたのです。つまり体というのは、抽象的なものではなく、実際に愛し、愛されるという現実に生きる存在であるということです。 私たちの体は、愛を入れる器として存在しますし、また愛を受ける器として存在するのです。重い荷物を持って辛い思いをしている人に、口先だけで愛してると言っても意味はありません。小さな荷物の一個でも持ってあげる、そこに愛があります。疲れた家族のために、その人が好きな飲み物や食べ物をそっと準備をする、そこに愛があります。泣いている子どもをぎゅっと抱きしめてあげる時、子どもは愛を感じるのでしょう。そもそも私たちの体は神様がお造りになりました。神様が愛を持って創造されたのです。その体をもって私たちは愛を表現する者となれるのです。イエス様ご自身がその体に苦しみを受け、愛を示して下さいました。そしてまた愛と救いを示すために、体をもって復活して下さいました。復活は、人間の救いのために、罪からの救いのために、全ては神がご計画されていたことでした。そしてそのことはあらかじめ聖書を通して知らされていたことでした、神様が約束されていたことであり、神はその約束を果たされました。そして、その約束の希望に生きる力を与えられるのがイエス様の復活の出来事です。イエス様の復活は、神様の約束の成就であり、さらに与えられる約束への確かな希望です。そして、その約束は聖書を通して与えられたのです。私たちは、この週も聖書の言葉に触れて、聖霊によって心の目を開いていただいて、与えられた聖書の言葉を、神様の愛を私たちの体を通して、示して行こうではありませんか。復活されたイエス様は、いつも私たちと共におられ、私たちの歩みを守り導いて下さるのです。ですから、イエス様に全ての事をお委ねして、安心して歩んでまいりましょう。

 

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