日曜礼拝(三位一体後第六) 2024.7.7
「悪い奴ほどよく眠る」ヨナ書1:1~2:3
Ⅰ導入部
おはようございます。7月の第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。毎日暑い日が続いておりますが、皆さんはいかがでしょうか。熱中症は屋外よりも屋内のほうがかかりやすいようです。家の中にいても、水分をこまめに飲んで、冷房で部屋を涼しくしてお過ごし下さい。今日から日曜日午前の7時から早朝礼拝が始まりました。これからも暑くなりますので、朝の早い時間、昼間よりは少し涼しい時間に、早朝礼拝で共に礼拝をささげましょう。
今日は、7月7日七夕です。七夕は、織姫と彦星が年に一度再会する日と考えられています。七夕は五旬節のひとつで、縁起の良い陽数とされる奇数が重なる7月7日の夕べに行われるため七夕の節句というようです。笹を用いて行事をすることから、別名笹の節句と呼ばれているようです。そもそも、中国で誕生した織姫と彦星の七夕伝説と、織姫にあやかって機織りや裁縫の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」という行事が日本に伝わったのは奈良時代。これに日本古来の「棚機女(たなばたつめ)」という伝説などが結びついて、平安時代に宮中行事になりました。七夕が年中行事として庶民に浸透したのは江戸時代のことです。年に一度しか会えないという伝説は、悲しいものですが、私たちは、週に一度礼拝を通して神様に出会い、愛する方々と共に礼拝をささげることができますことを本当にうれしく思います。私たちは、短柵に願いを書かなくても、神様に祈りを通して願うことができるのです。祈りを通して、互いに神様の祝福を祈り合いたいのです。
今日は、ヨナ書1章1節から2章3節を通して、「悪い奴ほどよく眠る」という題で、お話し致します。
Ⅱ本論部
一、神様の愛が分からないヨナ
1章1節には、「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。」とあります。列王記下14章25節には、「主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナ」とあります。ガト・ヘフェルは、ゼブルン族の割り当ての地にあり、イエス様の育ったナザレの町から数キロにある地のです。ヨナは、北イスラエルの預言者であり、イスラエルのために預言を行い国が大きくなることを預言しました。数ある預言者の中で、その働きを放置して、逃げたのはヨナだけでした。2節には、「「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」」とあります。ニネベは、最初の権力者ニムロドによって建てられた町でした。3節を見ると、「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」とあります。預言者とは、神様の言葉に忠実に従って行動する人です。この度も、ヨナは神様の事をニネベの人々に伝える者として、神様のご命令を受けたのです。けれども、ヨナは、神様のご命令、ニネベに行くことから逃れようとニネベとは正反対のタルシシュに向かったのです。ニネベはイスラエルから東方の約900㎞離れた所です。東京から福岡県ぐらいの距離です。タルシシュは、スペイン南部にある町で、当時の世界の地の果ての西方の町で、イスラエルから約4000㎞の場所にある町でした。ニネベの町とは正反対の遥か遠い場所に行こうとした。放蕩息子が父の元からはるか遠い場所に行きましたが、それ以上の距離のある場所に逃げようとしたのです。ヨナは、どうして神様のご命令に従わなかったでしょうか。ヨナは、なぜアッシリアの首都ニネベの町の人々、異邦人に語らなければならないのかと感じたのでしょう。ヨナ以外の預言者たちは、イスラエルやユダに対して、つまりユダヤ人に対して語っている。預言者オバデヤは異邦人にも語りましたが、それは、裁きと破壊を語るように命じられたのでした。預言者ナホムは、ニネベが破壊されることを預言しました。ヨナは同じニネベについてですが、ニネベの人々が悔い改めて、救われるようにと遣わされるのです。異邦人が救われることは、ユダヤ人のヨナにとっては理解できないことでした。また、アッシリアという国は、残虐な国民で、アッシリアが強くなったのは、征服する時に残虐な行為を行い、周囲の国に見せしめとしたのです。ですから、周囲の国の人々は、恐怖によって降伏したのでした。そんな国の首都ニネベに行けと言われる神様のお心が、ヨナには理解できなかったのです。それは、神様がヨナ、ユダヤ人を愛しておられるように、異邦人をも愛しておられるということなのです。
二、神様の懲らしめではなく、神様の導き
神様は、ヨナに敵に神様の憐れみを伝えるようにということでした。イエス様が言われた「迫害する者のために祈れ」ということでしょう。ニネベの町には、12万人以上いたと4章の最後に記されています。そんな大勢の所に行って、「悔い改めなさい」という勇気がなかったのでしょう。ユダヤ人には語れても、異邦人には語りたくなかったのです。
3節には、「主から逃れようと」という言葉が2回繰り返されています。新改訳聖書では、「主の御顔を避けて」とあります。創世記3章には、アダムとエバが神様のご命令を破った時、神様が園の中を歩く音が聞こえた時、「アダムと女が、主なる神の御顔を避けて」(創世記1:8)とあるのと同じです。罪を犯した者、神様のご命令を破った者、神様に従えない者は、神様の顔を避けるようになるのです。今、あなたは神様の顔を避けるようなことがあるでしょうか。
ヨナは、ヤッファという港町に着くと、「ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」とあります。グッドタイミングでした。ヨナにしてみたら、こんなタイミングで、タルシシュ行きの船があって、「神様の御心はニネベではなく、タルシシュ行きなのではないか」と思わせるような状況だったのです。確かに、神様の時というものがあります。神様はタイミングよく、困っていたら助けが与えられたということがあります。神様のタイミングは勿論あります。しかし、タイミングだけで考えるなら、ヨナのタルシシュ行は神様の御心、神様の導きということになります。それをタイミングだけで、神様の導きとしてしまってはいけないのです。やはり、聖書の言葉、神様の言葉に聞くということです。神様の言葉は、御心は、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。」でしたから。神様の言葉を差し置いて、タイミングや状況を優先してはならないことを聖書は私たちに示しているように思うのです。ヨナは、大きな船、人ごみの中に隠れて、神様から逃げようとしました。「人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」とありますが、どのように多くの人ごみの中に埋没しようとも、神様の目から隠れることなどできないのです。4節、5節には、「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。」とあります。神様は、「大風を海に向かって放たれた」のでした。原文では、「そのとき主は、海に大きな風を投げつけた」とあります。神様のお心が現れているような表現です。神様から逃げたヨナに、神様が「大風を海に向かって放たれた」のです。神様のヨナに対する懲らしめとも考えられます。神様の言葉を語る務めを担っている預言者が、その使命を全うしないで、神様から逃げたのですから、神様に懲らしめられても仕方のない事です。しかし、これは、神様の懲らしめではなくて、ヨナを預言者として、神様の言葉を語る使命を実行させるための、神様の愛の導きだと思うのです。私たちも、神様のお心が理解できないで、神様に従えない時があります。神様の働きを放棄してしまうことがあります。そのような時、神様の懲らしめのような悪い事、病気になるとか、勉強や仕事がうまくいかないとか、人間関係が悪くなるということがあります。でも、それは神様の懲らしめではなくて、神様が私たちに再び、神様の尊い働きに戻すための導きであることを私たちは覚えたいのです。
三、弱さの中でこそ神様の力が働く
船乗りたちは、嵐のために恐れて、自分の信じる神様に助けを求め、積み荷を海に投げ捨てました。助かるための何らかの努力をしていたのです。一方、ヨナはというと、「しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。」と聖書は語ります。今日の説教題は、この箇所から「悪い奴ほどよく眠る」とつけました。「悪い奴ほどよく眠る」とは、1960年に公開された日本映画、黒澤明監督の作品です。公団の汚職で死に追いやられた父の復讐を果たそうとする男(三船敏郎主演)の姿を描いた作品です。真の悪人ほど、罪や罰を逃れて、淡々と生きているものだ、ということなのでしょう。悪人というほどではないでしょうが、まさに、ヨナの姿と重なりました。6節には、「船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」」とあります。ヨナこそ、預言者として、このような大変な時こそ、神様に助けを求める存在なのです。それを、船長から言われてしまうのです。7節を見ると、「さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。」とあります。くじを通して、災難はヨナのせいであることがわかりました。人々は、ヨナの仕事や住所、どこの国や民族の出身かを問いただしました。9節、10節には、「ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」
人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。」 ヨナは、ヘブライ人で天地を創造された神様を畏れる者で、その神様から逃げてきたことを告白し、人々は非常に恐れたのです。ヨナは、預言者として恥ずかしい経験をしました。私も、30年以上も前に、阪神高速道路で、制限時速60キロを105キロで走って、パトカーにつかまり、パトカー乗り、尋問されました。その時、「ご職業は」と聞かれて、「自由業」とは言わずに、「キリスト教の牧師です」と答えました。すると警察官は、「とてもいそいでおられたのでしょうね」と急にやさしくなりました。そして、プロテスタントとカトリックの違いを聞かれて、説明した覚えがありましたが、牧師として恥ずかしい経験でした。
人々は、ヨナを「どうしたらいいか」と尋ね、12節には、「ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」」とあります。そんなことはできないと船を陸に戻そうとしましたが、海が荒れてどうしようもないので、
人々は、「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」と言って、ヨナを海に放り込んだのです。すると、荒れ狂っていた海は静まったのです。16節には、「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」とあります。
ヨナが神様のご命令に従わないで、神様から逃げたために、多くの人々の命が危険にさらされました。ヨナも預言者として恥ずかしい経験をしました。ヨナのこの世に対する恥ずかしい経験ではありましたが、その失敗や問題を通しても神様は、「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」ということが起こりました。リビングバイブルには、「人々は主の前に恐れ、いけにえをささげて、主に仕えることを誓いました。」とあり、「主を畏れ」とは、神様を信じる者になったのです。ヨナの失敗、恥ずかしい事を通しても、神様はみ業を起こされたのです。私たちのキリスト者としてのこの世における失敗や恥ずかしい事を通しても、神様は神様のみ業をなさるお方であることを覚えたいのです。
Ⅲ結論部
2章1節には、「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」とあります。ヨナは、この嵐が自分の神様に従わなかったことであることを理解して、人々に海の放り込むように言いました。それは、自分の死を覚悟していたということです。預言者として、神様のご命令を無視して、逃げた自分は預言者として、神様の言葉を語る者としては失格者、ダメな預言者で死んで当然だと思っていた。しかし、神様は違いました。「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。」のです。神様はヨナを守られたのです。ヨナにはまだ使命があったのです。ヨナはあきらめても神様はあきらめないのです。「ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」とあります。パウロも、復活のイエス様に打倒され、三日間、目が見えず、食べも飲みもしない日を過ごしたのです。ヨナも三日間魚の腹の中にいました。「腹の中」の「腹」は「母の胎」を意味する言葉のようです。魚の腹の中で、新しい命が宿る。腹の中から新しいヨナが、生まれ出ることを意味しているのです。魚の腹の中は、「深い淵、滅びの穴、苦悩、闇と死の陰、黄泉、海の深み」を意味し、その中にヨナは置かれたのです。しかし、その中からヨナは新しくされるという希望があるのです。イエス様は、マタイによる福音書12章39節、40節で、「イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」」と語り、御自分の十字架の死と埋葬に関して語られました。イエス様は全人類の罪の身代わりに十字架で死んで三日間墓に葬られたのです。救い主なるお方が、墓の中におられた。罪を負われたのです。しかし、それで終わったのではなく、三日目に復活され罪と死に勝利されたのです。私たちは、イエス様の十字架の死と復活を通して、全ての罪が赦され、義とされ、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられたのです。
2節、3節を見ると、「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。」とあります。ヨナは自分の神様に対する態度で死を覚悟しました。けれども、神様は巨大な魚を通して助けて下さった。もう自分は神様に祈れないと思ったでしょう。しかし、神様から逃げる自分を、失敗した自分を、預言者としてふさわしくない自分を神様は目を留め守って下さった。その神様の愛に触れて、祈りをささげることができたのです。神様に従えないような預言者として風上にもけない自分を助けて下さった。神様から逃げて、神様から目を話していた目で、神様を見上げたのです。神様の深い愛に触れたのです。10節には、「救いは、主にこそある。」と告白しているのです。ここから新しい預言者ヨナが誕生するのです。11節には、「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。」とあり、ヨナは預言者として再び立つのです。
ヨナは、自分には何もよきものはありませんでした。預言者としてふさわしいものは何一つない。神様に責められる事柄ばかりです。しかし、ヨナの弱さや失敗、恥ずかしさを通しても、神様はご自身のためにみ業を起こし、救われる者を起こされるのです。もう誰もヨナを預言者として認めなくても、神様は認め、その働きに再び召されるのです。
私たちは、キリスト者としての信仰生活を送っています。しかし、家族や友人、知人の前で、「それでもクリスチャンか」と言われるような、思われるように失敗をしたり、神様の顔に泥を塗るような経験があり、キリスト者として恥ずかしい経験をすることもあります。与えられた奉仕を放棄したり、信仰から逃げたりすることもあります。自分で自分をキリスト者として、認めず、落ち込み、悶々とすることがあります。けれども、神様は、私たちを神の子として認め、私たちをキリスト者として回復させ、新しい歩みをさせて下さるのです。ヨナが告白したように、「救いは、主にこそある。」のです。私たちの信仰云々や努力や頑張りではないのです。何もできなくても、失敗ばかりでも、弱くてもいいのです。神様は私たちと共におられ、私たちを支え導き、守られるのです。逃亡者ヨナをいつも守り導かれたように、私たちが神様に目を留めず、背を向け、逃げ出しても、神様は私たちをつかんでいて下さるのです。神様の愛に触れさせて下さり、ヨナがそうであったように、神様を見上げ、神様に祈る者とさせて下さるのです。祈りの答えは、祈る人にはわかるものだからです。大丈夫。神様はあなたがどうであれ、あなたと共におられます。今週も、イエス様に目を留めて、イエス様を信頼して、イエス様に全ての重荷を委ねて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。